第4話 同じ古さでは、足りない
朝の南工区には、昨夜とは違う静けさがあった。
雨は上がっていたが、崩れた建物の窪みにはまだ濁った水が溜まり、薄い雲を映している。冷えた石と湿った鉄の匂いに、焦げた魔導油の甘苦い臭気が残っていた。日の光は東側の壁を越えきれず、事故現場の半分だけが青白い影の中に沈んでいる。
ユリウスは割れた魔導管の前にしゃがんだ。
腕ほどの太さがある黒鉄の管には、表面を這うように銀色の術線が刻まれている。工房や公共施設では、この中へ水や熱媒を通し、外側の定式術式で温度や圧力を制御する。魔法そのものを詰め込んだ管ではない。人が血管を持つように、大きな設備の中を必要なものが巡るための道だった。
裂けた継ぎ目へ指を近づける。
昨夜の熱は、もうない。
「触っても大丈夫です」
背後からリシェルの声がした。
「検査は終わりました。残留魔力も基準以下です」
「先に言ってください」
「あなたが手を出す方が早かったので」
振り返ると、リシェルは昨日と同じ濃紺の外套を着ていた。眠ったのか怪しい顔をしているのに、髪だけはきちんとまとめられている。
手には薄い金属板があった。
王立魔術院で使われる検査用の術具らしい。
掌より少し大きい銀板に細かな術式が彫られ、対象物へ当てると刻線の一部が淡く光る。定式魔法の起動や測定、出力調整を助けるこうした器具をまとめて術具と呼ぶのだと、ユリウスは説明を聞くより先に使い方を見て理解していた。
「何か分かりました?」
「昨日と同じです」
リシェルは銀板を魔導管へ当てる。
薄い青光が端から中央へ走った。
「冷却術式に損傷なし。管内の圧力計にも異常なし。熱媒そのものにも変質はありません」
「じゃあ、止まる理由がない」
「理論上は」
またその言葉だった。
ユリウスは裂けた管から視線を外し、少し離れた床を見る。
そこには救助隊が使った《浮上》の術式跡が残っている。
《浮上》は人を空へ飛ばすような魔法ではない。倒木や瓦礫、荷物のような重量物を短時間だけ持ち上げ、下に人や器具を入れる隙間を作るための実務術式だった。
現場仕事では珍しくない。
だからこそ、それが止まったことの方が珍しい。
「定式魔法って」
ユリウスは管を見たまま口にした。
「ちゃんと作ったら、基本的には誰が使っても同じなんですよね」
リシェルが眉を上げた。
「今さらそこから確認しますか?」
「魔術院の人に聞いた方が間違いないので」
少しだけ不満そうな顔をしたあと、彼女は検査板を下ろした。
「術式の構造と手順、使用する魔力量、出力の基準まで一定の形にまとめられたものが定式魔法です。訓練は必要ですが、適性さえあれば別の術者でもほぼ同じ結果を出せる。その再現性があるから、工房でも治療院でも水道設備でも使われています」
学校で習う火球の術式も、工房の冷却術も、救助隊の《浮上》も同じ枠組みの中にある。
完成した手順。
誰が使っても、同じように動くもの。
「俺のは全然違いますね」
「比較する段階にありません」
「そこまで言います?」
「三回成功して十回以上失敗しているのでしょう」
「数えたんですか」
「あなたが昨夜渡した記録に書いてありました」
「人の記録を勝手に」
「渡されたので読みました」
正しい。
ユリウスは反論をやめた。
リシェルが事故現場の奥へ歩いていく。昨夜ハルドが挟まれた鉄骨の前で足を止め、一度だけ視線を落とした。
「メイセン班長は?」
「今朝、治療院へ寄りました。寝てました」
「そうですか」
それだけ言った。
けれど彼女の肩がほんの少し下がったのを、ユリウスは見た。
*
午後、二人は南工区から少し離れた旧搬送庫へ向かった。
使われなくなって十年以上になる倉庫で、屋根の一部は剥がれ、午後の日差しが斜めの柱になって床へ落ちている。乾いた麻袋と古木、それに長年染みついた油の匂いがした。
ユリウスは天井近くを指した。
「欲しいのは、あれです」
巨大な滑車がぶら下がっている。
昔、穀物袋を二階へ上げるために使われていたものだった。車輪の中央には黒く磨耗した鉄軸が通り、その下には腐りかけた縄が垂れている。
リシェルが見上げる。
「また廃材ですか」
「ここでは宝です」
「所有者の許可は」
「取りました」
「意外です」
「どういう意味です?」
答えない。
