第14話 火を増やさない魔法
ヴェルディアへ入ってから、夜の冷え方が変わった。
昼間は湿った空気が肌へまとわりつくほどだったのに、陽が落ちると巨木の間へ溜まっていた冷気が地面を這い始める。朝方には吐く息が薄く白くなり、苔や落ち葉から立つ湿った匂いの中へ、焚き火の煙だけが細く残っていた。
ユリウスが目を覚ました時、火はほとんど消えていた。
灰の下に赤いものが少し見える程度で、近づけた手にも大した熱は届かない。
向かい側ではガロが起きていた。
いつからなのか分からない。
灰を細い枝で崩し、その下の火種を確認している。
「交代しました?」
ユリウスが毛布の中から聞いた。
「してない」
「夜番」
「お前、起きなかった」
「起こしてくださいよ」
「寝てた」
「夜番なんだから起こすんです」
ガロは答えず、火へ枝を足した。
奥でセラが寝返りを打つ。
鎧は脱いでいるが、例の盾だけは手の届く場所に置いてあった。岩頭鹿を受けた左腕にはまだ布が巻かれている。
少し離れた場所では、リシェルが毛布から顔だけを出して眠っていた。昨夜遅くまで記録を書いていたせいか、普段なら崩れない前髪が頬へかかっている。
ユリウスは立ち上がった。
肩へ冷気が入り、思わず首をすくめる。
「寒い」
「森だからな」
「森って昼と夜でこんなに違うんですか」
「深くなるほど違う」
ガロが言う。
「今日着く村なら、まだましだ」
「村?」
「言ってなかったか」
「聞いてません」
「今言った」
最近、このやり取りにも慣れてきた。
ガロが火へもう一本枝を入れる。
炎が少し上がる。
ユリウスはそれを見ながら、昨日使った材料を取り出した。
古橋縄。
車輪留め。
根片。
色は薄くなったが形は残っている。
火の近くへ持っていくと、縄が少し乾く。
その横でリシェルが目を覚ました。
「朝から何をしているんです?」
「見てるだけです」
「何を」
「昨日の残り」
リシェルは毛布を畳みながら材料を見る。
「《受衝》の?」
「はい」
「まだ反応はありますか」
ユリウスは縄へ少量の魔力を通した。
弱い。
けれど、なくなってはいない。
「少し」
「やはり一度で全部消えるとは限らない」
「使い方で減り方が違うのかも」
リシェルが帳面を取る。
それを見たセラが毛布の中から声を出した。
「朝飯より先に研究するな」
「起きてたんですか」
「お前らがうるさい」
「ガロは静かでしたよ」
「ガロを見習え」
言われた本人は、干し肉を噛んでいた。
*
昼過ぎ、森の中に人の暮らしが現れた。
最初に見えたのは家ではない。
縄だった。
巨大な木から木へ渡され、その上に木の板が並んでいる。人が歩くための高い通路で、地面から数メートル上を森の奥へ伸びていた。
その先に家がある。
巨木の根元へ寄り添うように造られた木造の住居。幹を傷つけないよう石台の上へ柱を立て、屋根には厚い葉と樹皮が重ねられている。
煙が何本か上がっていた。
煮炊きの匂いがする。
乾いた木と、香草。
それに甘い何か。
セラの歩みが少し速くなった。
ユリウスが見る。
「何かあります?」
「ない」
「今、匂い嗅ぎましたよね」
「昼飯時だからだ」
ガロが淡々と言った。
「蜜焼きだ」
セラの足が止まる。
「何だそれ」
「木の実を蜜で焼いたやつ」
「別に興味ないけど、一応この土地の食文化は知っておいた方がいいな」
リシェルが横を見る。
「急に学術的ですね」
「旅では大事だろ」
村へ入って最初にセラが買ったのは、その蜜焼きだった。
二袋。
ユリウスは何も言わなかった。
言えば大剣の柄で殴られそうだった。
*
ガロは村の人間から何度も声をかけられた。
獣人ばかりではない。
耳の長い森人もいれば、人間もいる。
ヴェルディアの森で長く暮らす者たちが集まった、小さな交易村らしい。
ガロは王都にいる時より返事が少し長かった。
ほんの少し。
「帰ってたのか」
「途中だ」
「そっちは?」
「拾う奴ら」
ユリウスが振り返る。
「説明それだけですか」
「合ってる」
セラが笑う。
リシェルだけは、
「間違ってはいません」
と妙に納得していた。
村の中央には、大きな共同炊事場があった。
石造りの炉が三つ並び、その上で鍋が煮えている。
壁際には平たい石が何枚も積んであった。
どれも片面が黒く焼けている。
ユリウスの足が止まる。
ガロも止まった。
