第19話 森が動いている
古い工房跡を離れたのは、昼を少し過ぎてからだった。
前夜までの雨はすっかり上がり、森の高いところでは日差しが葉を透かしていた。それでも地面まで落ちてくる光は淡い緑色に変わり、濡れた根や苔の表面だけを薄く光らせている。踏み込むたびに腐葉土がわずかに沈み、湿った木と土、それに甘く腐り始めた落ち葉の匂いが足元から立った。
ユリウスの鞄には、昨日までより荷物が増えていた。
《重層材》として反応した落ち枝。
工房跡で見つけた石板の写し。
そして、持って帰る必要があるのか自分でも説明しづらい、古い金具が二つ。
「増えてるな」
前を歩くセラが振り返った。
「何がです?」
「荷物」
「研究資料です」
「その小さい金具も?」
「まだ何だったか分からないので」
セラが前を向く。
「その言葉、最初に会った時から一回も進歩してないぞ」
「分からない物が減ってないので」
「むしろ増えてるな」
その横を歩いていたガロが言った。
ユリウスは少し考えてから頷いた。
それは否定できない。
《材歴》という名前がついた。
《反復》《方向》《保持》《厚み》という条件も見えてきた。
何も分からなかった頃より、確かに進んでいる。
なのに分かることが増えるほど、その外側にあるものの方が広くなる。
森を歩いているのに、地図の白い部分だけが増えていくような感覚だった。
「止まれ」
ガロの声で四人の足が止まった。
森の道らしき場所。
数日前ならユリウスには何も見えなかっただろう。
今は少しだけ分かる。
落ち葉が不自然に沈んでいる。
枝が一本、踏まれて折れている。
「人?」
ユリウスが聞く。
ガロがしゃがむ。
「三人」
セラが剣の柄へ手を置いた。
「またか」
ユリウスも気づいた。
以前、《足残》を作ったきっかけになった三人。
ガロが残された跡を追う。
「同じだと思う」
「分かるの?」
リシェルが聞いた。
「一人、右足を少し引きずる。もう一人は荷物を左へ寄せて持つ」
ユリウスにはまったく見分けがつかなかった。
「いつくらいです?」
「朝」
「追えます?」
ガロが立つ。
「追わなくても向こうへ行ってる」
指したのは、村へ戻る道とは少し外れた方向だった。
ユリウスは迷った。
三人が盗賊ではないらしいことは以前から分かっている。
ただ、何を運んでいたのかは分からなかった。
今なら少し事情が違う。
古い工房。
《重層材》。
《材歴》。
そして、今までならただの古材にしか見えなかった物へ、自分たちは別の価値を見つけ始めている。
「少しだけ見に行きません?」
「やっぱり言うと思った」
セラがため息をつく。
リシェルはガロを見る。
「危険は?」
「人間だけなら大したことない」
「その言い方だと、人間以外がいるみたいですね」
「森だからな」
答えになっているようで、なっていない。
*
三人を見つける前に、ユリウスたちは妙なものを見つけた。
足跡が消えた。
正確には、見えなくなった。
「ここまではある」
ガロが木の根元を指す。
その先は落ち葉が厚く、視線だけでは追えない。
ユリウスが鞄を下ろした。
「《足残》を使います」
セラが周囲を見る。
「人はいないな」
「たぶん」
「そこはガロに聞け」
ガロが耳を動かす。
「近くにはいない」
ユリウスは材料を取り出した。
古い渡し石の欠片。
使い込まれた靴底。
荷重を受け続けた木片。
何度も使った組み合わせなので、並べる手つきは以前より速い。
それでも地面へ直接置く以上、根や落ち葉の凹凸は邪魔になる。
「ずれてます」
リシェルが言う。
「どこ?」
「石が少し左」
ユリウスが直す。
「そこ」
魔力を通した。
淡い銀光が地面を這う。
最初に浮かび上がったのは、人の足跡だった。
一つ。
二つ。
三つ。
歩幅が違う。
ガロが見ていた三人のものだろう。
「合ってる」
ガロが言う。
銀色の痕跡は森の奥へ続く。
ところが数歩先。
光が広がった。
「何だ」
セラが一歩下がる。
足形ではない。
根。
地面。
倒木。
太い根から細い根へ。
一本の木から隣の木へ。
銀色の線が次々に浮かび上がる。
ユリウスは息を止めた。
《足残》は、最近重みを受けた場所を拾う。
それなら。
「何か大きいものが通った?」
リシェルが地面を見る。
「この範囲全部を?」
光が増える。
目の前だけではない。
森の奥。
左右。
背後。
地面の下へ潜った太い根の位置まで、淡い銀が透けるように繋がっていく。
