第33話 戻さなければ、終わらない
北谷の異常は、翌朝になっても消えなかった。
夜の冷えで岩の赤みはいくらか薄れていたが、谷の西壁だけは周囲より温かいままだった。朝日はまだ斜面の上までしか届いておらず、底には青い影が残っている。岩の隙間から立つ白い蒸気へ、硫黄と濡れた土、それに獣の強い体臭が混ざっていた。
地下から逃げ出した小型魔獣たちは、まだ谷の外縁へ集まっている。
穴兎。
石甲蜥蜴。
目の退化した白い鼠。
普段なら同じ場所に並んでいるはずのない生き物が、互いを警戒しながら岩場へ身を寄せていた。
ガロがしゃがむ。
石甲蜥蜴の進んだ跡を見る。
「戻らない」
「まだ地下が駄目ですか」
ユリウスが聞く。
「多分」
ガロは鼻を上げた。
「熱だけじゃない」
その言葉に、ユリウスの指が止まる。
昨日から何度も考えている。
自分たちが北谷へ送ったもの。
熱ではなかった。
魔力でもない。
それだけなら測れたはずだ。
古い施設の床を通った何か。
グラドが追っていたもの。
《材歴》へ反応した流れ。
名前のないもの。
だからこそ、余計に気持ちが悪い。
「採取します」
リシェルが岩へ近づく。
ユリウスが反射的に言う。
「切るんですか」
「表面だけです」
ガロが二人を見る。
一瞬、ヴェルディアの古木が頭へ浮かんだ。
リシェルも同じことを思ったらしい。
手を止める。
「落ちているものを使いましょう」
足元。
自然に剥離した薄い岩片。
それを拾う。
ユリウスは少しだけ息を吐いた。
考え方が変わったのは、自分だけではないらしい。
◇
レオルは測定器を四つ並べていた。
魔力。
温度。
地圧。
定式術式反応。
どれも異常は小さい。
「これだけ見ると」
ミラドが測定紙を覗く。
「昨日ほどの騒ぎが起きた場所には見えんな」
「だから厄介なんです」
レオルが答える。
「測れる項目に出ていない」
「じゃあ何を測る」
「それを考えてる」
少し離れたところで、ユリウスは昨日使った材料を並べていた。
火竜の巣石。
坑道支柱。
圧力弁。
《重層材》。
どれも昨日より色が薄い。
でも完全には崩れていない。
一方で北谷の岩へ近づけると、微かに震える。
「まだ反応する」
リシェルが隣へしゃがむ。
「施設の流れと同種のものが残っている可能性があります」
「流したものが、ここで溜まった?」
「そう考えるのが自然です」
ユリウスは圧力弁を指先で転がした。
溜まる。
逃がす。
その先。
昨日までは、そこまでで終わっていた。
「《圧抜》も」
口にする。
「地上へ出しただけです」
リシェルが見る。
「坑道の時?」
「はい」
あの時は人を救った。
硫気も熱気も換気井から地上へ抜けた。
それで終わりだと思った。
でも本当に終わったのか。
地上へ出たものは風へ散った。
だから問題が見えなかっただけかもしれない。
「俺たち」
言葉を探す。
「ずっと出口までしか見てなかった」
リシェルの筆が止まる。
「出口の先を見ていなかった」
「はい」
熱も。
圧力も。
衝撃も。
どこかへ移しているだけ。
消したわけではない。
ユリウスは北谷を見る。
昨日は、その当たり前のことを大きな規模でやった。
見えないものを。
見えない場所へ。
◇
昼前。
北谷の奥で、一頭の魔獣が倒れた。
石甲蜥蜴。
死んではいない。
脚が痙攣している。
ガロがすぐ駆け寄る。
「触るな」
ユリウスを止め、自分だけが近づく。
鼻先。
目。
腹。
順に見る。
「熱中症?」
セラが聞く。
「違う」
「毒?」
「匂いはない」
リシェルが膝をつく。
治癒術式を使おうとして、少しだけ手が止まった。
あの町で弱った定式魔法。
その感触が残っているのだろう。
それでも杖を出す。
青白い光。
