第5話 滑るという魔法
翌日、旧搬送庫の床には白い印が十数本並んでいた。
窓のない北側はまだ朝の冷たさを残し、外から入る日差しの中だけ埃がゆっくり舞っている。倉庫に染みついた古い油の匂いに、リシェルが持ち込んだ薬品の鋭い香りが混ざっていた。
「線から出ないでください」
リシェルが言う。
ユリウスは足元を見る。
石床に白墨で囲われた四角。
「俺の実験ですよね」
「だからです」
「信用ないな」
「昨日、私を転ばせかけました」
「転んでません」
「結果論です」
言葉だけなら冷たい。
けれど朝一番に滑り止め用の厚底靴を二足持ってきたあたり、彼女もやる気なのだろう。
ユリウスは昨夜集め直した材料を石台へ並べた。
古い荷車の車輪金具。
何十年も荷物を積んだ車輪の外周を支えていた鉄。
次に、倉庫の滑車軸。
最後は、廃業した織物工房でもらった古い織機の杼の金具。細長い板の上を何万回も往復していた部分だ。
どれも「動いた物」ではある。
けれど、それだけでは何かが足りない。
ユリウスは並びを変えた。
魔力を流す。
何も起こらない。
変える。
再び流す。
石台の上で滑車軸だけが回った。
「違う」
「何がです?」
「繋がってない」
「何と何が」
「分からないからやってるんです」
リシェルが息を吐く。
紙へ何か書いた。
たぶん今の発言まで記録された。
ユリウスは材料を見つめる。
車輪は回る。
滑車も回る。
杼は滑る。
全部、同じ方向ではない。
「回るもの同士を繋ぐんじゃなくて」
指先で順番を直す。
滑車軸。
車輪金具。
杼。
「動かすことを渡す?」
「意味が分かりません」
「俺もまだ半分しか」
「全部分かってから口にしてください」
「それだと一生喋れないかもしれません」
魔力を通した。
最初の鉄片が震える。
二つ目へ伝わる。
最後の金具が小さく跳ねた。
足元で、白墨の内側だけが光った。
青でも赤でもない。
薄い銀色が水面を走るように広がる。
ユリウスは一歩下がろうとした。
足が前へ出た。
止まらない。
「え」
靴底が床を掴まない。
体がそのまま滑っていく。
リシェルが腕を伸ばす。
掴む。
二人とも引っ張られる。
「ちょっ、待って」
「待てません!」
「足を上げて」
「あなたが先に!」
二人揃って床へ倒れた。
鈍い音が倉庫に響く。
少し遅れて材料の光が消えた。
沈黙。
天井の隙間で鳥が一羽鳴いた。
ユリウスは横向きになったまま、リシェルを見る。
彼女も床に倒れている。
髪がほどけ、頬に埃がついていた。
「大丈夫ですか」
「今、聞きます?」
「聞かないよりは」
リシェルはゆっくり起き上がった。
何も言わず、紙を拾う。
そして、ユリウスの記録欄へ大きく何か書いた。
「何て書いたんです」
「術者自身が最初の被害者」
「消してください」
「事実です」
少しだけ口元が動いている。
笑ったのかもしれない。
ユリウスが立ち上がる頃には、床の抵抗は戻っていた。
靴底が石を掴む。
材料を見る。
三つとも色が薄い。
でも形は残っている。
「消えたのは」
ユリウスはしゃがんだ。
床を撫でる。
「滑りにくさ?」
リシェルがすぐ横へ来た。
「摩擦を減らした可能性があります」
「まさつ」
「物同士が触れた時、動きを妨げる力です」
「それがなくなると滑る」
「完全に消えたとは考えにくいですが。少なくとも、かなり弱くなった」
ユリウスは材料を見る。
火を出したわけでもない。
水を作ったわけでもない。
床を凍らせたわけでもない。
ただ、そこにある「滑りにくさ」を奪った。
「こんなのも魔法なんですか」
「あなたが聞きますか?」
「定式魔法には?」
リシェルは少し考える。
「似た補助術式はあります。荷物を滑らせるために空気膜を作るものや、氷を薄く張るもの。ただし摩擦そのものへ干渉しているなら、少なくとも私は知りません」
