第17話 誰かが先に、ここにいた
翌朝、ガロは火を消す前に森の奥を見ていた。
焚き火の煙は低く流れ、湿った朝の空気へ薄く溶けていく。夜の冷えがまだ地面に残っていて、腐葉土から立つ匂いは濃い。巨木の隙間から差し込む朝日は細く、倒木や苔の一部だけを金色に浮かび上がらせていた。
「今日は東へ行く」
ガロが言った。
セラが干し肉を噛みながら眉を上げる。
「村に戻るんじゃなかったのか」
「先に見る場所がある」
「昨日は言ってなかった」
「昨日は行くつもりなかった」
「何が変わった」
ガロはユリウスを見る。
「こいつ」
「俺?」
「昨日、音を返した」
「それで?」
「昔、似たことしてた場所がある」
ユリウスの手が止まった。
「似たこと?」
「分からん」
「今の説明だと何も分からないんですが」
「だから行く」
セラがため息をつく。
「お前ら、分からないって言葉好きだな」
リシェルが記録紙を畳む。
「私は嫌いです」
「一番使ってるぞ」
「必要だからです」
四人は火を消し、荷をまとめた。
東へ向かう道はなかった。
昨日までよりさらに森が深い。
地面を這う根は太く、場所によっては腰の高さまで盛り上がっている。倒木には苔だけでなく小さな茸や花が育ち、その下を虫が走る。
ガロだけが迷わない。
時々木の幹へ手を当て、少し離れた場所を見る。
「目印ですか?」
ユリウスが聞く。
「昔の傷」
「どこに」
ガロが示す。
幹に三本の浅い刻み。
苔で半分隠れている。
「人がつけた?」
「森人」
「何年前です?」
「知らん」
またそれだった。
けれど今度は、その先に何かがある。
*
昼を少し過ぎた頃、森の中に石が現れた。
最初は一つ。
苔に覆われ、木の根へ半分飲み込まれている。
その次に二つ。
少し進むと、石が線になった。
人工物だと分かる。
道だった。
今では地面とほとんど同じ高さまで沈み、ところどころ木の根に持ち上げられている。森が長い時間をかけて石道を呑み込み、自分の一部へ変えようとしているように見えた。
「こんなところに」
リシェルが立ち止まる。
ガロはそのまま進む。
「昔、工房があった」
「何の?」
「知らん」
「そればっかりですね」
「だから残ってる」
妙な答えだった。
やがて木々の間に、石壁が見えた。
屋根はない。
四方の壁も半分以上崩れている。
それでも建物だった形は残っている。
入口らしき場所には石柱が二本立ち、その内側へ蔦が垂れていた。
ユリウスは一歩入ったところで足を止めた。
空気が違う。
森の湿気はある。
けれど内部には、古い石と乾いた灰、錆びた鉄の匂いがわずかに残っていた。
「いつ頃まで使われてたんです?」
リシェルが壁を見ながら聞く。
ガロは首を横へ振る。
「俺が生まれる前から廃墟だ」
セラが崩れた壁へ手を置く。
「盗賊の根城とかじゃないよな」
「今はいない」
「今は、って言い方やめろ」
ユリウスは聞いていなかった。
床を見ていた。
石床に、細い溝が刻まれている。
一本。
二本。
三本。
規則的。
自然にできた亀裂ではない。
何かを置くための溝。
その中央には、丸い石盤の跡が残っている。
「リシェル」
「見えてます」
彼女もすぐにしゃがんだ。
指で苔を払う。
溝は円の外から中心へ伸び、別の溝へ繋がっていた。
「術式?」
セラが聞く。
リシェルはすぐには答えない。
目が動く。
角度。
深さ。
分岐。
一つずつ確認する。
「違います」
「分かるのか」
「定式術式なら、意味を持つ記号や接続線があります。これは」
指でなぞる。
「ただの固定溝に見える」
ユリウスの背中が少しだけ冷えた。
材料を並べる。
ずれないように固定する。
向きを揃える。
今、自分たちが地面や机の上でしていること。
「これ」
声が低くなる。
「材料を置くためじゃないですか」
誰もすぐに答えなかった。
セラが床を見る。
リシェルも。
ガロは少し離れた場所で棚の跡を調べている。
ユリウスは溝の端へ指を入れた。
