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『魔法は、拾うところから。』 ―廃材回収人は失われた魔法開発を再発見する―  作者: asnt2026


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第35話 海の下で、何かが動く

三度目の音は、船底のすぐ下から聞こえた。


どん。


木材が鳴ったのではない。


もっと低い。


腹の奥へ直接触れるような震えが床板を伝い、金属環の内側に置かれていた石片が一つ、わずかに跳ねた。


ユリウスとリシェルは同時に立ち上がった。


「今の」


「船体ではありません」


リシェルが先に答える。


次の瞬間、頭上から怒鳴り声が落ちてきた。


「総員、上へ!」


船員の声。


その直後。


船が傾いた。


ゆっくりではない。


床そのものが横へ逃げる。


ユリウスの身体が右へ流れ、積まれた木箱へ肩からぶつかった。


金属環が滑る。


「環!」


リシェルが手を伸ばす。


ユリウスも床を蹴る。


指先が外縁へ触れる。


もう少し。


船が反対へ戻った。


今度は身体ごと左へ投げられる。


環を抱え込む。


背中へ何かが当たった。


息が抜ける。


「大丈夫ですか」


「環は」


「あなたです!」


「俺も多分」


上で何かが割れる音。


船員の足音。


それから。


ガロの声。


「ユリウス!」


思っていたより元気だった。


          ◇


甲板へ出た瞬間、冷たい海水が顔へぶつかった。


夜の海は黒かった。


雲の切れ間から月光が落ちても、波頭だけが白く光る。風には塩と濡れた木、それに船の防水油の匂いが混じり、息を吸うたび喉の奥が冷えた。


帆が激しく鳴っている。


船は大きく右へ傾いていた。


「何が起きた!」


セラが手すりに掴まりながら叫ぶ。


船長が舵輪の横で怒鳴り返す。


「分からん! 海底か何かが持ち上がった!」


「海底?」


「この辺りは深いぞ!」


また。


どん。


今度は船の左後方。


水面が盛り上がった。


波ではない。


黒い海そのものが、丸く膨らむ。


直径が分からない。


十メートル。


二十。


もっと。


盛り上がった水が崩れた。


その下。


何か白いものが一瞬だけ見える。


鱗ではなかった。


石のようにざらついた巨大な表面。


すぐ沈む。


リシェルが息を止める。


「生き物?」


船長の顔が強張る。


「まさか」


「知ってるんですか」


ユリウスが聞く。


船長は答えず海を見る。


水面の向こう。


遠くで白い波が一本走る。


こちらへではない。


船と並ぶように。


「《潮喰ラグネア》」


低い声だった。


「潮喰?」


セラが聞く。


「海の底を這う古い巨獣だ。背中は岩みたいに硬く、潮の流れが大きく変わる時に浮かぶって話がある」


巨大な何かが船の下を通った。


そう考えた瞬間。


船がまた持ち上がった。


今度は右舷。


甲板が傾く。


樽が転がる。


「止めろ!」


船員が追う。


間に合わない。


樽が手すりへぶつかり、一つ海へ落ちる。


続いて荷箱。


さらに人。


「危ない!」


セラが走る。


滑った船員の腕を掴む。


自分も引かれる。


盾を甲板へ噛ませる。


靴底が濡れた板を削った。


ユリウスの視界に、甲板の傾きだけが残った。


右が高い。


左が低い。


荷が左へ寄る。


さらに傾く。


《片軽》。


頭に浮かぶ。


失敗だった魔法。


片側だけ軽くする。


「セラ!」


「何!」


「左を軽くします!」


「船を?」


「荷だけ!」


説明している時間はない。


ユリウスは船倉へ向かって走った。


          ◇


船倉。


荷箱が左へ雪崩れていた。


船員が二人、必死に縄を掛けている。


「どけて!」


ユリウスが鞄を開く。


古い昇降輪。


摩耗した短鎖。


平衡金具。


以前使った三つ。