胸の奥で何かが鳴った。
昨夜の《熱》と同じだ。
火を作るのではない。
冷気を作るのでもない。
今度も、新しい何かを生み出したわけではない。
元からあるものを、別の状態へ移している。
その考えはまだ細すぎて、掴めば切れそうだった。
*
昼過ぎ、実験は突然終わった。
倉庫の外から馬のいななきと、誰かの叫び声が聞こえた。
「避けろ!」
ユリウスとリシェルが外へ出る。
街道を荷車が横倒しになっていた。
果物籠が砕け、赤い実が石畳を転がっている。
その向こう。
灰色の獣が低く頭を下げていた。
肩まで人の胸ほどある。
猪に似ているが、鼻先から生えた一本角は石のように太く、首から背中へ続く毛は硬い針の束に見えた。
灰角猪。
山から下りてくることのある魔獣で、走り出せば木の柵程度ならそのまま突き抜ける。
「どうして街の中に」
リシェルが息を詰めた。
猪の後ろには壊れた運搬檻が転がっている。
誰かが捕獲した個体を運んでいたらしい。
灰角猪が地面を掻く。
石畳へ爪が食い込む。
正面には、倒れた荷車の陰で動けなくなっている男がいた。
「リシェル」
「分かっています」
彼女が杖を抜く。
杖頭の小さな術具が開き、あらかじめ刻まれた定式術式へ魔力が走る。
風が集まった。
「《風圧》!」
空気の塊が灰角猪へぶつかる。
獣の体が横へずれた。
だが倒れない。
怒った。
明らかに。
角がこちらへ向く。
「まずい」
「二度目を」
リシェルが杖を構える。
灰角猪が走り出した。
速い。
石畳を打つ蹄が近づく。
ユリウスの視線が、倉庫の中へ向いた。
実験台。
材料。
滑った床。
考えるより先に足が動いた。
「ユリウス!」
倉庫へ駆け込む。
石台から三つを掴む。
滑車軸。
車輪金具。
杼。
外へ戻る。
灰角猪はもう近い。
並べる場所。
時間がない。
石畳へ膝をつき、獣の進路上へ三つを置く。
「何を」
「さっきのです」
「範囲は?」
「分かりません」
「持続時間!」
「それも」
リシェルが目を閉じたくなるような顔をした。
灰角猪の鼻息が聞こえる。
ユリウスは最初の鉄片へ指を押し当てた。
魔力を通す。
反応しない。
「来い」
もう一度。
鉄片が震えた。
次へ。
最後へ。
薄い銀光が石畳を走る。
灰角猪の前脚が、その上へ乗った。
蹄が滑る。
巨体の勢いだけが前へ残った。
前脚が横へ開き、角が下がる。
獣の目が見開かれる。
体が傾く。
時間がゆっくり伸びた。
右肩が地面へ当たる。
石片が飛ぶ。
角が石畳を削り、火花を散らした。
それでも勢いは止まらない。
横倒しになった灰角猪が、倒れた男へ向かって滑っていく。
「まだ止まらない!」
ユリウスが立ち上がる。
どうする。
滑らせただけだ。
転ばせた。
それで終わっていない。
その時、視界の左から誰かが入った。
赤茶色の髪。
金属鎧。
大剣。
女が一歩踏み込み、滑ってきた灰角猪へ盾を斜めに差し込んだ。
ぶつかる。
重い衝撃。
盾の表面を何本もの古い修理痕が走っている。
女の靴が石畳を削った。
体は下がる。
でも倒れない。
「ずいぶん面白い転ばせ方するじゃないか!」
歯を食いしばったまま叫ぶ。
大剣を片手で抜いた。
灰角猪が起き上がるより早く、柄尻で角の根元を打つ。
獣の首が落ちる。
二撃目。
刃ではない。
剣の腹を叩き込む。
灰角猪の体が横へ転がった。
今度こそ動かなくなった。
静かになる。
果物が一つ。
石畳を転がり、ユリウスの靴へ当たって止まった。
女が大剣を肩へ担ぐ。
「で」
息を整えながら、こちらを見る。
「今の、何だ?」
ユリウスは手元の白くなりかけた材料を見た。
「俺も知りたいです」
女の眉が上がった。