今度は安定している。
蜥蜴の痙攣が少し収まる。
「外傷はありません」
「なら何で」
セラがしゃがむ。
ガロは蜥蜴の腹へ手を当てる。
「下にいた」
「地下?」
「ずっと」
目を細める。
「地下の環境が変わって、逃げた」
単純な被害ではない。
地上が焼けた。
植物が萎れた。
それだけではない。
地下の生き物たちの居場所そのものが変わった。
ユリウスの胃の辺りが重くなる。
自分の魔法で人は死んでいない。
それは事実だ。
だから大丈夫。
そう言いたくなる。
けれど目の前の蜥蜴を見れば、その言葉は口から出なかった。
セラが立ち上がる。
「なら戻す方法を探す」
ユリウスが顔を上げる。
「戻す?」
「流したんだろ」
「多分」
「なら戻せばいい」
「どこへ」
セラが口を閉じる。
そこが問題だった。
戻した先で、また同じことになる。
「元の場所?」
ユリウスが言う。
自分で言って、違うと思う。
グラドがそこへ向かっていた。
町の地下。
何かが偏っていたから。
元へ戻すだけでは、またグラドが来る可能性がある。
「じゃあ」
セラが眉を寄せる。
「どこならいいんだ」
誰も答えられなかった。
◇
夕方。
四人とレオルは古い円形施設へ戻った。
外した金属環を、元の床へ一度だけ戻す。
昨日のままではない。
稼働させない。
見るだけ。
環を溝へ嵌める。
かち。
昨日と同じ音。
レオルがしゃがむ。
「ここだ」
指を差す。
外側の環。
一段回すと、最後の溝が最初へ繋がる。
「昨日は北谷側へ流すために、ここから外へ抜いた」
リシェルが言う。
「でも本来の位置だと」
ユリウスが床を見る。
輪。
始まり。
途中。
終わり。
そして。
終わりがない。
「戻ってる」
セラが言った。
「最初に」
誰も動かない。
ユリウスは目で流れを追う。
受ける。
通す。
渡す。
最後。
最初へ。
外へ捨てていない。
「これ」
喉が乾く。
「逃がすための設備じゃなかった?」
レオルが金属環へ触れる。
「少なくとも、この部分だけ見れば違う」
「じゃあ何のために」
レオルは首を横へ振る。
「分からない」
でも。
一つだけ分かった。
昨日、自分たちは本来の構造を途中で切った。
そして外へ流した。
古い施設が、わざわざ最後を最初へ戻すよう作られていた理由を知らないまま。
「戻す必要があった」
ユリウスが言う。
リシェルが見る。
「何を?」
「分かりません」
昨日なら、その言葉が嫌だった。
今は少し違う。
分からないなら。
勝手に捨てない。
それだけは分かる。
レオルが床の輪を見ながら言った。
「閉じてる」
「閉じる?」
「最後を最初へ接続して、外へ逃がさない」
リシェルも線を追う。
「循環……?」
その言葉が部屋へ落ちた。
ユリウスの鞄の中。
《重層材》が小さく震えた。
◇
北谷の異常は、三日かけて少しずつ弱まった。
大きな魔法は使わなかった。
熱の偏った場所へ水を引き。
地下棲みの魔獣が戻れるまで周辺へ仮の巣を作り。
危険な岩場だけ、《熱渡し》で少量ずつ熱を分散した。
一気に。
遠くへ。
そういう使い方はしなかった。
遅い。
派手でもない。
ミラドが二日目に言った。
「最初からこっちでよかったんじゃないか」
ユリウスは答えられなかった。
多分。
町にグラドが迫っていたあの時なら、同じことはできなかった。
時間がなかった。
だから選んだ。
間違った。
その両方が本当だった。
三日目の朝。
石甲蜥蜴が一頭、地面の穴へ戻った。
ガロが見つけた。
誰も声を上げなかった。
ただ四人で、その尾が暗い穴の奥へ消えるまで見ていた。
セラが小さく言う。
「一個戻ったな」
ユリウスは頷く。
全部ではない。
でも。
戻ることはできるらしい。




