第37話 血を止めるだけ
朝になっても、北の空には青白い輪が残っていた。
夜より薄い。
けれど消えてはいない。
港町ローディアの屋根越し、遠く連なる氷山の一部を囲むように、淡い光が弧を描いている。
雪雲の切れ目から朝日が差しても、その輪だけは別の光を含んでいた。
宿の窓を開けると冷気が一気に入り、室内の暖かさを押しのけた。鼻の奥が痛くなるほど空気は乾き、煙突から漂う薪煙と潮の匂いが混じっている。
ユリウスは窓辺に立ったまま北を見ていた。
「昨日より大きくないですか」
後ろで外套を着ていたリシェルが近づく。
しばらく黙ってから、
「少し」
と答えた。
「測れます?」
「距離がありすぎます」
「何なんでしょう」
「分かりません」
昨日までなら、その言葉を口にしたあと彼女は少しだけ眉を寄せていた。
今は違う。
分からない。
だから見る。
その順番が、ようやく自分の中へ馴染み始めているように見えた。
廊下から大きな足音。
扉が開く。
セラだった。
「熱管理局から迎えが来てる」
「こんな朝早く?」
ユリウスが振り向く。
「問題が起きたから朝早いんだろ」
確かに。
その後ろからガロが顔を出す。
厚い毛皮の上着を着ている。
本人の毛もあるので、見た目だけなら四人で一番暖かそうだった。
「北から風が来てる」
「寒い?」
ユリウスが聞く。
「違う」
ガロは窓から外を見る。
「匂いが薄い」
「何の」
「全部」
意味が分からない。
でも。
森でも。
海でも。
ガロがこういう言い方をした時、大抵ろくなことがなかった。
◇
熱管理局へ向かう途中。
街の異変は昨日よりはっきりしていた。
道は通れる。
魔法灯も点いている。
建物から煙も出ている。
けれど、ところどころで人が立ち止まっていた。
パン屋の前。
店主が窓を開け、何度も窯の奥を確認している。
共同浴場では、職員が湯へ腕を入れて首を傾げていた。
食料倉庫では逆に、氷を追加で運び込んでいる。
「暖房だけじゃない」
リシェルが足を止める。
通りの向こう。
肉や魚を保存する低温倉庫。
搬入口が開き、作業員たちが大きな氷塊を運んでいる。
「冷却も弱ってる?」
ユリウスが聞く。
「昨日、局長は言っていました。保温と冷却の両方に低下例があると」
「暖めるのも冷やすのも?」
「はい」
二人の間で、昨夜の話が戻る。
熱は同じ。
違うのは。
どこへ置くか。
ガロが歩きながら言った。
「昨日より寒くない」
セラが振り返る。
「寒いぞ」
「街の外はな」
「何が言いたい」
ガロは道端へ積もった雪を指した。
そのすぐ横。
熱を通す金属板。
普通なら雪が溶け、金属板の周辺だけ濡れている。
今日は。
雪が完全には溶けていない。
一方で、板から少し離れた場所の雪も昨日ほど硬く凍っていない。
境目が曖昧だった。
ユリウスがしゃがむ。
手袋越しに金属板へ触れる。
暖かい。
隣の雪へ触れる。
冷たい。
でも。
「差が小さい?」
リシェルもしゃがんだ。
「そう見えます」
「保温が弱ってるなら、板が冷えるだけじゃ」
「本来なら」
彼女が雪を見る。
「周囲の方がもっと冷たいはずです」
セラが腕を組む。
「つまり?」
リシェルはすぐに答えなかった。
「まだ、つまりと言えるほどではありません」
そこで言葉を切る。
「ただ、暖められないというより」
ユリウスを見る。
「暖かい場所と冷たい場所の差が、保ちにくくなっているように見えます」
ユリウスの指が雪の上で止まった。
◇
熱管理局は昨日以上に騒がしかった。
技師が走る。
記録紙が飛び交う。
壁一面の計器は、どれも故障と呼べるほどの異常値ではない。
それがかえって不気味だった。
白髪の局長が四人を見つける。
「来ましたか」
「何が起きてます」
リシェルが聞く。
「市内十七区画で温度維持効率が低下。暖房だけではありません。低温倉庫も同時です」
「魔力供給は」
「正常」
「術式は」
「正常」
また。
その言葉。
ユリウスは制御盤の温度表示を見る。
住宅暖房。
低下。
冷却倉庫。
こちらは温度上昇。
反対方向の設備が、同時に。
どちらも中央へ寄っている。
「差が」
声が出る。
局長が見る。
「何です?」
「暖められないんじゃなくて、冷やせないんでもなくて」
説明しようとする。
うまく言葉にならない。
リシェルが横から続けた。
「温度差そのものを維持できていない可能性があります」
局長の眉が動く。