ユリウスは梯子を立てた。
滑車の鉄軸を外すのに、思ったより時間がかかった。
何十年も回ってきた部分は黒く滑らかになり、指で触れると中央だけがわずかに細い。鉄そのものが削れたのではなく、気の遠くなるほど繰り返された擦れで形を変えていた。
下へ降りる。
同じ倉庫には、ほとんど同時期に作られた鉄棒も残っていた。
壁を補強するために固定され、一度も動かされていない物だ。
リシェルが二本を並べた。
「材質はほぼ同じです」
「年数も」
「記録が正しければ、製造時期の差は二年以内です」
「だったら試せますね」
二人は倉庫の隅にある石台へ向かった。
ユリウスは滑車軸から欠片を切る。
壁の補強材からも同じ程度の量を切る。
それぞれへ同じ量の魔力を流した。
補強材は何も起こさない。
滑車軸の欠片は、指先の下でかすかに震えた。
リシェルが顔を近づける。
「もう一度」
「壊れたらこれしかないですよ」
「まだ軸の半分以上残っています」
「そういう問題じゃないんです」
「では何の問題です?」
「もったいない」
リシェルが黙った。
「研究者になるなら、その癖は直した方がいいと思います」
「研究者になるとは言ってません」
「朝から事故現場を調べて、午後に廃倉庫で古い鉄を切っている人が?」
言い返せなかった。
ユリウスはもう一片削った。
同じ反応。
次は、滑車軸の端。
魔力を通す。
こちらは弱い。
中央。
強い。
端。
弱い。
リシェルが紙を取り出した。
立ったまま文字を書いている。
妙に綺麗だった。
「回転回数の差でしょうか」
「中央の方がずっと擦れてる」
「つまり古さだけではない」
ユリウスは、手の中の鉄片を見た。
同じ頃に作られた。
同じ材質。
同じ倉庫にいた。
それでも違う。
一方は何十年も回った。
一方は何十年も壁に固定されていた。
時間が同じでも、その間にされたことが違う。
胸の奥で、ばらばらだったものが少しだけ寄った。
まだ形にはならない。
触れれば逃げる程度の輪郭だ。
「古いからじゃない」
口にすると、リシェルの筆が止まった。
「何がです」
ユリウスは鉄片を指先で転がした。
「長く置いてあったから反応するんじゃない。こいつが何をされ続けたかなんじゃないですか」
リシェルはすぐには返さなかった。
滑車を見上げる。
そこへ伸びる古い縄。
床に残る荷車の轍。
時間だけなら全部同じ場所に積もっている。
けれど鉄軸に残ったものと、壁の金具に残ったものは同じではない。
「仮説としては」
リシェルがゆっくり言う。
「今までで一番まともです」
「褒めてます?」
「かなり」
そうは聞こえなかった。
*
夕方まで、二人は材料を替え続けた。
古い扉の蝶番。
水車の軸。
荷車の車輪留め。
使われなかった予備部品。
似た材料でも、反応は揃わない。
むしろ使われ続けた物ほど、何かが返ってくる。
けれど「使われた」だけでも足りないらしい。
扉の蝶番は震える。
水車軸は指先から逃げるように転がった。
古い荷車の車輪金具へ触れた時には、石台の上で金具が突然滑った。
「あ」
ユリウスが手を出した。
掴めない。
金具はするりと指先を抜け、石台の端から落ちる。
床へ当たり、乾いた音を立てた。
リシェルが拾おうとする。
その靴先がわずかに滑った。
「危ない」
ユリウスが腕を掴む。
リシェルは踏み止まった。
二人で床を見る。
油はない。
水もない。
なのに、金具が落ちた周囲だけ妙に滑る。
ユリウスが慎重に靴底を押し当てる。
抵抗が薄い。
氷より少し強い程度。
「何をしました?」
「何も」
「あなたは毎回そう言いますね」
「本当に分からない時しか言ってません」
「それが多すぎます」
数歩分だけ。
床が滑りやすくなっている。
時間が経つと戻った。
ユリウスは落ちた鉄片を見る。
白くなっている。
完全には崩れていないが、表面の色が明らかに薄い。
「これ」
しゃがみ込む。
「使い切ってない」
リシェルも隣へ来る。
「昨日の材料とは違う」
「反応が弱かったから?」
「あるいは、使った量が少なかった」
二人とも同時に口を閉じた。
答えが増えたのではない。
分からないことが増えただけだった。
それなのにユリウスの指は、床に落ちた鉄片から離れなかった。
今度は、少し面白かった。




