第3話 完成された魔法が、止まった日
南工区へ近づくにつれ、空気の匂いが変わった。
雨上がりの土と石の匂いに、焼けた金属と魔導油の刺激臭が混ざっている。低い雲の隙間から夕日が差し、崩れた工区の鉄骨だけを赤く照らしていた。
救助隊が走り回っている。
怒鳴り声。
金属の軋み。
誰かが術式を詠唱する声。
その全ての間に、妙な空白があった。
魔法が続かない。
青い結界が現れる。
揺らぐ。
消える。
もう一度現れる。
「第三支柱、固定!」
術者が叫ぶ。
床の術式が青白く光った。
倒れかけた支柱が止まる。
ユリウスが息をついた、その直後だった。
光が消えた。
支柱が落ちる。
「下がれ!」
鈍い衝撃が地面を揺らした。
石片が跳ねる。
ユリウスは腕で顔を庇った。
頬に小さな何かが当たる。
痛みを確認する暇もなく、ハルドが横を走り抜けた。
「こっちだ!」
「班長!」
「二人残ってる!」
崩れた架台の奥。
若い作業員が一人、鉄骨の下で動けなくなっている。
その手前にハルドが入る。
「おい、聞こえるか!」
作業員が返事をする。
声はある。
だが上に乗った鉄骨を動かさなければ出せない。
救助魔術師が術式を展開する。
「《浮上》を合わせます! 三、二――」
光が広がった。
鉄骨が浮く。
数センチ。
ハルドが身体を滑り込ませる。
その瞬間、光が切れた。
鉄骨が落ちた。
時間が一度だけ、妙に遅くなった。
ハルドが作業員を押す。
自分の肩を入れる。
鉄骨の端が傾く。
誰かが叫んだ。
音は聞こえたのに、言葉として頭へ入ってこない。
鉄骨がハルドの背へ落ちる。
完全には潰さなかった。
隣の瓦礫が支えた。
それでも彼の身体が沈み、息が喉から押し出される音がした。
「班長!」
ユリウスは走った。
足元の破片を踏み、滑りかける。
救助員に止められる。
「近づくな! 支柱が持たない!」
「ハルドさんが」
「分かってる!」
再び《浮上》を展開する。
光る。
消える。
術者の顔が青ざめた。
「術式は合ってる」
誰に言うでもなく呟いている。
「何でだ。魔力も足りてるのに」
ユリウスはその言葉を聞いていた。
術式は正しい。
魔力もある。
それでも動かない。
少し離れた場所で、破裂音がした。
全員が振り返る。
崩れた魔導管。
内部から橙色の光が漏れている。
冷却術式も切れていた。
「まずい、圧力が上がってる!」
誰かが叫ぶ。
もし管が破裂すれば、ハルドたちのいる場所まで熱風が届く。
冷却魔法を展開する。
青い光。
一瞬。
消える。
ユリウスの喉が乾いた。
完成された魔法が、何の理由もなく止まっている。
昨日までなら、考え続けただろう。
なぜ。
どこが違う。
何が足りない。
でも今は考える順番が違った。
先に止めなければならない。
肩に掛けた鞄を開く。
指が木箱へ触れる。
昨夜使った物の残り。
パン窯石。
井戸鎖。
冷蔵倉庫の金具。
全部を持ち歩いていた。
もう一度試すために。
「ユリウス」
横にリシェルがいる。
息を切らしていた。
「何をするつもりです」
「昨日のを使います」
「再現できていないでしょう」
「できてません」
「成功率は?」
答えようとして止まった。
数字など出したことがない。
今朝だけで何度も失敗している。
「分かりません」
リシェルの眉が動いた。
「分からない物を、この状況で使うんですか」
「他にあります?」
彼女が魔導管を見る。
冷却術式がまた消える。
橙色が強くなる。
返事はなかった。
ユリウスは床へ膝をついた。
手が震えている。
石から欠片を削る。
鑿の先が一度滑った。
普段なら使わない欠け方だった。
やり直す時間はない。
鎖を切る。
昨夜使った部分より上。
井戸の中で何度も引き上げられていた場所。
金具。
一瞬、頭が真っ白になる。
昨夜の机。
窓の雨。
冷えた水杯。
鎖を逆にした。
金具は。
「違う」
並べ直す。
リシェルが横へしゃがんだ。
「何が違うんです?」
「向きです」
「材料に向き?」
「たぶん」
「また、たぶんですか」
「今はそれしかないです」
石。
鎖。
金具。
床へ直接置く。
瓦礫の振動で小さな欠片がずれた。
指で戻す。
魔導管が軋む。
一秒。
二秒。
背中に汗が流れる。
空気は冷えているのに、手のひらだけ熱かった。
「班長!」
奥から声がする。
返事はない。
ユリウスは石へ指を置いた。
魔力を流す。
何も起きない。
胃の奥が沈む。
強くする。
石の亀裂が赤く光る。
鎖片が震えた。
「来た」
水分の残った床が白く曇る。
周囲の空気が冷える。
リシェルが息を止めたのが分かった。
魔導管の橙色が弱くなる。
ほんの少し。
「熱が」
リシェルが魔導管と石を交互に見る。
「移ってる?」
ユリウスは答えなかった。
答える余裕がない。
石が急速に赤くなる。
昨夜よりずっと強い。
周囲から熱を奪っている。
魔導管の温度が落ちる。
一度で全部は無理だ。
でも破裂するまでの時間は延びる。
「今です!」
ユリウスが叫んだ。
救助隊が動く。