色はかなり薄い。


でもまだ残っている。


《片軽》は全体を軽くできなかった。


一方だけ。


今は、それでいい。


荷物の左側。


外側へ置く。


方向。


今度は間違えない。


リシェルも追いついた。


「どこまで軽くするつもりです」


「船が戻るくらい」


「具体的に」


「分かりません」


「今それですか!」


「重さ測る時間あります?」


リシェルが一瞬だけ黙る。


「ありません」


「じゃあ少しずつ」


魔力を通す。


輪。


鎖。


金具。


反応。


左側の荷箱が、わずかに浮く。


完全ではない。


持ち上がりもしない。


ただ床へ押しつけていた重さが薄くなる。


船員が目を見開く。


「何した!」


「あとで!」


船が少し戻る。


一度。


止まる。


「もう少し!」


リシェルが叫ぶ。


ユリウスが魔力を足す。


荷箱の下に隙間ができる。


船員が押し戻す。


中央へ。


一箱。


二箱。


傾きが減る。


甲板から声。


「戻ってきた!」


セラ。


「そのまま!」


ユリウスの指先が震える。


材料の色が抜ける。


昇降輪の一部が白くなった。


「十分です!」


リシェルが手首を掴む。


魔力を止める。


荷箱が床へ戻った。


重い音。


でも位置は中央。


船体がゆっくり水平へ近づく。


《片軽》。


失敗魔法。


今度は、船をひっくり返さずに済んだ。


          ◇


甲板へ戻る。


ガロが手すりの近くにいた。


顔はまだ青い。


それでも弓ではなく、海を見ている。


「大丈夫です?」


ユリウスが聞く。


「今は船酔いしてる場合じゃない」


「気合いで治るんですか」


「治ってない」


言われてみれば声が少し死んでいる。


「何か分かった?」


リシェルが聞く。


ガロは首を横へ振る。


「海は読めん」


珍しい言葉だった。


森なら。


土。


匂い。


足跡。


風。


全部ガロの領分だった。


ここでは違う。


海面の下は見えない。


ユリウスは船底から聞こえた音を思い出す。


「《響返》」


セラが振り向く。


「声を返すやつ?」


「音です。水の下でも返るなら」


リシェルがすぐ近づく。


「空気中より速く伝わるはずです」


「形まで分かる?」


「一回では無理。でも距離と方向なら」


船長が聞いていた。


「何をする気だ」


「下に何がいるか確かめます」


「できるのか」


ユリウスは答えかける。


横からセラ。


「多分って言うぞ」


先に言われた。


「今はそれでいい!」


船長が怒鳴った。


話が早い。


          ◇


青銅鐘片。


空洞枝。


反響岩。


甲板に置く。


問題は方向。


水面へ投げても波で散る。


「船底へ」


リシェルが言う。


「直接、船体を通す?」


「木材を経由したら音が変わりません?」


「変わります。でも基準が取れれば」


船長が船腹へ降りる保守口を開けた。


内側から船底板へ触れられる小さな点検区画。


ユリウスとリシェルが入る。


狭い。


木が湿っている。


海水の冷たさが板越しに伝わる。


外では波が船体を叩く。


どん。


今度は普通の波。


「紛らわしい」


ユリウスが呟く。


「集中してください」


「してます」


鐘片を板へ当てる。


空洞枝。


反響岩。


方向を下。


魔力。


こん。


小さな音が船底から海へ抜ける。


消える。


待つ。


返る。


早い。


船体のすぐ下。


「近い?」


ユリウスが聞く。


「分かりません。もう一度」


二度目。


こん。


今度は少し向きを変える。


返りが遅い。


三度目。


もっと左。


ほとんど返らない。


「右側」


リシェルが言う。


「右後方に大きな反射面があります」


「ラグネア?」


「可能性は」


低い音がした。


こん。


こちらが鳴らしていない。


二人が止まる。


