第30話 山が歩く
山の稜線が、もう一度動いた。
今度は見間違いではなかった。
遠くに連なる黒い山々のうち、一つだけがゆっくりと持ち上がっていく。岩肌だと思っていた斜面が傾き、その上に生えていた木々が一斉に揺れた。
鳥がいない。
虫も鳴かない。
夜の風だけが高台を抜け、乾いた土と硫黄の匂いを運んでいた。
「何だ、あれ」
セラの声が低い。
誰も答えられない。
山が立ち上がっている。
そうとしか見えなかった。
斜面の一部が前へ出る。
巨大な岩塊。
違う。
脚だ。
土と樹木を載せたまま、大地からゆっくり抜けていく。
岩が落ちる。
一つでも家ほどある。
地面へ当たるまで数秒。
遠いはずなのに、落下音より先に足元へ振動が届いた。
どん。
次に音。
腹の内側を叩かれたようだった。
ユリウスは思わず膝を曲げる。
二度目。
巨体がもう一本の脚を動かした。
山の形が崩れる。
背だと思っていた峰が伸び、尾根だと思っていた部分の下から暗い空洞が現れた。
目。
あまりに遠い。
それでも二つの赤褐色の光が開いたのが分かった。
「山背」
ガロが呟いた。
ユリウスが見る。
「知ってるんですか」
「話だけだ」
ガロは巨体から目を離さない。
「ヴェルディアにも昔、山が歩く話はあった」
リシェルが息を整えながら聞く。
「同じ個体?」
「知らん」
その時、高台へ上がってくる足音がした。
ミラドだった。
息を切らし、手には古い帳面を抱えている。
「グラドだ」
ページを開く。
そこには子どもの落書きにしか見えない絵があった。
四本脚。
背中に山。
小さく描かれた人間。
その横に、古い文字。
《山背グラド》。
「鉱山の古い記録だ。昔話だと思ってた」
「どれくらい昔です?」
リシェルが帳面を取る。
「一番古いので三百年以上前。山が動いた、その後また眠った。それだけだ」
「倒した記録は?」
セラが聞く。
ミラドが首を横へ振る。
「倒したとは書いてない」
グラドが脚を上げる。
一歩。
遠い山腹が沈む。
土煙が立った。
方向。
カルダの町へ近づいている。
誰も、それを口にしなかった。
◇
町へ戻る頃には、避難鐘が鳴っていた。
甲高い音が何度も石造りの家にぶつかり、狭い通りへ反響している。
人が走る。
荷車。
子ども。
家畜。
持てるだけの荷物。
誰も叫び続けてはいない。それでも普段なら聞こえる商人の呼び声も笑い声もなく、人の足音だけが町全体を流れていた。
「東門へ!」
役場の男が叫ぶ。
「南道は使うな! 斜面が崩れてる!」
セラがすぐ動く。
「私は東門」
「私も行きます」
リシェルが杖を持つ。
「荷車が詰まったら《浮上》を使えます」
「瞬断がある」
レオルが止める。
「一つの術式に頼るな。人力も残しておいて」
「分かっています」
その返事は少しだけ硬かった。
ユリウスも行こうとする。
ミラドが腕を掴む。
「お前はこっちだ」
「何です?」
「北側の橋で荷車が止まってる」
「俺が?」
「変な魔法が使えるんだろ」
言い方。
けれど今は気にしている場合ではない。
◇
町の北側には、小さな石橋があった。
谷というほど深くはない。
雨期だけ水が流れる窪地へ、石を積んだ橋が架かっている。
そこで三台の荷車が詰まっていた。
最後尾の一台。
荷物を積みすぎている。
車輪が沈み、橋の継ぎ目へ引っかかって動かない。
荷台には袋と木箱。
その上に老人が二人と子ども。
「荷物を下ろせ!」
作業員が叫ぶ。
「時間がかかる!」
別の男が押している。
動かない。
遠く。
グラドの足音。
一度。
空気が震える。
子どもが泣き始めた。
ユリウスは荷車へ手を置く。
重い。
こんなもの、《浮上》が安定して使えれば。
でも今は。
頭の中に、古い鉱山部品が浮かんだ。
昇降機。
荷を上げる。
下げる。
吊る。
軽くするわけではない。
重さを別の場所へ預ける。
「ミラドさん」
「何だ」
「古い昇降機の部品、ありません?」
「今ここで?」
「今だから!」
ミラドが一度舌打ちする。
「保守小屋!」
橋の横。
工具置き場へ走る。
中から古い金属輪と短い鎖を持って戻ってきた。
「何が欲しい!」
ユリウスは手に取る。
金属輪。
何十年も荷を吊っていた。
短い鎖。
片側だけ摩耗。
さらに荷車そのものから、古い平衡金具を外す。
「何するんだ」
「重さを」
止まる。
何をすれば、物が軽くなる。
《受衝》は衝撃を逃がす。
《熱渡し》は熱を移す。
なら重さも。
どこかへ渡せる?