「そんな現象が?」
「分かりません」
「また、それですか」
責める口調ではなかった。
疲れている。
局長の目の下には、昨日なかった影があった。
「こちらも同じですよ。正常です、分かりません。そればかり」
そう言って制御盤を見る。
「正常なものが、役に立たなくなっている」
その言葉は。
少し痛かった。
◇
警報が鳴った。
今度は局内ではない。
外。
短い鐘が連続する。
局長が窓を見る。
「第三保存区?」
職員が走り込む。
「低温倉庫の一棟で内壁破損! 作業員が下敷きです!」
全員が動いた。
◇
第三保存区は港に近かった。
海から来る風が強い。
倉庫群の間を抜けるたび雪が横向きに飛び、頬へ細かく当たった。
問題の建物はすぐ分かった。
正面扉が開いている。
人が集まっている。
屋根の端から氷の塊が落ち、地面へ砕けていた。
中へ入る。
寒い。
ただし昨日までの低温倉庫ほどではないらしい。
床に溶けかけた氷。
壁には厚い霜と水滴が同時についている。
「何が」
セラが周囲を見る。
倉庫責任者が答えた。
「冷却が急に落ちた! 壁の氷が剥がれて、補強帯まで外れた!」
奥。
金属製の棚が倒れている。
その下。
人。
三人。
二人はすでに引き出されていた。
一人。
若い男が脚を挟まれている。
「持ち上げるぞ!」
作業員が棚へ手を掛ける。
セラが割って入った。
「下がれ!」
盾を外す。
棚の隙間へ入れる。
梃子。
大剣の柄も使う。
「一斉に!」
四人。
五人。
持ち上げる。
金属が軋む。
男の身体が引き出される。
その瞬間。
ユリウスは見た。
右脚。
太腿。
服が深く裂けている。
そこから赤いものが。
一度。
脈打つように。
どっと出た。
雪混じりの床へ落ちる。
赤が広がる。
「止血!」
誰かが叫ぶ。
セラが男の上体を支える。
リシェルが膝をついた。
「私が」
杖。
治癒術式。
青白い光。
傷口を覆う。
血の勢いが弱くなる。
一秒。
二秒。
光が薄くなる。
「待って」
リシェルが魔力を足す。
光。
戻る。
でも。
また。
弱まる。
傷は閉じない。
血が流れる。
「リシェル」
ユリウスが呼ぶ。
「分かっています!」
声が強い。
もう一度。
術式。
駄目。
男の顔から色が落ちていく。
唇が白い。
「圧迫!」
セラが自分の布を裂く。
太腿へ押し当てる。
血が布へ染みる。
あっという間に赤くなる。
「もっと上を縛れ!」
倉庫の医務員が叫んだ。
革製の圧迫帯を持ってくる。
幅広い革。
端に締め金具がついている。
何度も使われた跡。
色が濃く。
中央だけ柔らかくなっている。
男の脚へ巻く。
締める。
血が少し減る。
それでも完全には止まらない。
「病院まで持つか」
セラが聞く。
医務員の顔。
答えなくても分かった。
◇
ユリウスは血を見ていた。
治す。
無理。
今の定式治癒では傷を閉じ切れない。
なら。
治さなくていい。
今は。
死ななければいい。
「止めるだけなら」
声が出た。
リシェルが見る。
「何を」
「血を」
「圧迫帯で」
「もっと」
鞄を開ける。
材料。
何がある。
受ける。
流れる。
止める。
保持。
頭の中で役割が動く。
《受衝》では違う。
《圧抜》は逆。
逃がしたくない。
留める。
流れを。
その場に。
「ユリウス!」
セラの声。
男が小さく痙攣する。
時間がない。
ユリウスは圧迫帯を見る。
「それ」
医務員が睨む。
「何だ」
「古いですか」
「今それ聞くか!」
「何年使ってます!」
「知らん! 十年は使ってる!」
何度も。
締めた。
圧した。
流れを弱めた。
《反復》。
《方向》。
《保持》。
厚みもある。
「貸してください」
「使ってる!」
「そのままでいい!」
次。
流れを止める物。
視線。
倉庫。
配管。
冷却設備。
壁際。
古い細管。
その途中。
手動遮断弁。
冷媒の流れを止めるため、何年も開閉されてきた金属板。
「セラ!」
「何!」
「あの弁!」
「どれだ!」
指す。
説明しない。
セラが走る。
大剣の柄で固定金具を叩く。
一度。
外れない。
二度。
金具が飛ぶ。
弁の内部から、手のひらほどの金属板を引き抜く。
「これか!」
「それ!」
投げる。
ユリウスが受け取る。
冷たい。
何度も流れを遮ってきた。
入ってくる。
止める。
それでも圧は残る。
最後。
止め続けるもの。
視線が圧迫帯へ戻る。
これで。
二つだけ。
足りない?
