第36話 火が弱い街
セレスティアの港へ入った時、最初に見えたのは白だった。
雪ではない。
海面を漂う薄い氷。
岸壁へ張りついた霜。
港を囲む倉庫の屋根にも、係留柱にも、船を引く鎖にも白い膜がついている。
空は晴れていた。
けれど日差しに暖かさがない。
青白い光だけが海面へ反射し、目を細めたくなるほど眩しいのに、頬へ当たる風は刃物のように冷たかった。
甲板へ出たユリウスは、一歩目で立ち止まった。
「寒い」
「見れば分かる」
ガロが横で言う。
昨日まで死んだ魚のような顔をしていたのに、陸が見えた途端かなり戻っている。
「元気になりましたね」
「地面がある」
まだ船上だが。
ガロにとっては十分らしい。
セラは厚い外套の前を閉じながら、港の建物を見ていた。
「この国、全部こんな寒さか?」
リシェルが答える。
「沿岸部はまだ穏やかな方です。北へ行けばもっと下がります」
セラが黙った。
ユリウスも黙る。
ガロだけが、
「帰るか」
と言った。
「お前が言うのか!」
セラが振り向く。
昨日まで船から逃げたがっていた男である。
◇
港へ降りた瞬間、靴底が滑った。
ユリウスの身体がわずかに傾く。
横からセラが襟を掴む。
「着いて十歩で転ぶな」
「凍ってるんですよ」
「見れば分かる」
「今日それ多くないです?」
足元。
石畳の隙間に薄い氷が張っている。
ただし港全体が凍っているわけではない。
中央の道だけ、雪も氷も溶けていた。
その両脇には金属製の細長い板が埋め込まれ、一定間隔で淡い橙色の光を放っている。
リシェルが気づいた。
「路面保温式」
ユリウスがしゃがむ。
「道路に?」
「はい」
セレスティアでは珍しくないらしい。
地面の下へ熱媒用の魔導管を通し、定式魔法で温度を一定範囲に保つ。道路を暖めるためというより、氷結を防ぎ人や荷車が通れる状態を維持するための設備だった。
火山地帯では熱を逃がすために魔法を使っていた。
ここでは逆。
熱を逃がさないために使っている。
国が変われば、同じ魔法でも生き方が違う。
ユリウスは金属板へ手を近づけた。
ほんのり暖かい。
「触らないでください」
リシェルが言う。
「触ってません」
「今から触る顔でした」
最近、顔だけで行動を止められる。
◇
港町ローディア。
セレスティア南部最大の玄関口。
家々は石造りで、窓が小さい。
屋根は急な角度を持ち、雪が溜まりにくい形になっている。
道沿いの建物には、どこも太い魔導管が走っていた。
壁の中へ入り。
また別の建物から出る。
共同浴場。
宿。
診療所。
倉庫。
市場。
魔法で火を作るのではない。
街全体で熱を運び、留め、必要な場所へ分けている。
ユリウスは歩きながら何度も振り返った。
「前見ろ」
セラが言う。
「でも、すごくないですか」
「何が」
「この街」
「建物?」
「熱の使い方」
火を焚けば暖かくなる。
それだけならどこでも同じ。
けれどここでは、火を作ること以上に熱を失わない仕組みが重要だった。
窓。
壁。
配管。
保温術式。
全部が同じ方向を向いている。
寒さの中で暮らすために。
リシェルが少し笑った。
「あなた、珍しく廃材以外を見ていますね」
「それは失礼ですよ」
「事実です」
「街全体が材料に見えてるだけじゃないか」
セラが言った。
ユリウスは否定しようとして。
やめた。
少しだけ、そう見えていた。
◇
王立魔術院の紹介状を見せると、港湾庁から案内役がついた。
名をエディンという。
四十代くらいの痩せた男で、厚い毛皮の上着を着ている。
「皆さんには、まず市の熱管理局へ行っていただきます」
「熱管理局?」
ユリウスが聞く。
「街の保温設備と給湯、それから倉庫冷却までまとめて見ています」
「暖めるのと冷やすのを同じところで?」
「熱は同じですから」
エディンは当たり前のように言った。
ユリウスの足が少し遅くなる。
熱は同じ。
暖房も冷却も。
熱をどこへ置くかが違うだけ。
《熱渡し》。
《熱脈》。
自分たちが遠回りしながら見つけた考えを、この国では生活の感覚として知っている。
もちろん仕組みは違う。
定式魔法。
でも。
入口が違うだけで、見ている現象は近い。
「面白い」
小さく呟く。
エディンが振り返る。
「何がです?」
「この国です」
セラが横から言う。
「まだ港しか見てないぞ」
「だからです」
よく分からないと言いたげな顔をされた。
◇
熱管理局へ着く直前。
通りの魔法灯が一度だけ暗くなった。
ほんの一瞬。
誰かが気づくかどうかという短さ。
でも四人は止まった。
次に。
路面の橙色の術線が薄くなる。
一秒。
二秒。
戻る。
エディンも足を止めた。
顔つきが変わる。
「またか」
リシェルがすぐ聞く。
「最近多いんですか」
エディンは少し迷った。
「先月から」
「頻度は?」
「最初は週に一度あるかどうか。今は」
言葉を切る。
「一日に何度か」
リシェルが何も言わなくなる。
ユリウスは足元を見る。
路面はもう暖かい。
何事もなかったように。
でも。
細い氷が一筋だけ、金属板の端へ残っていた。
◇
熱管理局は、街の中心部にある大きな石造建築だった。
地下へ入る。
そこでユリウスは足を止めた。