違う。
時間がない。
「少しだけ減らせれば」
地面へ並べる。
吊り輪。
鎖。
平衡金具。
持ち上げる。
受ける。
釣り合う。
流れを作る。
「ユリウス!」
遠くからセラの声。
東門側から走ってくる。
「何してる!」
「軽くします!」
「できるのか!」
「今やります!」
セラが顔をしかめる。
「分からないって言うなよ!」
ユリウスは魔力を通した。
最初の輪。
反応。
鎖。
細かく揺れる。
最後の金具。
荷車が。
少し浮いた。
「来た!」
作業員が押す。
荷車が動く。
ほんのわずか。
次の瞬間。
右側だけが大きく持ち上がった。
「え」
車体が傾く。
左車輪へ全重量が落ちる。
荷台の木箱が滑った。
「押さえろ!」
セラが走る。
盾を背にしたまま荷車の右側へ肩を入れる。
ミラドも。
作業員も。
ユリウスは魔力を止める。
右側が落ちた。
車体が大きく跳ねる。
子どもの悲鳴。
けれど倒れない。
「何だ今の!」
ミラドが叫ぶ。
ユリウスは材料を見る。
「片方だけ」
「見れば分かる!」
失敗。
全体を軽くするつもりだった。
片側だけ。
「《片軽》」
息を切らしたセラが言った。
「今、名前つけてる場合ですか」
「覚えやすいだろ!」
《片軽》。
最悪の初成功だった。
◇
結局、荷車の荷物を半分下ろした。
ただし《片軽》は使った。
今度は意図的に。
右側だけ軽くする。
左車輪が継ぎ目へ引っかかっている。
なら右を軽くするのではない。
左。
材料の向きを反転させる。
左側だけが浮く。
「今!」
作業員が押した。
車輪が段差を越える。
荷車が前へ進んだ。
セラが横で笑う。
「失敗がもう役立ったな」
「褒めてます?」
「半分」
「片方だけに?」
「上手いこと言った顔するな」
老人と子どもを乗せた荷車が橋を渡る。
東門へ進む。
誰も怪我をしていない。
ユリウスは材料を拾った。
白くなり始めている。
また少し減った。
それでも、さっきより手は迷わなかった。
◇
日が落ちる前。
町の大半の避難が終わった。
グラドはまだ来る。
一歩ずつ。
速くはない。
でも止まらない。
レオルが高台に測定術具を並べていた。
リシェルが隣で数値を取る。
ユリウスたちが戻ると、二人とも顔を上げなかった。
「何か分かった?」
セラが聞く。
レオルが紙を指す。
「グラドが動くたび、周辺の定式魔法出力が落ちてる」
ユリウスが止まる。
「グラドが吸ってる?」
「そこまでは言えない」
リシェルが答える。
「でも位置関係は合っています」
グラド。
瞬断。
弱くなった町。
新しい定式術式。
全部が近い。
ただ、線にはならない。
まだ。
ガロが山を見る。
「あいつ、町を見てない」
「何?」
セラが聞く。
「人間を追ってない」
グラドは確かに進んでいる。
けれど赤褐色の目は町を向いていない。
少し下。
町の地下。
もっと深い場所。
ユリウスの背中を冷たいものが通った。
「何かある」
ガロが言う。
「町の下に」
グラドがまた一歩。
石橋の水が震えた。




