第34話 海の向こうへ
ドルグラードを離れる朝。
火山には薄い雲がかかっていた。
赤茶けた街並みの上を白い蒸気が流れ、鍛冶場から響く槌音がいつも通り谷へ反響している。朝の空気は涼しかったが、地面から立つ熱と鉄の匂いは変わらず、歩き出す前から靴底へ温かさが伝わった。
ミラドが鉱山管理局の前まで来た。
見送りらしい。
「持っていけ」
木箱をユリウスへ渡す。
重い。
「何です?」
「お前が買った廃材」
「こんなに?」
「置いていくのか?」
箱の中を見る。
古い圧力弁。
鉱山支柱。
ブレーキ金具。
ほかにも、記憶にない部品が二つ。
「これ買ってません」
「おまけだ」
ユリウスの目が少し開く。
セラが横から木箱を覗く。
「余計なことを」
「喜んでるぞ」
ミラドが笑う。
「顔に出てる」
もう諦めた。
隠す方が難しい。
レオルは王都へ戻る。
ただし金属環の写しと施設の測定記録を持って。
本物の金属環は、ユリウスたちが運ぶことになった。
次の目的地。
セレスティア。
氷海連邦。
そこにも古い施設の記録がある可能性が出たからだった。
「本当に君に持たせるの嫌なんだけど」
レオルが言う。
「何で」
「拾い物と一緒にするだろ」
「分けますよ」
「本当に?」
「多分」
「ほら」
リシェルがため息をつく。
「私が管理します」
「お願いします」
信頼がない。
◇
セレスティアへは、南西の港町まで陸路。
そこから船。
ガロの顔色が、その説明を聞いた時点で悪くなった。
「船?」
「はい」
リシェルが答える。
「大型船です」
「大きさは関係ない」
「苦手なんですか」
ユリウスが聞く。
ガロは答えない。
セラが笑う。
「まさか」
「黙れ」
「お前、海駄目なのか」
「黙れ」
「森の英雄が?」
「セラ」
声が低くなる。
「分かった分かった」
全然分かっていない顔だった。
◇
港へ着いたのは五日後だった。
匂いが先に来た。
潮。
魚。
濡れた縄。
樽。
油。
ドルグラードの鉄と硫黄が身体に染みついていたせいか、海の匂いは妙に冷たく感じた。
港には大きな帆船が並んでいる。
木製だけではない。
船腹の一部には金属補強が入り、甲板の下には温度維持と排水を担う定式設備が組まれている。
セレスティア航路の船は、寒冷海域を通る。
船体へ付着する氷。
低温による木材の収縮。
荒波。
長い航海。
普通の沿岸船より頑丈に作られていた。
ユリウスは桟橋へ並ぶ古い船材を見た。
何十年も波を受けた板。
潮風に晒された留め金。
何度も巻き上げられた錨鎖。
足が止まる。
セラが後ろから押した。
「乗るぞ」
「少しだけ」
「船が出る」
「板一枚くらい」
「乗れ」
船員まで笑っている。
「兄ちゃん、帰ってきたら売ってやるよ」
「本当ですか」
「ユリウス」
リシェルの声。
乗った。
◇
船が港を離れる。
桟橋が小さくなる。
陸が遠ざかる。
ユリウスは甲板へ立ったまま海を見ていた。
想像していたより広い。
色は青ではなく、少し灰色。
空と海の境が曖昧で、遠くへ行くほど同じ色へ溶けている。
波が船腹へ当たる。
どん。
少し遅れて船体全体が揺れる。
また。
どん。
木が軋む。
縄が鳴る。
何千回。
何万回。
この船は、ずっと同じ衝撃を受け続ける。
「いいな」
声が漏れる。
隣にいたセラが顔をしかめる。
「海見て最初にそれか?」
「船です」
「余計悪い」
リシェルは海図を見ている。
ガロはいない。
「ガロは?」
セラが後方を指した。
「下」
「もう?」
「出航して三分」
早い。
様子を見に行く。
船室。
階段。
その下。
ガロは寝台へ横になっていた。
顔が青い。
「大丈夫です?」
「帰れ」
「ここ船です」
「向こう行け」
「水」
「いらん」
「何か食べ」
「黙れ」
ユリウスは少しだけ笑いそうになる。
ガロが片目を開ける。
「笑ったら海に落とす」
「笑ってません」
「顔」
どこかで聞いた。
◇
航海二日目。
海は荒れ始めた。
空が低い。
雲が厚く、昼なのに薄暗い。
風が帆を強く叩き、甲板には冷たい飛沫が何度も上がる。潮の匂いへ湿った木と縄、それに船員の防水油の臭いが混ざり、手すりへ触れると指先から熱が奪われた。
セラは楽しそうだった。
「いい風だな」
「どこが」
ユリウスは手すりへ掴まる。
「船、好きなんですか」
「陸よりは落ち着かん。でも戦場よりまし」
比較対象がおかしい。
リシェルが甲板下から上がってくる。
表情が少し硬い。
「船尾の保温術式が弱いです」
ユリウスが振り返る。
