第13話 受けて、逃がす
翌朝、雨は止んでいた。
空はまだ白く曇り、森の上には薄い霧が残っている。濡れた葉から時々大きな水滴が落ち、下草へ当たるたび小さく弾けた。湿った樹皮と苔の匂いの中に、昨日の焚き火の煙が服からわずかに残っている。
ガロが先頭を歩く。
その後ろをセラ。
ユリウスとリシェルが続く。
道はもう、人が作ったものではなくなっていた。
獣道に近い。
根を避け、倒木を越える。
時々、ガロが何も言わず進路を変える。
「そっち道あります?」
ユリウスが聞く。
「ない」
「じゃあ何で」
「こっちの方が近い」
セラが振り返る。
「そういうの先に言え」
「言った」
「言ってない」
「今言った」
会話が終わる。
森の中では、ガロの判断が早い。
足跡。
折れた枝。
匂い。
獣の糞。
ユリウスには見えない情報が、彼には最初から道として見えているようだった。
しばらく進んだところで、ガロが急に止まった。
片手を上げる。
全員止まる。
「何?」
セラが小声で聞く。
ガロは右側の斜面を見る。
草しかない。
「下がれ」
次の瞬間、地面が鳴った。
低い。
重い。
土の奥から響くような音。
ガロがユリウスの肩を掴み、後ろへ引いた。
斜面の茂みが割れる。
大きな獣が飛び出した。
鹿に似ている。
ただし、角ではなく額の両側から石質の突起が生えている。肩はセラより高く、前脚は異様に太い。
「岩頭鹿!」
ガロが叫ぶ。
初めて聞く名だった。
考える暇はない。
獣は下り坂の勢いそのままに突っ込んでくる。
セラが前へ出た。
盾を構える。
「待って」
リシェルが止める。
遅い。
岩頭鹿がぶつかった。
音が潰れた。
金属と肉と骨。
盾が沈む。
セラの足が土を削る。
一歩。
二歩。
三歩。
止まらない。
「セラ!」
ユリウスが叫ぶ。
彼女は倒れない。
けれど顔が歪んだ。
受けている。
全部。
衝撃を。
その瞬間、ユリウスの頭に古橋の縄が浮かんだ。
何十年も引かれてきた。
荷重を受けてきた。
風に揺らされてきた。
「ガロ!」
「何だ!」
「縄!」
ガロは意味が分からない顔をした。
ユリウスは鞄を開く。
古橋縄の切れ端。
昨日も何度か触った。
強く引かれる反応。
でも一つでは足りない。
受ける。
そのあと。
どうする。
セラが盾で押し返す。
岩頭鹿が一度離れる。
前脚で土を掻く。
もう一回来る。
「ユリウス、何する!」
「衝撃、逃がせるかも」
「できるの?」
リシェルが聞く。
「分かりません」
「今それ言います?」
「でも他に」
セラが振り返らず言う。
「やれ!」
迷いが切れた。
ユリウスは材料を出す。
古橋縄。
壊れた荷車の車輪留め。
嵐で折れたという古木の根片。
これはガロが昨日拾った。
何度も風にしなり、倒れずに耐えた木。
「これ」
ガロが目を見開く。
「使うのか」
「使いたい」
「なら向き逆だ」
「何?」
ガロが根片をひっくり返す。
「こっちが谷側。風を受けてたのはこっち」
ユリウスの指が止まる。
向き。
そうだ。
材料の過去には方向がある。
受けた側。
逃がした側。
「リシェル」
「はい」
「縄が受ける。根が逃がす。その間に何かいる」
リシェルが材料を見る。
一瞬で視線が動く。
「車輪留め」
「どうして」
「衝撃を一度止める」
「それだ」
並べる。
縄。
車輪留め。
根片。
岩頭鹿が走り出す。
時間がない。
ユリウスは地面へ三つを置く。
土が濡れている。
少し沈む。
向き。
揃える。
「セラ!」
「何!」
「盾の前!」
「分かった!」
彼女は聞き返さない。
盾を少し下げる。
ユリウスが最初の縄へ魔力を通す。
反応が弱い。
「来い」
もう一度。
縄が震えた。
次。
車輪留め。
最後。
根片。
薄い光が線になる。
セラの盾の前へ広がる。