考えるな。
試す。
でも患者で最初から試すのか。
手が止まる。
北谷が浮かぶ。
分からないまま大きく流した。
結果。
別の場所が壊れた。
今も。
分からない。
でも今回は。
「リシェル」
彼女を見る。
「やっていいですか」
リシェルは傷を見る。
血。
男の顔。
圧迫帯。
ユリウス。
数秒。
長かった。
「範囲を傷口だけに」
「はい」
「全身の血流へ触れたらすぐ止めます」
「はい」
「出力は最低」
「分かってます」
「私が見ます」
ユリウスは頷いた。
◇
床へ材料を置けない。
人の脚。
揺れる。
血。
ユリウスは金属板を圧迫帯の外側へ当てた。
革帯。
遮断弁。
二つ。
向き。
傷から外へ。
流れる。
そこを止める。
魔力。
反応しない。
「違う」
リシェルが言う。
「弁の向き」
「こっち?」
「流れを受ける面が逆です」
ひっくり返す。
もう一度。
魔力。
革帯がわずかに震える。
金属板。
薄い光。
男の脚。
血。
一瞬。
減った。
ユリウスの呼吸が止まる。
「来た」
でも。
完全ではない。
まだ染みる。
リシェルが傷を見ている。
指。
脈。
顔色。
「少しだけ上げて」
魔力を足す。
革帯が締まる。
実際に縮んだわけではない。
でも。
傷口から出る血の勢いが落ちた。
どっ。
ではない。
滲む。
その程度。
医務員が目を見開く。
「何をした」
ユリウスは答えない。
まだ。
終わっていない。
男の脚先を見る。
色。
感覚。
「指、動かせます?」
返事がない。
セラが男の頬を叩く。
「おい。寝るな」
薄く目が開く。
「足の指」
リシェルが言う。
「動かしてください」
少し。
動く。
「血流は残っています」
「止めすぎてない?」
「今のところ」
今のところ。
それでいい。
今だけ。
それで。
◇
担架。
男を運ぶ。
ユリウスは横について歩いた。
魔力を切らない。
少しずつ。
最低限。
圧迫帯と金属板。
血が流れすぎない状態を保つ。
雪道。
足元が滑る。
風。
顔が冷える。
病院まで。
遠い。
いつもなら十分もかからない。
今日は永遠みたいだった。
「まだ?」
セラが前を走る。
「二本先!」
案内役が叫ぶ。
男の呼吸が浅い。
ユリウスの指先も痺れてくる。
魔力が多いわけではない。
集中。
切らせない。
それだけ。
「ユリウス」
リシェル。
「出力落ちてます」
「分かってます」
足す。
「上げすぎないで」
「分かってます!」
さっきの彼女と同じ返事になった。
気づく。
でも笑えない。
◇
病院。
扉が開く。
医師たちが待っていた。
担架を入れる。
処置台。
傷を見る。
「動脈が切れてる」
医師の声が低い。
「よくここまで」
ユリウスの魔法を見る。
「これは治癒術式か」
「違います」
リシェルが答えた。
「止めているだけです」
「何を」
「血流を」
医師が一瞬こちらを見る。
すぐ処置へ戻る。
「そのまま保てるか」
ユリウスが答える。
「少しなら」
「十分だ」
手術道具。
縫合。
固定。
治癒術式は補助に回す。
弱い。
それでも使える部分だけ。
医師が血管を処置する。
「今、少し落とせ」
リシェルがユリウスを見る。
頷く。
魔力を減らす。
血が少し増える。
「そこ」
医師。
縫う。
また。
止血。
少しずつ。
魔法が全部治すのではない。
人の手。
針。
布。
金属器具。
弱い魔法。
その間を繋ぐ。
長い時間が過ぎた。
◇
医師が最後に手を離した。
「もういい」
ユリウスは魔力を止めた。
革帯が静かになる。
金属板。
色がかなり薄くなっている。