「瞬断?」
「完全停止ではありません」
「カルダと同じ?」
「似ています」
船員が走ってくる。
「研究員さん、来てくれ!」
「どこです」
「医務室だ。患者がいる」
四人の空気が変わった。
◇
患者は若い船員だった。
甲板で滑って腕を切った。
深くはない。
普段なら簡易治癒術式で十分な傷。
船医が術式を使う。
青白い光。
傷口が閉じ始める。
途中で。
弱くなる。
船医が魔力を足す。
光は戻る。
また薄くなる。
「何だこれ」
船医が眉を寄せる。
リシェルが前へ出た。
「代わります」
杖。
定式治癒。
光。
やはり途中で落ちる。
彼女の指が止まる。
カルダの時より。
ほんの少しだけ。
止まっていた。
ユリウスには分かった。
リシェル自身も気づいている。
「リシェル」
声をかける。
「大丈夫です」
また早い返事。
でも今回は。
彼女は同じ術式を繰り返さなかった。
杖を下ろす。
「縫合してください」
船医が驚く。
「魔法は?」
「補助に使います。閉じ切るのは手で」
少し間があった。
それでも船医は頷く。
針。
糸。
消毒。
定式治癒は、痛みと出血を抑えるところまで。
残りは人の手。
リシェルは途中で一度も術式を強くしすぎなかった。
以前なら、出力を戻そうとしたかもしれない。
今は違う。
弱いなら。
弱いままでできることを考えている。
ユリウスは黙って見ていた。
◇
処置が終わったあと。
リシェルは甲板へ出た。
夕方。
雲の切れ間から赤い光が海へ落ちている。
波はまだ高い。
船は大きく上下する。
「怖かった?」
ユリウスが横へ立つ。
リシェルはしばらく答えなかった。
海を見る。
「はい」
初めて。
はっきり言った。
ユリウスも海を見る。
「私にとって」
彼女は続ける。
「定式魔法は、正しく使えば正しく動くものでした」
風が髪を揺らす。
結び直したはずの一本が頬へかかる。
「誰でも使える。それは、誰でも同じ場所に立てるという意味だったんです」
ユリウスは何も言わない。
「お金があってもなくても。才能が突出していなくても。正しい術式を学べば、同じ火を灯せる。水を出せる。傷を閉じられる」
手すりへ手を置く。
「それが止まるなら」
そこで言葉が切れた。
「学んだことが間違っていたみたいで、嫌なんです」
ユリウスは少し考えた。
「間違ってたんですか」
リシェルが見る。
「まだ分からないでしょう」
自分で言って。
少しだけ笑う。
「あなたに言われると腹が立ちますね」
「何で」
「正しいので」
海の向こう。
北西。
雲の下に、白い線が見えた。
陸ではない。
氷。
水平線の一部が淡く白い。
セレスティア。
その方向から吹く風が、さっきまでより冷たかった。
◇
夜。
船底近くの荷室。
ユリウスは金属環を広げていた。
リシェルもいる。
円形施設から外した環。
最後を最初へ戻す仕組み。
船の揺れに合わせ、金属が床の上で小さく鳴る。
かち。
ユリウスは手で押さえる。
「今の音」
リシェルが見る。
「施設と同じ」
「環がずれただけです」
「でも」
ユリウスは環を少し回す。
最後の溝。
最初へ。
繋がる。
「北谷へ流した時は、ここを外へ開いた」
「はい」
「本来は閉じてた」
「そうです」
「もし」
ユリウスは環の内側へ三つの材料を置いてみる。
まだ魔力は通さない。
《受衝》に使う古い金具。
《温抱》の保温石。
火竜の巣石。
役割は違う。
今は実験ではない。
ただ形を見る。
最後が最初へ戻る。
「捨てずに」
言葉が少しずつ形になる。
「次へ渡して、最後に戻したら」
リシェルも環を見る。
「外へ出さない」
「ずっと回す?」
「永久には無理です」
即答。
「材料は摩耗します。完全な循環なんて」
そこで止まった。
「でも」
ユリウスが見る。
「無駄は減るかもしれない」
船が大きく揺れた。
材料が環の中で少し動く。
ユリウスが押さえる。
「固定しないと駄目ですね」
リシェルの目が変わった。
「溝が必要です」
「向きも」
「材料ごとに」
「順番も変えられるように」
二人とも同時に黙った。
床。
固定溝。
外環。
森の工房。
ドルグラードの施設。
古い人々が何を作っていたのか。
まだ分からない。
ただ。
自分たちは今、その形へ近づこうとしている。
船の外で。
低い音がした。
どん。
波ではない。
もっと深い。
船底の下。
ユリウスとリシェルが顔を上げる。
もう一度。
どん。
遠く。
水の下から。
何か巨大なものが、船の進む海域で動いていた。