岩頭鹿がぶつかった。
今度も音は大きい。
けれど違った。
盾が沈む。
衝撃がセラの腕へ入る。
その直前。
光が走る。
地面へ。
横へ。
根片の向きへ。
土が爆ぜた。
セラの足元ではなく、数歩右側の地面が大きく抉れた。
岩頭鹿の勢いが少しだけ落ちる。
セラが踏ん張る。
止まった。
本当に。
止まった。
「今!」
ガロの矢が飛ぶ。
鹿の目の前の地面へ刺さる。
音に驚き、獣の首が上がる。
リシェルの風魔法。
横から叩く。
鹿の体が逸れる。
セラが盾で押し返した。
「どけ!」
大剣の腹を肩へ叩き込む。
鹿が横へ転ぶ。
立ち上がる。
今度は逃げた。
木々の間へ消える。
誰も追わない。
しばらく、森には息をする音だけが残った。
セラが盾を下ろす。
左腕を振る。
「今の」
ユリウスが近づく。
「大丈夫ですか」
「前よりマシ」
「痛い?」
「痛い」
「じゃあ」
「でも折れてない」
盾を見る。
新しい傷。
その上に古い修理痕。
セラが口元を上げる。
「使える」
その一言で、ユリウスは材料を見る。
古橋縄。
車輪留め。
根片。
色がかなり薄い。
けれど残っている。
「受けたものを、別の場所へ逃がした」
リシェルが地面を見る。
抉れた場所。
衝撃そのものを消したわけではない。
移した。
熱と同じ。
摩擦と同じ。
「受けて、止めて、逃がす」
ユリウスが言う。
「順番がある」
ガロが材料を拾う。
「縄はまだ使える」
「分かるんですか」
「匂いが変わってない」
「匂い?」
「焦げたみたいな匂いになる時がある」
ユリウスも嗅いでみる。
分からない。
セラが腕を押さえながら笑う。
「お前ら、戦い終わったらすぐ材料見るのやめろ」
「大事なので」
「私の腕より?」
ユリウスが止まる。
リシェルが横から言う。
「そこは答えない方がいいです」
「答えますよ。腕です」
セラがじっと見る。
「今、一瞬考えただろ」
「考えてません」
「嘘だな」
少し遅れて、ガロが言った。
「考えてた」
「ガロ!」
森の空気が少しだけ緩んだ。
リシェルは記録を取り始める。
「名称」
セラが言う。
「もう決めるんですか」
「分かりやすい方がいい」
ユリウスは抉れた地面を見る。
受けた。
逃がした。
完全に無くしてはいない。
「《受衝》」
リシェルが書く。
「読みは」
セラが言う。
「受けて逃がすなら」
少し考える。
「インパクト・リリーフ」
「長い」
「あなたが短くしろと言ったんでしょう」
「短くない」
ユリウスが笑う。
結局、記録には、
《受衝》
と残った。
その日の夕方。
四人は森の少し開けた場所で休んだ。
セラは腕へ湿布を巻き、リシェルに「動かさないでください」と何度も言われている。
ガロは火の向こうで矢羽根を直している。
ユリウスは昼間使った材料を手のひらへ並べていた。
縄。
金具。
根。
それぞれ違う場所で、違うものを受け続けてきた。
それが今は、一つの流れになっている。
受ける。
止める。
逃がす。
偶然ではない。
たぶん。
そう思うと、少しだけ背筋が伸びた。
「まだ名前つけないんですか」
リシェルが火越しに聞く。
「魔法じゃなくて」
「何に?」
ユリウスは材料を見る。
古さでもない。
種類でもない。
使われ方だけでも、まだ足りない。
何度繰り返したか。
どちら向きだったか。
どれだけ残っているか。
まだ輪郭だけ。
言葉にするには、もう少し足りない。
「もう少しだけ」
そう答えた。
ガロが火へ枝を足す。
赤い火の粉が上がる。
夜の森へ消える。
「なら見つけろ」
短い言葉だった。
ユリウスは顔を上げる。
ガロはもう矢羽根へ視線を戻している。
森の奥では、見えない何かが低く鳴いた。
ヴェルディアはまだ、入口しか見せていなかった。