管。
管。
管。
壁。
天井。
床下。
太い魔導管が何十本も走っている。
それぞれに識別板。
温水。
熱媒。
冷却。
排水。
蒸気。
表面の術線が淡い色で光っている。
中央には大型の制御盤。
技師たちが何人も立ち、圧力計や温度計を確認していた。
空気は外より暖かい。
金属と油。
湿った蒸気。
熱媒に使われる魔導油の少し甘い匂い。
服の内側へ残っていた冷気が、ようやく溶けていく。
「問題箇所は?」
リシェルが聞く。
局長らしい白髪の女性が答える。
「問題箇所が分からないのが問題です」
また同じ言葉。
壊れていない。
なのに止まる。
「個別設備ではない?」
レオルの報告書と同じ確認。
「同じ瞬間に複数系統が落ちます。道路、住居、倉庫、治療院。完全停止ではなく出力低下が多いですが」
女性は制御盤を見る。
「この国では、それでも危険です」
ユリウスも周囲を見る。
外は氷点下。
暖房が弱くなる。
水道が凍る。
道路が凍る。
治療院の魔法まで落ちる。
王都では不便だったものが。
ここでは生命に近い。
◇
突然。
警報鐘が鳴った。
高い音。
一回。
二回。
技師たちが一斉に動く。
「北三区、熱圧低下!」
「共同住居の保温、三割!」
「病院系統も落ちてます!」
白髪の局長が声を張る。
「補助炉を起動!」
術式板が次々に点灯する。
青。
橙。
白。
それでも数値が戻らない。
リシェルが制御盤へ近づく。
「魔力供給は?」
「正常!」
「入力はある?」
「ある!」
「ならどうして」
声が止まった。
分からない。
また。
その間にも。
北三区。
寒さの中。
人がいる。
◇
外へ出た。
風がさっきより強い。
保温術式が弱った区域は、同じ街とは思えなかった。
道が白い。
数分前まで溶けていた雪が、もう薄く固まり始めている。
家々の窓に霜。
吐く息が濃い。
住民が毛布を抱えて共同暖房所へ移動していた。
子ども。
老人。
足の悪い人。
セラがすぐ前へ出る。
「運ぶぞ」
「どこへ」
「暖かいところだろ」
単純。
でも正しい。
ガロも無言で老人の荷物を持つ。
ユリウスも動こうとする。
その時。
リシェルが立ったままだった。
目の前の家。
窓の内側。
白く曇っている。
「リシェル」
呼ぶ。
反応が遅い。
「ここでは」
声が小さい。
「止まったら、本当に」
続きを言わなかった。
ユリウスは何も答えない。
代わりに毛布の束を一つ渡す。
「行きましょう」
リシェルが見る。
一度だけ頷いた。
◇
共同暖房所。
大きな集会堂だった。
中央に薪炉。
定式魔法ではない。
普通の火。
今はそれが一番頼りになる。
人が集まる。
熱が足りない。
窓。
扉。
壁。
外へ逃げる。
ユリウスは鞄を開いた。
《温抱》。
使える。
でも材料は多くない。
何人分。
どこまで。
セラが見る。
「使うのか」
ユリウスは材料を見る。
迷う。
一瞬。
でも以前とは違う。
使えば終わる。
だから使わない。
ではない。
何人に必要か。
どこへ使えば最も効くか。
考える。
「部屋全部は無理です」
リシェルが周囲を見る。
「入口」
「え?」
「熱が一番逃げる場所。扉の周辺だけ温度低下を抑えれば」
ユリウスも見る。
入口。
人が出入りする。
冷気が何度も流れ込む。
「そこだけ」
「はい」
保温石。
湯瓶金具。
煮込み壺片。
配置。
扉の左右。
少し。
魔力。
《温抱》。
光はほとんどない。
ただ。
次に扉が開いた時。
冷気が入る。
それでも室内の暖かさが以前ほど一気に崩れない。
老人が肩の毛布を少し下げた。
子どもが炉から離れて座れるようになる。
派手ではない。
一人を治す魔法でもない。
でも。
何十人もの寒さが少しだけ薄くなる。
「使える」
セラが言う。
ユリウスは材料を見る。
色は落ちている。
でも。
今はそれでいい。
◇
夜。
保温設備は復旧した。
原因は不明。
また勝手に戻った。
それが一番気味が悪い。
宿へ向かう途中。
リシェルはずっと黙っていた。
雪を踏む。
きゅ。
きゅ。
乾いた音。
外灯が照らす雪面は青白い。
吐いた息だけが短く残り、すぐ消える。
やがて彼女が言った。
「私たちが間違っていたんじゃない」
誰に言うでもない声。
ユリウスが見る。
リシェルは前を向いたまま続ける。
「定式魔法は、ここまで何百万人も支えてきました」
「はい」
「だから」
一度息を吐く。
白い。
「これまでが間違っていたわけではない」
少し間があった。
「私たちが、途中までしか知らなかっただけ」
ユリウスは何も言わなかった。
その言葉を壊したくなかった。
前を歩いていたセラも。
ガロも。
振り返らない。
ただ歩く速度だけが、少し遅くなった。
◇
宿へ戻る直前。
ガロが立ち止まった。
「何です?」
ユリウスが聞く。
ガロは空を見る。
雪。
雲。
遠く。
「匂いが変だ」
セラが聞く。
「また?」
「寒い匂いじゃない」
「寒い匂いって何だ」
ガロは答えない。
代わりに、港の向こう。
さらに北。
白い山脈を見る。
その一部。
夜なのに。
薄く光っていた。
青白い輪。
空へ浮かぶように。
ゆっくり。
巨大な何かが、氷原の向こうで目を開いたように見えた。