「見るだけだぞ」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てる」
四人全員から言われるようになっていた。
炊事場を預かっていた老女に聞くと、石は夜に使うものだった。
炉の余熱へ入れて温め、布へ包む。
寒い夜には寝床へ入れ、子どもや年寄りの身体を冷やさないようにする。
何十年もそれを繰り返してきた石。
割れたものは端へ積んであった。
「これなら持っていっていいよ」
老女が一枚差し出した。
ひびが中央まで走っている。
ユリウスは両手で受け取った。
まだ少し温かい。
「毎日使ってたんですか」
「冬はね。これは私が子どもの頃からあったよ」
ガロを見る。
ガロは何も言わない。
持っていっていい、ということらしい。
ユリウスは小さな欠片を切り出した。
魔力を通す。
指先に返ってきたのは、熱ではなかった。
熱を逃がしたくない。
そんな言葉が一瞬浮かび、すぐ消えた。
物が考えるわけではない。
けれど何十年も温められ、布へ包まれ、ゆっくり冷えてきた石には、今まで触った窯石とは違う反応がある。
「リシェル」
「はい」
「これ、熱を出す感じじゃない」
彼女が測定用の術具を当てる。
「では?」
「残す方」
「何を」
ユリウスは炉を見る。
その横に、煮込み鍋があった。
「試していいですか」
老女が笑う。
「鍋を爆発させなきゃね」
「たぶん」
「その返事は不安だね」
セラが頷いた。
「正しい反応だ」
*
使ったのは、割れた保温石。
共同炊事場で長年使われてきた厚手の煮込み壺の欠片。
そして、冬用の湯瓶を包んでいた古い金具。
どれも熱そのものを生み出してはいない。
受けて。
抱えて。
逃げるまでの時間を伸ばしてきた。
ユリウスは小さな木机へ三つを置いた。
最初に熱い湯を二つの陶杯へ注ぐ。
片方はそのまま。
もう片方を三つの材料で囲む。
魔力を通した。
何も派手なことは起きない。
光さえほとんど出なかった。
「失敗?」
セラが蜜焼きを齧りながら聞く。
「まだ分かりません」
「地味だな」
「熱が出たら失敗かもしれません」
しばらく待つ。
リシェルが二つの杯へ温度測定の術具を当てた。
「差が出ています」
「どっちが?」
「こちら」
材料で囲んだ方。
もう一方は湯気が弱くなっている。
こちらはまだ白い湯気が立っていた。
セラが手を伸ばす。
リシェルが叩く。
「測定中です」
「飲むくらいいいだろ」
「同条件で比較できなくなります」
「もう結果出たじゃないか」
「まだです」
「堅い」
「普通です」
三十分。
一時間。
差は少しずつ開いた。
魔法を使った方だけが、最初の温度に近い状態を保っている。
完全に同じではない。
ゆっくり冷えている。
でも明らかに遅い。
「暖めたわけじゃない」
ユリウスが杯を持つ。
掌に熱が残る。
「逃げるのを遅くしたんだ」
リシェルが材料を見る。
「《留め》ですね」
「留め?」
「熱を受けたあと、そこへ保持する流れ。少なくとも《熱渡し》とは違います」
セラが残りの蜜焼きを紙袋へ戻した。
「それにも使える?」
三人が見る。
「何だよ」
「甘い物、好きなんですね」
ユリウスが言った。
「違う」
「買ったの二袋ですよね」
「保存性の検証だ」
「急に研究に参加しましたね」
「お前らのせいで冷めたら困るだろ」
ガロが言った。
「熱い方がうまい」
セラが少しだけ勝ち誇った顔になる。
「ほらな」
誰も何に対する勝利なのか分からなかった。
リシェルが記録紙へ書く。
《温抱》。
そして横に、
《ウォームホールド》。
「決定ですか」
ユリウスが聞く。
「現象が分かりやすいです」
セラが紙袋を差し出した。
「じゃあこれにかけろ」
「食べ物へ初めて使う魔法がそれでいいんですか」
「実用は大事だぞ」
老女が声を上げて笑った。
その笑いにつられるように、ユリウスも口元を緩める。
火を強くする魔法ではない。
炎も出ない。
敵を倒すこともない。
ただ暖かい物を、少し長く暖かいままにする。
それだけだった。
けれど森の冷える夜を思うと、その「それだけ」が急に大きく見えた。
ガロが保温石を見ながら言う。
「冬の森じゃ、火より欲しい時がある」
ユリウスは石を見た。
何十年も誰かの眠りを温めてきた石だった。
役に立つということは、派手であることとは違うらしい。




