第20話 森母ヴァルナ
最初に持ち上がったのは地面だった。
土が裂けたわけではない。
ゆっくりと盛り上がる。
落ち葉が滑り落ち、湿った黒土の下から太い根が現れる。
一本。
その隣でも。
さらに奥でも。
根だと思ったものが、地面そのものを押し上げながら動いていた。
「走れ!」
ガロの声で全員が動いた。
三人の運び屋も古材を捨てる。
右脚を庇っていた男だけが遅れた。
セラが一度進みかけ、すぐ戻る。
「掴まれ!」
男の腕を引き上げる。
そのすぐ後ろで地面が隆起した。
倒木が持ち上がる。
根に絡んでいた古材の束が空中へ投げ出され、一枚の橋板が回転しながら落ちてきた。
「セラ!」
ユリウスの声。
セラは男を突き飛ばす。
盾を上げた。
板が落ちる。
ぶつかる直前。
ユリウスは地面へ滑り込んだ。
《受衝》。
準備済みの材料を完全に並べる時間はない。
古橋縄。
車輪留め。
根片。
指で押さえ、向きを合わせる。
「その根、逆です!」
リシェルが叫ぶ。
ユリウスがひっくり返した。
魔力。
光。
板が盾へ激突する。
衝撃が流れた。
セラの腕を通りきる前に横へ逸れ、数歩先の土が大きく弾ける。
橋板は盾の上で割れた。
「助かった!」
セラが叫ぶ。
「あとで!」
ユリウスは材料を鞄へ掴み戻した。
森が動いている。
比喩ではない。
地面を這う根が場所を変え、倒木が押し上げられ、木々の幹そのものまでわずかに傾いていた。
上を見る。
枝が絡み合う。
光が消えていく。
さっきまで昼だった森が、夕方のように暗くなる。
「どこへ行く!」
セラが聞く。
「村とは逆!」
ガロが進路を変える。
「何で!」
「あっちが動いてる!」
意味を考える暇がなかった。
*
しばらく走ったところで、森の形が変わった。
さっき通ったはずの場所なのに、道がない。
太い根が壁のように盛り上がっている。
ガロが止まる。
「違う」
「何が」
ユリウスが息を切らす。
「道が移ってる」
赤布の男が声を荒らげた。
「道が移るわけないだろ!」
返事の代わりに、背後の木が軋んだ。
幹が数センチ傾く。
根が地面の下で引かれ、別の方向へ伸びていく。
男は何も言わなくなった。
リシェルが息を整えながら周囲を見る。
「一本の木の動きじゃない」
「当たり前だ」
セラが盾を構えたまま言う。
「森中だぞ」
「だからです」
リシェルは地面へ手を当てる。
「これだけ別々の木が、同時に同じ反応をする理由が」
「繋がってる」
ガロが言った。
声は低かった。
ユリウスが顔を上げる。
ガロは木ではなく、地面を見ている。
「昔、じいさんに聞いた」
珍しく、自分から昔の話を始めた。
「森は一本ずつ生えてるように見える。でも奥では、根も水も土も離れてないって」
「それが今の?」
「分からん」
一度そこで止まる。
ガロがこういう時に「分からない」と言うのは珍しい。
「でも、森が大きく動く時は名前がある」
セラが聞いた。
「何て」
ガロが森を見る。
「《森母ヴァルナ》」
風が抜けた。
いや。
風ではない。
葉が揺れる音が、地面の下から広がってきた。
*
確かめたのは《響返》だった。
「使うぞ」
ユリウスが材料を出す。
「何を見る」
ガロが聞く。
「下です」
「音で?」
「返り方が違えば、空洞か根かくらいは」
リシェルが途中から理解した。
「分かる可能性があります。普通の岩盤なら反射する。根の密集層なら吸われ方が変わる」
「やって」
セラが後ろを見る。
「早く」
ユリウスは青銅鐘片を置く。
空洞枝。
反響岩。
今度は森の奥へ声を返すためではない。
地面へ向ける。
鐘片の向きを下へ。
空洞枝を斜めに。
反響岩を最後へ。
指先から魔力を通す。
かすかな音。
こん。
地面へ沈む。
数秒。
何もない。
その直後。
遠く。
左。
右。
背後。
足元。
何十もの場所から音が返った。
ばらばらではない。
一つの音が奥を走り、遠くの場所まで伝わってから戻ってきたように聞こえる。
リシェルの顔が上がった。
「こんな伝わり方は」
「岩じゃない?」
ユリウスが聞く。
「岩ならもっと早い。土だけならここまで遠くへ通らない」
もう一度。
今度はリシェルが耳を地面へ近づける。
音が走る。
返る。
彼女がゆっくり起き上がった。
「根だけでもない」
「何?」
「細かい何かが、その間まで繋いでいます」
土を掘る。
ほんの少し。
黒い土の中に、白い糸のようなものが無数に走っている。
ガロが触れる。
「森糸」
「何です?」
「木の根の近くにある。昔から踏み荒らすなと言われてる」
リシェルが目を細める。
細い糸。
根。
水。
土。
離れた木。
「一つの個体という意味ではないかもしれません」
慎重な言い方だった。
「でも、別々でもない」
ユリウスが呟いた。
そう考えるしかなかった。
彼らは森の中を歩いていたのではない。
もっと大きな何かの中を、ずっと歩いていた。
*
地面がまた揺れた。
今度は近い。
ユリウスたちの右側で、巨木の根が大きく盛り上がる。
その下に道がある。
いや。
あった。
「塞がれる!」
