第11話 残った足跡
王都を出て三日目の朝、ユリウスは本当に荷物を減らしていた。
正確には、減らされた。
「返してください」
「重い」
ガロがユリウスの鞄から鉄片の入った小袋を抜き、そのまま自分の足元へ置く。
「必要なんです」
「何に」
「それは、これから」
「分からないなら要らない」
「その理屈は嫌いです」
少し先でセラが笑っている。
リシェルは木の幹にもたれたまま朝の記録を書いていた。
「予想より一日長く持ちましたね」
「何がです」
「荷物を減らすまでです」
「減らしてません。取り上げられてます」
「結果は同じです」
朝靄の向こうで鳥が鳴いた。
王都周辺の開けた街道はもう終わり、道の両側には背の高い木々が増えている。湿った土から立つ匂いは夜露で濃くなり、葉の間から落ちる光はまだ白い。風が通るたび、枝の先に溜まった水滴が小さな音を立てて落ちた。
ヴェルディアまでは、あと二日。
そう聞いていた。
けれどガロは昨日から何度も道を外れる。
道標を見るでもなく、獣道のような細い場所へ入り、しばらくして戻ってくる。
「何を見てるんです?」
ユリウスが聞くと、ガロは少し先の地面を指した。
「人が通った」
「街道ですよ」
「違う」
しゃがむ。
落ち葉が重なっている。
どこを見ても同じように見えた。
ガロは指先で葉を一枚めくる。
その下の土が少しだけ濃い。
「三人。昨日の夕方より後」
ユリウスは眉を寄せた。
「どうして分かるんです?」
「葉の沈み方」
「それだけで?」
「十分」
セラが横から覗く。
「盗賊か?」
「まだ分からない」
「なら追うか」
「今は必要ない」
ガロは立ち上がった。
ユリウスだけが地面を見続ける。
踏まれた場所。
押された葉。
沈んだ土。
人がいなくなったあとも、そこには何かが残っている。
「これ」
声が出た。
ガロが振り返る。
「何だ」
「踏まれた場所って、何回も踏まれてたらもっと残りますよね」
「道になる」
「一回でも?」
「薄いが残る」
ユリウスはしゃがんだまま、指先で土へ触れた。
冷たい。
柔らかい。
ただの土だ。
けれど昨日、誰かの重みを受けた。
一度だけ。
それが今も形として残っている。
胸の奥で、小さく何かが引っかかった。
「ちょっと待ってください」
セラの嫌そうな顔が先に見えた。
「また拾うのか」
「土は拾いません」
「その言い方だと別の物は拾うな」
ユリウスは周囲を見た。
道の端。
木の根元。
古い荷車の轍。
何度も踏まれた場所と、誰も踏んでいない場所。
同じ土でも違う。
なら。
「ガロ」
「何だ」
「昔から人がよく通る場所、あります?」
「この先に古い渡し場がある」
「そこ行きましょう」
「何で」
「試したいことがあります」
ガロは少しだけ目を細めた。
「また分からないやつか」
「たぶん」
「その言葉、便利だな」
どこかで聞いた。
*
古い渡し場は、今ではほとんど使われていなかった。
川幅は広くない。
けれど水は速く、深いところでは腰を超えるらしい。
昔は平たい石を並べ、人や荷車が浅瀬を渡っていた。今は少し上流に木橋が架かり、川辺には苔のついた古い踏み石だけが残っている。
昼が近づき、日差しは強くなっていた。
水面から反射した光が木の葉の裏を揺らし、川風には冷たい水と泥の匂いが混ざっている。
ガロが一枚の石を踏んだ。
「ここだ」
踏み石は中央が浅く窪んでいる。
長い間、人の靴底や獣の蹄が同じ場所を踏み続けたせいだろう。
ユリウスはその縁から、小さな欠片を慎重に削った。
「壊すなよ」
ガロが言う。
「少しだけです」
「少しでも壊れる」
