第29話 弱くなった町
山麓町カルダへ着いたのは夕方だった。
ドルグラードの鉱山都市ほど大きくはない。
山道の中継地として作られた町で、石造りの家が斜面へ沿って並び、中央を一本の水路が流れている。
夕暮れの光は山の向こうへ沈みかけ、家々の壁を赤く染めていた。火山地帯特有の乾いた土の匂いに、炊事の煙と薬草、それから微かな硫黄臭が混じっている。
普段なら。
もっと明るいはずだった。
通りの魔法灯が暗い。
消えてはいない。
乳白色の球の中央に、弱い光が浮かんでいるだけ。
「まだ戻り切ってない」
リシェルが言う。
町の人間が水場へ集まっている。
公共水栓。
蛇口を捻る。
水は出る。
細い。
普段の半分もない。
「魔力供給は?」
レオルが町の技師へ聞く。
「正常だ。何度測っても」
「術式の損傷」
「なし」
「制御盤」
「交換した。変わらん」
同じ。
また同じ。
正常なのに、弱い。
町の治療所へ向かう。
入口には人が何人か並んでいた。
重傷者ではない。
火傷。
切り傷。
熱中症。
簡易治療術式が弱くなったため、普段なら短時間で済む処置に時間がかかっている。
リシェルが一人の患者へ近づく。
手の甲に切り傷。
治療師が術式を起動する。
青白い光。
傷が閉じる。
途中で薄くなる。
完全には止まらない。
でも遅い。
リシェルの唇が少し開く。
「出力が」
治療師が苦い顔をする。
「朝からこれだ」
「術者を替えても?」
「同じ」
「術式板は」
「三枚試した」
リシェルが杖を持つ。
「私がやります」
自分の定式治癒。
光が集まる。
正常。
最初は。
数秒後。
弱くなる。
彼女の眉が寄る。
魔力を増やす。
光も少し強くなる。
でも普段ほどではない。
「リシェル」
ユリウスが声をかける。
「大丈夫です」
返事が早い。
以前と同じ。
でも今度は、手が止まらない。
何度も試す。
一回。
二回。
三回。
「もういい」
セラが腕を掴んだ。
リシェルが振り払おうとする。
「放してください」
「患者は治療師が見る」
「出力条件を確認しないと」
「後でやれ」
「今です」
声が少し強い。
ユリウスは初めて見た。
リシェルが、分からないことに腹を立てるのではなく。
怖がっているように見えた。
定式魔法は。
彼女にとって、学問である前に足場なのだ。
正しく組めば動く。
再現できる。
だから信じられる。
その足場が今、目の前で少し沈んでいる。
セラが低い声で言う。
「手、震えてるぞ」
リシェルの指が止まる。
本当に。
少しだけ。
彼女はゆっくり杖を下ろした。
「……すみません」
治療師に向けて言う。
「何がだ」
「邪魔をしました」
外へ出る。
誰もすぐには話さなかった。
◇
町役場。
技師。
治療師。
給水担当。
灯火管理者。
記録を並べる。
弱まり始めた時刻。
午前九時十二分前後。
最も低下したのは九時十五分。
その後、少しずつ回復。
レオルが自分の記録を出した。
鉱山で《熱移送式》を接続した時刻。
午前九時十分。
ユリウスの目が止まる。
二分。
「偶然かもしれない」
レオルが先に言った。
誰も責めていない。
それでも自分で言った。
「距離もある。術式の系統も違う。因果関係を示すものは何もない」
「でも時間は近い」
セラが言う。
「分かってる」
声が少し硬い。
ユリウスはレオルを見る。
綺麗に整理された理屈の人。
今は紙の端を指で押さえている。
強く。
「試験、止めます?」
ユリウスが聞く。
レオルはすぐ答えない。
「止める」
「でも原因は」
「分からない」
目を閉じる。
一度。
「分からないから止める。続けて誰かが死んだら、研究者だからでは済まない」
ユリウスは黙った。
その言葉。
自分にも向いている。
◇
夜。
町外れの高台。
四人とレオルは、町の明かりを見ていた。
魔法灯が少しずつ明るさを取り戻している。
完全ではない。
でも夕方よりはましだ。
山から吹く風は昼間より冷たく、硫黄の匂いを薄く運んでくる。遠くの火山が雲の下で赤く光り、時々低い音を響かせていた。
ユリウスは地面へ座っている。
レオルは立ったまま。
リシェルは記録を何度も見返している。
セラは腕を組む。
ガロだけが町ではなく山の方を見ていた。
「何見てる」
セラが聞く。
「山」
「それは分かる」
「静かすぎる」
ガロが言う。
全員が振り向く。
「静か?」
ユリウスが聞く。
「鳥がいない」
確かに。
町の近くなら夜鳥が飛んでもおかしくない。
虫の声も少ない。
風だけ。
「熱のせいじゃ」
リシェルが言いかける。
ガロは首を横へ振る。
「昨日まではいた」
「何か来てる?」
セラの手が剣へ行く。
「分からん」
ユリウスは山を見る。
暗い輪郭。
大きい。
昔からそこにある。
ただの山。
そう見える。
地面が。
ほんの少し。
震えた。
誰も声を出さない。
もう一度。
低い。
遠い。
ガロが立ち上がる。
「これ」
ユリウスも立つ。
「地震?」
「違う」
ガロの耳が伏せる。
山の稜線。
その一部が。
動いた。
最初は雲だと思った。
違う。
黒い輪郭がゆっくり持ち上がる。
岩。
土。
木。
全部を背負ったまま。
山だと思っていたものが。
息をするように。
少しだけ、上下した。
セラが低く言う。
「おい」
誰も返さない。
ユリウスは鞄の中の材料へ手を伸ばした。
けれど指は留め具の上で止まった。
今度は。
拾ってから考えるのでは遅い気がした。