セラが叫ぶ。
「左へ!」
ガロが指した。
だが左には倒木。
その向こうにも根が伸びている。
「切るか?」
セラが剣へ手をかける。
「駄目だ!」
ガロの声が飛ぶ。
セラの手が止まる。
「じゃあどうする!」
ガロが周囲を見る。
ユリウスも。
倒木。
根。
濡れた地面。
細い隙間。
《滑奪》。
「動かせる」
ユリウスは鞄を開く。
「何を」
「倒木です」
古い車輪金具。
滑車軸。
杼の金具。
すでに何度か使っている。
色は薄い。
それでも残っている。
「倒木の下だけ滑らせます」
リシェルがすぐに位置を見る。
「範囲を狭く。根へかけないでください」
「分かってます」
材料を置く。
一度。
反応しない。
向きを変える。
「早く!」
セラが後ろで盾を構える。
木々が軋む。
三回目。
薄い銀光。
倒木の下の泥だけが滑る。
「押すぞ!」
セラと赤布の男が肩を当てる。
動かない。
ガロも加わる。
少し。
木がずれた。
もう少し。
隙間が人一人通れる幅になる。
「先に行け!」
三人の運び屋を通す。
リシェル。
ガロ。
ユリウス。
最後にセラ。
全員が抜けた瞬間、《滑奪》の光が消えた。
倒木がまた泥へ沈む。
「今のはいい」
セラが言う。
「あとで褒めてください」
息が続かない。
*
森のさらに奥。
大きな広場のような場所へ出た。
中央に一本の古木が立っている。
今まで見たどの木より太い。
幹の半分は空洞化しているのに、上には葉が茂っていた。
根は地面へ潜るというより、森全体へ手を伸ばしているように見える。
ユリウスは足を止めた。
反応する。
魔力を通していない。
それでも分かる。
今まで見た材料とは違う。
この木なら。
風。
雨。
重み。
温度差。
何百年、あるいはそれ以上。
どれほどの《厚み》が。
視線が根へ落ちる。
一部が古く裂けている。
少し取るだけなら。
考えた。
本当に、一瞬だった。
鞄から小さな刃を出しかける。
手首を掴まれた。
強い。
ガロだった。
「触るな」
いつもの声ではない。
ユリウスの指が止まる。
「でも、この木なら」
「触るな」
「今の《受衝》も材料が減ってる。ここを抜けるのに、もっと強い材歴が」
掴む力が強くなった。
ガロがユリウスを見る。
琥珀色の目が近い。
「お前には材料に見えるんだろうな」
ユリウスは答えられなかった。
「古い。強い。何回も使える。そう見えてる」
「ガロ」
「でも俺たちには」
一度だけ言葉が切れた。
森が鳴る。
巨木の上で葉が揺れる。
「これが森だ」
ユリウスの手から力が抜けた。
ガロは続ける。
「使えるものと、使っていいものは違う」
前に聞いた。
言葉として。
その時は理解したつもりだった。
今は、自分の手首を掴む力の中に同じ言葉がある。
ガロはこの木を材料として見ていない。
故郷でもない。
景色でもない。
自分が帰ってくる場所を作っている一部として見ている。
ユリウスは刃を戻した。
「切らない方法を考えます」
ガロの手が離れる。
それだけだった。
謝罪もない。
ユリウスも言わなかった。
今は、その方がよかった。
*
古木を切らずに森から出る。
必要なのは、戦うことではない。
どこが動くかを見て、避けること。
ガロが判断する。
ユリウスが魔法を使う。
リシェルが範囲と向きを直す。
セラが最後尾を守る。
《足残》を使う。
森全体が光る。
今度は驚かない。
ガロがその中から、特に新しく動いた根だけを選ぶ。
「右が先に動いてる」
「じゃあ左?」
「いや。左は次に閉じる」
「どうして分かる」
セラが聞く。
「匂いが変わった」
誰にも分からない。
でも今は信じる。
《響返》を使う。
地下の根が密集していない方向を探す。
《雨継》を使う。
森に溜まった薄い霧を一か所へ寄せ、視界を開く。
《受衝》で倒れてきた枝の力を横へ逃がす。
新しい魔法は一つもない。
それでも以前とは違う。
ひとつひとつは小さい。
派手でもない。
ただ繋げると、人が通れる道になる。
夕方。
森の動きが少しずつ遅くなった。
ガロは途中で切られかけた根へ戻った。
三人の運び屋もいた。
赤布の男は、捨てた斧を拾っていない。
ガロは樹脂と湿った土を混ぜ、傷へ押し込んだ。
「治るのか?」
ユリウスが聞く。
「治すんじゃない」
「じゃあ」
「乾かさない。匂いも抑える」
森の知恵。
魔法ではない。
ガロの指が樹脂を塗る。
しばらくして。
本当に少しずつ。
周囲の根の動きが止まっていった。
枝の軋み。
地面の震え。
全部が遠ざかる。
最後に残ったのは、普通の森の音だった。
鳥。
虫。
水。
風。
セラがその場へ座り込んだ。
「倒した方が楽だったな」
ガロが答える。
「何を」
セラは森を見る。
「そういう話じゃないか」
少し笑った。
ユリウスは古木を見る。
切らなかった。
使わなかった。
そのことが、妙に手の中へ残っていた。
魔法を作れる。
だから何を使ってもいいわけではない。
その境目は、術式にも《材歴》にも書かれていない。
自分で決めなければならないらしい。