でも崩れてはいない。
男の脚。
血は止まっている。
今度は。
医師の処置で。
ユリウスの手が遅れて震え始めた。
握る。
止まらない。
セラが隣から水筒を差し出す。
「飲め」
「大丈夫です」
「飲め」
受け取る。
冷たい水。
一口。
喉を通る。
少しだけ身体へ戻ってくる。
◇
廊下。
リシェルが壁へ背を預けていた。
杖を両手で持っている。
いつものように真っ直ぐ。
でも、指に力が入っていた。
ユリウスが隣へ立つ。
しばらく。
どちらも喋らない。
遠くで病院の足音。
薬草の匂い。
煮沸した布の湿った熱。
外では雪が窓へ当たっている。
「治せなかった」
リシェルが言う。
ユリウスは答えない。
「私の治癒術式では」
声は小さかった。
「閉じられなかった」
「でも」
「分かっています」
遮られる。
彼女は前を見る。
「治癒術式が全部ではない」
さっきまでの処置。
針。
止血。
人の手。
そして。
新しい魔法。
「治せないなら、死なない時間を作る」
リシェルの視線がユリウスへ動く。
「そういう魔法も必要なんですね」
ユリウスは少し考える。
「俺は治す魔法、作れません」
「知っています」
「言い方」
ほんの少しだけ。
彼女の口元が動く。
それから、手に持っていた記録紙へ目を落とす。
「名前を付けます」
「もう?」
「記録できません」
「《止血》」
「そのまますぎます」
「セラに言ってください」
少し離れた椅子に座っていたセラが顔を上げる。
「何で私」
「いつも分かりやすいの付けるので」
「いいだろ、分かりやすくて」
ガロが窓際から言う。
「《血留》」
全員が見る。
ガロが少し嫌そうな顔をした。
「何だ」
「いや」
ユリウスが言う。
「普通にいい名前だったので」
「失礼だな」
リシェルが紙へ書く。
《血留》。
その下。
小さく。
《ブラッド・ステイ》。
「治療ではない」
彼女が書きながら言う。
「血管を修復しない。失った血も戻さない。傷口付近の流出を一時的に抑えるだけ」
「はい」
「長時間使用も危険」
「はい」
「必ず医療処置までの補助」
「分かってます」
筆が止まる。
「でも」
その先は書かない。
口で言った。
「今日みたいな時には、必要です」
ユリウスは頷いた。
◇
病院を出た頃には、昼を過ぎていた。
雪は止んでいる。
雲の隙間から薄い光。
北の氷山が見える。
青白い輪。
朝より。
はっきりしていた。
その下。
氷壁の一部が。
動く。
ユリウスは立ち止まる。
「見えました?」
「はい」
リシェルも。
白い山。
その表面を。
巨大な輪が滑っている。
輪ではない。
細長い身体。
雪より白い。
縁だけ青く光っている。
巨大な蛇にも見える。
翼のない竜にも。
でも形は遠すぎて分からない。
ただ。
それが通った場所。
氷山の表面から。
白い霧が消えていく。
ガロが鼻を上げた。
「また薄くなった」
「匂い?」
ユリウスが聞く。
「温度」
セラが眉を寄せる。
「温度に匂いがあるのか」
「変わる時にはある」
リシェルが氷山を見る。
暖かい場所。
冷たい場所。
その差が失われる。
街の設備。
保温。
冷却。
全部。
「もしかして」
口から漏れる。
ユリウスが見る。
「何です?」
「この生き物が」
そこで止めた。
まだ早い。
リシェル自身がそう判断したらしい。
「調べます」
今度は。
分からないまま決めなかった。
遠く。
青白い巨大な輪が、氷山の向こうへゆっくり消えていった。
その瞬間。
街の魔法灯が。
また一度だけ。
暗くなった。