魔法ではない。
三人が鉄棒を差し込む。
別の者が滑車を引く。
途切れる《浮上》も、動いている瞬間だけ使う。
数秒。
鉄骨が持ち上がる。
「引け!」
作業員が引きずり出される。
次にハルド。
血が服の背を濃く染めている。
顔色が悪い。
それでも息はある。
ユリウスの肩から何かが抜けた。
その瞬間、石が割れた。
白い粉になる。
鎖。
金具。
全部崩れた。
冷えた空気が戻ってくる。
魔導管の温度も、また少しずつ上がり始める。
「もう一回できますか」
救助員が聞いた。
ユリウスは残った材料を見る。
まだある。
だが同じ結果になる保証はない。
「できます」
口から先に出た。
リシェルが横を見る。
「できます、ではなく」
「やります」
言い直した。
もう一組。
石。
鎖。
金具。
今度はリシェルが欠片を押さえた。
「ここですか」
「そこ。向きは反対」
「先に言ってください」
「すみません」
魔力を流す。
二度目は一度目より早く反応した。
どうしてかは分からない。
今は、それでよかった。
*
夜。
治療院の廊下には薬草と消毒酒の匂いが漂っていた。
窓の外では雨がまた降り始めている。
ユリウスは長椅子に座り、両手を見ていた。
爪の隙間に白い粉が残っている。
洗ったはずなのに取れない。
正確には、取れているのかもしれない。
見えている気がするだけだった。
ハルドは死ななかった。
背骨にも致命傷はない。
ただし肋骨が折れ、肩をひどく傷めている。
しばらく現場には戻れない。
自分が魔法を使ったから助かった。
そう言われた。
だから何だと思った。
もっと早く使えていれば。
最初から仕組みを分かっていれば。
定式魔法が止まると知っていれば。
考えていると、扉が開いた。
「入れ」
ハルドの声だった。
弱い。
それでも命令口調だけは変わらない。
病室へ入る。
ハルドは上半身を布で固定されていた。
顔に傷もある。
「酷い顔だな」
先に言われた。
「班長の方が酷いです」
「怪我人に言うことか」
「そっちから言ったじゃないですか」
しばらく黙った。
窓を叩く雨音だけが続く。
ユリウスは謝ろうと思った。
何に対してかは、うまく説明できない。
口を開いた時、ハルドが先に言った。
「お前が止めたんじゃねえぞ」
ユリウスは何も言わない。
「魔法だ。止まったのは」
「分かってます」
「分かってる顔じゃない」
ハルドは息を吐いた。
痛むのか、途中で眉をしかめる。
「俺たちは壊れた後を片付ける。お前もずっとそうしてきただろ」
「はい」
「だったら今回も同じだ」
ユリウスが顔を上げる。
「壊れた理由を見ろ」
ハルドの目はいつもと同じだった。
現場で使えない物を見つけた時の目。
余計な慰めはしない。
「次も一秒で戻るとは限らん」
その言葉が腹の奥へ沈んだ。
次。
次がある。
また止まるかもしれない。
今度は誰かが鉄骨の下に入っている時かもしれない。
治癒魔法の途中かもしれない。
街を守る結界かもしれない。
「調べます」
「そうしろ」
「原因が、普通の事故じゃなかったら」
「それも調べてから悩め」
少しだけ笑ってしまった。
ハルドが怪訝な顔をする。
「何だ」
「いつも通りだなと思って」
「怪我して性格まで良くなると思ったか」
「少し期待しました」
「帰れ」
病室を出ると、廊下の壁にもたれてリシェルが待っていた。
手には事故記録。
「術式を全部確認しました」
ユリウスは立ち止まる。
「どうでした」
「異常なし」
「供給魔力は」
「十分でした。術者側にも問題なし。魔導管の冷却術式も、支柱固定も《浮上》も同じです」
彼女の指が記録用紙を少し強く握った。
「理論上は、止まりません」
「でも止まった」
「はい」
リシェルは少し間を置いた。
いつもならすぐ続く言葉が出ない。
それだけで、昼間までとは何かが変わったのが分かった。
「分からないんです」
小さな声だった。
ユリウスは彼女を見る。
王立魔術院の魔術師。
術式を正式に学び、魔法を説明する側にいる人間。
その口から出た「分からない」は、白い粉より少しだけ重く聞こえた。
ユリウスは鞄から小さな瓶を取り出した。
今日使った材料の残り。
白い粉。
「俺の方も分からないです」
リシェルが瓶を見る。
「でも、あなたの魔法は動いた」
「魔法かどうかも、まだ分かりません」
「では、確かめるしかありませんね」
ユリウスは雨の向こうを見た。
街の灯りが滲んでいる。
あの一つ一つにも魔法が使われている。
暖房。
水道。
治療院。
荷車。
工房。
普段は止まることなど考えもしない。
完成されたものだと思っていた。
自分が作ったものは不格好だった。
材料を床へ並べ、向きを何度も間違え、一回使えば白い粉になる。
それでも今日、そちらだけが動いた。
次に止まった時。
今度は誰かが死ぬかもしれない。
喉の奥に残っていた焦げた匂いを、ゆっくり飲み込んだ。
知るしかない。
魔法をどう使うかではなく。
もっと手前から。
魔法が、何でできているのかを。