まるで巨大な血管を地面の上から見ているようだった。
「材歴が濃すぎるのか」
ユリウスが呟いた。
何百年。
何千年。
森の地面だ。
落ち葉が積もり、獣が歩き、木が倒れ、人も通った。
重みを受けた回数など数えられない。
「古すぎて、全部反応してる?」
リシェルが首を横へ振る。
「それなら以前から同じ反応をしているはずです」
ユリウスの口が止まった。
ガロがしゃがむ。
銀色になった根へ手を置いた。
目を閉じる。
「どうした?」
セラが聞く。
ガロは答えない。
手のひらを根から少し浮かせた。
また置く。
ユリウスにも見えた。
根の表面に溜まった雨水が、小さく震えている。
風はない。
「動いてる」
ガロが言った。
「何が?」
ユリウスが聞く。
ガロは森の奥を見た。
「森が」
*
銀色の痕跡が消えたあとも、誰もすぐには動かなかった。
見慣れていたはずの木々が少し違って見える。
さっきまで根は、地面から生えている物だった。
今は地面の下で何かと繋がっているようにしか見えない。
ガロが歩き始める。
速い。
「三人を探す」
セラがすぐ後を追う。
「理由は?」
「この先で切った匂いがする」
「木を?」
「分からん」
その声だけで、ユリウスは走った。
森の中ではガロに追いつけない。
枝を避ける位置。
根を踏まない歩き方。
何一つ同じではない。
少し進むと音がした。
斧。
乾いた木へ刃が入る音。
一度。
二度。
三度目の前に、ガロが声を上げた。
「止めろ!」
木々の向こうで誰かが振り返った。
三人いた。
以前追った足跡の主たちだろう。
一人は頭へ赤い布を巻いた男。
もう一人は背の高い女。
最後の一人は、右脚を少し庇うように立っている。
地面には束ねられた古木が置かれていた。
新しく伐採した木ではない。
倒木。
朽ちかけた橋板。
古い杭。
長い年月、森の中や村の周辺で使われていた物ばかりだった。
赤布の男が斧を下ろす。
「何だ?」
ガロが男たちと、その足元を見る。
斧を入れていたのは倒木だった。
ただし、その上へ細い生きた根が絡みついている。
古材を持ち上げるため、邪魔な根を切ろうとしていたらしい。
根にはまだ刃が半分ほど入っただけだった。
透明な樹液が滲んでいる。
「切るな」
ガロの声が低い。
男が眉を寄せる。
「こいつを外さないと持っていけないんだよ」
「置いていけ」
「買い取りが決まってる」
その言葉に、ユリウスが反応した。
「誰が買うんです?」
男はユリウスを見る。
「王都の商会だ」
「何のために?」
「知らねえよ。古い木、古い橋材、長く使った金具。そういうのを集めろって話だ」
リシェルの表情が変わる。
「いつからです」
「ここ一月くらい」
「買値は?」
「物によるが、前の倍どころじゃない」
男は束ねた古材を足で軽く示す。
「特にこういう、長く荷重がかかってた物とか、風に晒されてた古木は高い」
ユリウスの背中を冷たいものが通った。
条件が、近い。
偶然と言うには。
《反復》。
《方向》。
《厚み》。
誰かが理屈を知っているのか。
それとも、結果だけを先に集め始めているのか。
「誰がそんな指定を」
リシェルが聞く。
「そこまで知らん。俺たちは仲買から頼まれただけだ」
赤布の男は少し苛立った様子で続ける。
「盗んでるわけじゃない。村で許可された倒木だけだ。この木も持ってっていいって言われてる」
ガロは倒木を見た。
それから、絡みついた根。
「木はな」
「だったら」
「根は違う」
男が斧を見る。
「一本だけだろ」
ガロの耳が伏せた。
ユリウスは初めて、その表情を見た。
普段のガロは感情を表へ出さない。
嫌なら黙る。
不機嫌でも声の高さはほとんど変わらない。
今は違った。
「一本だから切るのか」
男も少し引いた。
「何だよ」
ガロが何か言おうとした時だった。
地面が鳴った。
足元より深い場所。
ご、と。
木ではなく、土そのものが低く軋む。
赤布の男が振り向く。
「何だ?」
倒木へ絡んでいた根が動いた。
ほんの指一本分。
ゆっくりと。
切られかけた場所が、斧の刃から逃げるように縮む。
誰も動かなかった。
次の瞬間。
森の奥で何十本もの枝が一斉に揺れた。
風はない。
鳥が飛び立つ。
数え切れない羽音が空を覆う。
ガロが叫んだ。
「斧を捨てろ!」
男の手から斧が落ちた。
地面の下で、何かが目を覚ました。