幅が違う。
細いもの。
太いもの。
円形。
平たいもの。
何かを何種類も置ける。
しかも、ただ放射状に並べているわけではない。
一つから次へ。
次からその先へ。
順番があるように見える。
「同じだ」
口から出た。
「何が?」
セラが聞く。
「俺たちがやってるのと」
胸の奥で、何かがゆっくり沈んでいく。
嬉しいとも怖いとも言い切れない。
自分たちだけが初めて見つけたと思っていた。
そうではないのかもしれない。
ずっと前に。
ここで。
誰かが同じように材料を並べていた。
*
工房跡を調べると、さらに痕跡が出てきた。
壁際の石棚。
その下から、割れた陶器片。
銅の留め具。
炭化した木片。
どれも古い。
ただ、ユリウスが気になったのは種類ではなかった。
置かれ方。
棚には浅い窪みが並んでいる。
細長い物。
丸い物。
平たい物。
用途別に分けられていたように見える。
リシェルは壁の一部を見ていた。
「ここ」
苔を払う。
薄い線刻が出る。
文字ではない。
図。
中央の円。
そこから外へ伸びる複数の線。
さらにその先。
森のような形。
山。
川。
そして遠く。
線は壁の端で途切れている。
「地図?」
セラが首を傾げる。
ガロが近づく。
「この川は近くの流れに似てる」
「じゃあ、工房の周辺図?」
「でも」
リシェルが線を追う。
「外へ伸びすぎています」
壁の外まで続いていたらしい。
途中で崩れている。
中心から。
森へ。
山へ。
川へ。
もっと遠く。
ユリウスは床の溝を見る。
材料を並べる場所。
壁の線。
何かが繋がっている。
「ここで作った何かを、外へ?」
セラが言う。
「運んだとか?」
リシェルは首を横へ振る。
「それなら道路や搬送経路を示すはずです」
「じゃあ何」
「まだ分かりません」
「出た」
セラが小さく言った。
ユリウスは笑わなかった。
壁の線を見ていた。
何かが、工房の外へ続いている。
今の自分たちが作る魔法は、材料を並べたその場で起きる。
熱を移す。
滑らせる。
音を返す。
範囲は狭い。
ここにあったものは、もっと遠くを見ていたのかもしれない。
その考えが、まだ早いと分かっていても離れなかった。
*
夕方前。
ガロが工房の奥で小さな箱を見つけた。
木は腐り、触れば崩れそうだった。
中には薄い石板が三枚。
文字が刻まれている。
リシェルが息を止める。
「読めます?」
ユリウスが聞く。
「一部だけ」
古い言葉らしい。
現在の文字と似ているが、形が違う。
彼女は指で一文字ずつ追う。
「これは……数ではない」
「何です」
「失敗記録、かもしれません」
石板には短い文が並んでいる。
材料名らしき語。
矢印。
その先に、
《散逸》
《破損》
《逆流》
読める語だけでも、成功記録ではなさそうだった。
ユリウスの口元が少し動く。
セラが気づく。
「何で嬉しそうなんだ」
「失敗してる」
「だから?」
「同じだ」
思わず笑ってしまう。
天才が完成した答えを残していたわけではない。
何度も失敗した。
材料を壊した。
逆に流した。
思った通りにいかなかった。
誰かがここで、同じようにやっていた。
急に遠い昔の人間が近くなった。
「お前、失敗仲間見つけて喜んでるのか」
「悪いですか」
「いや」
セラも少し笑う。
「お前らしい」
リシェルは石板を抱えたまま、最後の一枚を見る。
そこで動きが止まった。
「何かあります?」
「これ」
端の方。
ほとんど削れている。
それでも一語だけ読める。
《重ね》。
その下に、同じ材料名が三度並んでいた。
一つ。
二つ。
三つ。
横に短い記号。
最後だけ丸がついている。
「同じ材料を三つ?」
ユリウスが聞く。
「そう見えます」
「何のために」
誰も分からない。
外で風が吹く。
崩れた壁の隙間から森の匂いが入り、古い灰の匂いを一瞬だけ薄めた。
ユリウスは石板の《重ね》という語を見た。
まだ意味は分からない。
けれど、明日試すものが一つ増えた。




