第22話 熱の国
ヴェルディアを離れて六日目、森の匂いが消えた。
最初に変わったのは色だった。
道端の土から緑が減り、代わりに赤茶けた岩が増える。さらに山へ近づくにつれて地面は黒くなり、ところどころ灰色の筋が走っていた。遠くの峰からは煙が細く上がり、空は晴れているのに薄い靄がかかったように白い。
そして、暑い。
日差しだけではなかった。
地面から熱が上がってくる。
靴底を通してじんわりと温度が伝わり、風が吹いても涼しくならない。乾いた硫黄の匂いと、焼けた石のような臭気が鼻の奥へ残った。
「まだ入口だぞ」
セラが言った。
ユリウスは汗を拭う。
「これで?」
「山へ入ればもっと暑い」
「帰ります?」
「お前が言うな」
セラは平然としている。
鎧を着たまま。
首筋には汗が流れているのに、歩調が変わらない。
「慣れてるんですか」
「昔、似た土地にはいた」
「騎士の時?」
「まあな」
それ以上は続かなかった。
ガロの方は露骨に嫌そうだった。
狼に似た灰色の毛が熱を抱えているらしく、いつもより口数が少ない。
「大丈夫です?」
ユリウスが聞く。
「暑い」
「それは見れば」
「なら聞くな」
確かに。
一番つらそうなのはリシェルだった。
外套はとうに脱ぎ、袖も少し捲っている。それでも頬が赤い。
「こんなに暑いとは記録に」
「書いてなかった?」
セラが聞く。
「平均気温は読みました」
「数字と暑さは違うだろ」
「分かっています」
「分かってない顔だぞ」
リシェルは返事をしなかった。
その代わり、腰から水筒を取る。
傾ける。
眉が寄った。
「ぬるい」
「そりゃそうだ」
セラが言う。
ユリウスは水筒を見る。
少し考える。
「貸してください」
リシェルが怪訝な顔をした。
「飲むんですか」
「違います」
「なら何を」
「《温抱》」
三人が同時に見る。
セラが先に言った。
「温める必要あるか?」
「名前が悪いだけで、温度を残してるなら」
ユリウスは水筒を受け取った。
朝、野営地を出る時はまだ水が冷たかった。
今は外気で温まっている。
完全に元へ戻すことはできない。
でも次からは。
「冷たいものを冷たいまま残せる?」
リシェルの目が少し変わった。
「理屈では」
「試しましょう」
「今から?」
「今困ってるので」
セラが笑う。
「そういう時だけ判断早いな」
材料を出す。
割れた保温石。
古い湯瓶金具。
煮込み壺の欠片。
本来は熱を抱えてきた材料だ。
ただ、材歴として残っているのが「高い温度」なのか、「変化を抑えること」なのか。
そこはまだ分からない。
少し先に、小さな湧き水があった。
山肌から染み出した水。
触ると冷たい。
ユリウスは水筒を空にし、新しい水を汲む。
そのまま《温抱》を組む。
魔力を通す。
反応は弱い。
けれど成立した。
「これで歩く」
「どれくらい?」
リシェルが聞く。
「分かりません」
「そこは変わりませんね」
一刻ほど歩いた。
日差しはさらに強くなる。
セラが水筒を奪うように取った。
「確認する」
口をつける。
目が少しだけ見開く。
「冷たい」
リシェルがすぐ手を出した。
「私にも」
一口。
今度は表情がはっきり変わった。
「最初よりは温まっています。でも、普通に持ち歩くより明らかに遅い」
ガロにも渡す。
無言で飲む。
少しだけ耳が上がった。
ユリウスは笑う。
「便利でしょう」
「最初からやれ」
「今気づいたんです」
「これから水筒全部に使え」
「材料が減ります」
「命と材料、どっちが大事だ」
セラが言う。
ユリウスは答えようとする。
一瞬迷う。
セラの目が細くなる。
「今迷ったな」
「迷ってません」
「間があった」
「暑くて反応が遅れただけです」
ガロが水筒を返しながら言う。
「嘘だな」
最近、味方が減っている。
*
午後、ドルグラードの外壁が見えた。
山そのものへ張り付くように都市がある。
黒い石壁。
赤銅色の屋根。
谷をまたぐ鉄橋。
その下には巨大な滑車や荷揚げ機が動き、鉱石を載せた籠が何本もの鎖で上下していた。
街の奥。
山腹には横穴がいくつも開いている。
坑道。
さらに高いところには鍛冶工房の煙突が並び、白い煙と黒い煙を空へ吐いていた。
炎を使う街だ。
そう思った。
けれど近づくほど、それだけではないと分かる。
道路脇を太い魔導管が走っている。
ところどころで管が枝分かれし、工房や共同浴場、住居へ伸びている。地下から引き上げた熱水や蒸気を通し、定式術式で圧力と温度を調整しているらしい。
王都では水や熱を運ぶ設備の一つだった魔導管が、ここでは街そのものを支える血管のように見えた。
「止まったら」
ユリウスが呟く。
リシェルも同じものを見ていた。
「王都より危険です」
管の向こう。
巨大な鉱石運搬機。
坑道。
換気塔。
昇降機。
固定術式。
熱制御。
圧力調整。
魔法が止まれば、不便になるだけでは済まない。
セラが二人を見る。
「だから来たんだろ」
短い言葉。
ユリウスは頷いた。
*
街へ入ると、音が多かった。
鉄を叩く音。
荷車の車輪。
蒸気を逃がす高い音。
坑夫たちの怒鳴り声。
鍛冶場から流れてくる金属と煤の匂いへ、香辛料の強い食事の匂いが混じる。
森とはまるで違う。
静かな場所を探す方が難しい。
「宿を先に」
リシェルが言った。
「その前に」
ユリウスは道の向こうを見る。
古道具屋。
店先に錆びた金具や鉱山用の道具が山積みになっている。
「行きません」
リシェルが言った。
「まだ何も」
「顔」
セラまで言う。
「宿が先だ」
「少しだけ」
「荷物置いてから」
ガロが一言。
「重い」
ユリウスは自分の鞄を見た。
森を出る時に減らした。
かなり減らした。
なのに、すでに膨らんでいる。
「分かりました」
渋々、宿へ向かう。
十歩ほど歩いたところで振り返る。
店先に、古い圧力弁が見えた。
片側だけ異様に磨耗している。
「ユリウス」
セラの声。
「行きます」
名残惜しかった。