船底の向こう。


海の下。


もう一度。


こん。


何かが音を返している。


ユリウスの背中に冷たいものが走る。


「真似してる?」


「違います」


リシェルが首を横へ振る。


「こちらの音が、体のどこかで遅れて返っている」


つまり。


大きい。


一度で返らないほど。


          ◇


甲板へ戻る。


ユリウスは距離の違う反響を船長へ伝えた。


右後方。


深い位置。


船と並んでいる。


「追ってるのか」


セラが聞く。


船長は海図を見る。


「いや」


指で航路を追う。


次に海流線。


「こいつは俺たちを見てない」


ガロが言った。


全員が見る。


「何で分かる」


セラが聞く。


「森の時と同じだ」


「ヴァルナ?」


「グラドも」


ガロは海を見る。


「人間に向かってなかった」


ユリウスも気づく。


ラグネアは船を攻撃していない。


船と同じ方向へ進んでいる。


たまたま巨大な身体が浮上し、その波に巻き込まれているだけ。


「何を追ってる?」


ユリウスが言う。


船長の指が海図の上で止まる。


北西。


セレスティア方面。


「潮だ」


「潮?」


「この海域は暖流と寒流がぶつかる」


リシェルが海図を見る。


「温度差」


ユリウスも。


火竜。


熱脈。


温抱。


そして。


差。


ラグネアが潮を食う。


名前そのままなら。


潮流の変化。


温度。


圧。


何かを調整する生き物なのかもしれない。


まだ分からない。


でも敵ではない可能性の方が高い。


「進路を変えられます?」


ユリウスが聞く。


船長は歯を食いしばる。


「風向き次第だ。大きくは無理だが、少しなら」


「少しでいいです」


船とラグネア。


重ならなければ。


「右へ二度!」


船長が叫ぶ。


舵手が舵輪を回す。


帆の角度が変わる。


船体が軋む。


ゆっくり。


進路がずれる。


海面の遠く。


黒い膨らみ。


それも真っ直ぐ進む。


船とは別の線へ。


一分。


二分。


船底の震えが遠ざかる。


やがて。


なくなった。


          ◇


誰もすぐには喋らなかった。


波はまだ高い。


風も冷たい。


けれどさっきまでの重さが、甲板から少し抜けていた。


ガロが手すりへ背を預ける。


そのまま座る。


「もう無理だ」


「やっぱり酔ってるじゃないですか」


「ずっとだ」


セラが笑った。


「海の巨獣より船酔いに負けるのか」


「黙れ」


「顔真っ青だぞ」


「落とすぞ」


いつもの調子が戻る。


ユリウスは海を見る。


ラグネアはもう見えない。


倒していない。


追い払ってもいない。


ただ、ぶつからないように道をずらした。


それで済んだ。


ヴェルディアでも。


ドルグラードでも。


大きな生き物は、自分たちを敵だと思っていなかった。


人間の方が、その動きの意味を知らなかっただけ。


その考えは、まだ形にならない。


ただ胸の中に置いておく。


          ◇


夜が明ける頃。


雲が切れた。


東の空に薄い金色が広がり、冷たい海が一枚ずつ色を取り戻していく。


遠く。


白いものが見えた。


最初は雲だと思った。


違う。


巨大な氷壁。


その向こうへ、青白い山々が連なっている。


セレスティア。


船長が言う。


「昼には港だ」


リシェルは手すりを握ったまま、その白い陸地を見ていた。


船の保温術式はまだ少し弱い。


医務室の治癒術式も。


そして海の下では、古い巨獣が何かの変化を追っていた。


ユリウスは鞄の中へ手を入れる。


金属環。


指先へ冷たい感触が返る。


最後を最初へ戻す輪。


遠くの氷の国で。


何が待っているのかは分からない。


ただ一つ。


また新しい材料を拾えば、それで終わる話ではないことだけは、もう分かっていた。

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