ユリウスの手が止まる。
見ると、ガロの視線は石ではなく川の向こうを向いていた。
「この道、昔は村と村を繋いでた」
短い言葉。
それ以上は言わない。
ユリウスは削る位置を変えた。
踏まれた中央ではなく、すでに欠けていた端から取る。
「これなら?」
ガロが一度見る。
「いい」
それだけで、なぜか少し肩が軽くなった。
リシェルはそのやり取りを黙って見ていた。
石片へ魔力を通す。
反応は弱い。
けれど何もないわけではない。
手のひらへ、圧されるような感覚が返ってくる。
「ある」
ユリウスが言う。
「何が」
セラがしゃがむ。
「重み、かもしれない」
「石に?」
「踏まれたこと」
リシェルがすぐに記録を取る。
「単純な摩耗ではなく、圧力履歴」
「まだ決めないでください」
「仮説です」
「便利ですね、それ」
さっき言われた仕返しだった。
次に、誰も踏まない川辺の石。
同じような材質。
反応は薄い。
ほとんどない。
もう一つ。
古い渡し石。
やはり少し強い。
「違う」
ユリウスは石を並べた。
「土でも石でも、踏まれ続けてると反応する」
ガロが腕を組む。
「それで何ができる」
「まだ」
「分からない」
四人の声が重なった。
セラが額を押さえた。
「もう慣れてきた」
そこから二時間。
何度も試した。
石だけでは何も起こらない。
古い靴底。
荷車の板。
踏み石。
順番を変える。
向きを変える。
魔力を通す。
失敗。
また変える。
今度は、リシェルが止めた。
「待ってください」
「何です?」
「さっきから最後に置いている靴底、左右が違います」
「右だけ古いです」
「そこです」
「どこです」
「圧力のかかり方が違う」
ユリウスは靴底を見る。
踵。
つま先。
外側。
擦れ方が違う。
人が歩く時、同じように踏んでいるわけではない。
重みは、動いていく。
踵から前へ。
地面へ残る。
「方向」
ユリウスが呟いた。
リシェルが顔を上げる。
「何です?」
「踏まれるだけじゃない。どっちに重みが抜けたか」
並びを変える。
踵側。
踏み石。
つま先側。
魔力を通す。
薄い光が走った。
次の瞬間、古い渡し場の石の上に、淡い銀色の跡が一つ浮かんだ。
足形。
完全な形ではない。
踵とつま先だけ。
その前に、もう一つ。
さらに先。
川辺の草の間へ続く。
四人とも動かなかった。
風だけが、水面から抜けていく。
「これ」
セラがゆっくり立ち上がる。
「誰かの足跡か?」
ガロが跡へ近づく。
鼻先を寄せるのではなく、目で位置を追う。
「新しい」
「さっきの三人?」
「たぶん」
ユリウスは石片を見る。
光が薄れている。
白くはなっていない。
少し色が抜けただけだ。
「足跡を作ってるわけじゃない」
リシェルが言う。
「最近圧力を受けた場所を、見える形にしている」
ユリウスは銀色の跡を追う。
草の中。
人の目では分かりにくい。
それでも魔法は、踏まれた場所だけを拾い上げている。
「《足残》」
セラが言った。
「また勝手に」
「分かりやすいだろ」
リシェルが紙へ書く。
《足残》
少し考え、横へ《トレース》。
「採用です」
「ほらな」
「一例だけで」
「前も聞いた」
銀色の足跡は、森の方へ続いていた。
ガロが目を細める。
「これは盗賊じゃない」
「分かるんですか」
「歩幅が揃いすぎてる。荷物も重い」
「じゃあ」
ガロは森を見る。
葉の隙間に、暗い道が続いている。
「運び屋だ」
何を運んでいるのか。
そこまでは分からない。
ユリウスは材料を拾い上げた。
新しい魔法ができた。
それなのに、視線は足跡の先から離れなかった。




