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第9章

 

 翌朝、いつもよりのんびりと起きた。

 昨日一日、あちこち歩き回って疲れていたのもあったんだろう。僕もシモーヌも朝になったのをまるで気付かず、ぐっすりと眠っていた。

 柔らかい重みに気付いて目が覚めると、シモーヌは僕に寄り添うどころか半分体をもたれさせていた。

「……あー…」

 僕はぼけっとしたまま、大あくびをする。ダメだ、頭が働かない。

 今日は…ああ、撮影に行こうとしてたんだっけ。

 母さんにも滞在期間の延長を伝えたんだし、別に急いで行くこともないだろう。そう思い直す。

 見るとシモーヌの肩がシャツから少し出ていた。僕のサイズではやっぱり大きかったようで、ずれるとインナーの肩紐どころか胸元まで丸見えだ。

 ……こんな無邪気で無防備な子が、意図的にあの不意打ちをするもんかな?

 あの不意打ち──もちろん昨夜の暗闇でのキスのことだ。

 間違えたんだよ、そうそう、眠すぎて頬にしたつもりが滑っちゃったとか。

 いつものように甘えようとしたのかもしれない。

 それにしては、唇が重なった瞬間、軽く吸われたような気も……

「やれやれ」

 僕は独り言を呟いて、シモーヌに布団をかけ直してやった。

 僕だって、一応男だからね?

 そんなに誘うような素振りを見せられたら、何をするか……

 ………。

(…無いか)

 すぐに自分で否定し、苦笑い。

 どうやら僕は父さんに似たようで、生真面目というわけではないつもりだけれど、女性にたいして性的な感情をあまりもたないほうだ。

 サヴィーヌとだって、とても愛していたとは言っても唇に軽く触れる程度のキスしかしなかった。僕はまだ16で、戦場での敵同士でもあったから、ロマンチックな逢瀬の機会もなかなか無かったせいだけれど。

 職業柄なんだろうか?綺麗な女性や可愛い女性を見てもときめいたりしない。その人に合ったメークやファッション、髪型などをつい研究したくなる。

 母親や妹のような美人を見すぎてるせいだろ、なんてハリーにからかわれたこともあるけれど…

 確かに女性の知り合いは多くて、仕事関係でもイリヤにイザベルを初めとして、若くて綺麗な人が目立つ気がする。

 撮影モデルさんに食事に誘われたり、プライベートな連絡先を聞かれたりすることはままある。恋人はいるのかとストレートに詰め寄られてちょっと困ったことも。

 けれど…付き合いたいとか、恋人が欲しいと思わないのは、やっぱりどこかネジが外れてるんだろうか?

 こう、オトコとしての──

「……んー」

 小さな声。シモーヌが目を覚ましたらしい。

 僕にぴったり寄り添ってる格好のまま、ゆっくり目を開けた。

「おはよう、シモーヌ」

 声をかけると、眠そうな顔を向ける。

「……うふふ、兄さんだあ」

 そう言ってまた甘えるように僕に縋り付いてきた。

 まったく起きる気なし。こういうところは小さい頃と全然変わらない。

 まあ、それはそれで可愛い妹だと思うけれどね?

「お姫様?お腹は空かないのかい?」

 訊いてみると、ううん、とウイともノンとも取れるような返事。

「…ガレット食べたいな」

「はいはい。わかってますお姫様」

 僕は体を起こして伸びをする。縋っていたシモーヌは肩透かしを食らったような表情で口を尖らせた。

「今じゃないの。今はボーッとしていたいの」

「え?なんだい、それ」

 苦笑してしまう。時計を見ると朝の9時をとっくに回っている。朝食を作ろうにも材料が無いんだから買いに行かなきゃ、と昨日話していたのに。

「だって、家にいるとママンやリナンにいろいろ急かされて、朝寝坊なんてできないんだもん」

 彼女は枕に顔を埋めながらそう言った。

 シモーヌはあれこれ指図されるのが嫌なんだろうな。

 その点、ここなら心ゆくまでのんびりできる。…もちろん、僕に急ぎの仕事が無い時に限るけれど。

「そうだなあ…でもパンは食べたいだろう?バターたっぷりのクロワッサンを買いに行きたいと思わないかい?」

「クロワッサン…」

 それを聞いたとたん、目を輝かせてパッと起き出した。

「食べたい!」

「…だろう?それなら早く支度して?」

 機嫌を良くしたようで、シモーヌはバタバタと慌てたようにバスルームへ飛びこんでいった。

 ……まだまだ子供だなあ。

 そんな様子を見て僕は、昨夜のアレはやっぱり単なる“事故”だったのかもしれないなあと思う。

 ホッとしたような…少し残念なような…ね。

(妹だよ、そう…いくら大事に思っていても…さ)

 それは変えられないこと。

 僕らは血の繋がった兄妹なのだから。


 簡単に支度をした後、街に繰り出した。

 もともと有名な観光名所も多いうえに、ネットなどで話題になった場所へ人だかりが集まる。それこそ何処へ行っても、あちこちにツアー客らしき塊がある。車も人も多くて危ない。僕はまたシモーヌの手を握ることにした。

 シモーヌは昨日買ったばかりのオフショルダーの白いワンピースにショールを羽織っていた。千鳥格子のきちっと感がワンピースの甘さを抑えて、良い感じにフェミニンらしさが出ている。

「その服、とても良く似合ってる。素敵だよ」

「本当?うふふ、ありがとう兄さん」

 シモーヌはご機嫌だ。

 2人ともウサギの目が朝になったら治っていた。助かったよ。あんな目のままなら、外を歩くのも恥ずかしくなる。僕はサングラスがあるからいいとしても、彼女は隠せないからね。

「あっ…良いパンの薫り…」

 角を曲がった途端、香ばしく焼かれたパンの薫りがシモーヌの鼻に届いたようだ。視覚が不自由な分、聴覚や嗅覚、味覚がかなり敏感らしい。僕にもやや遅れて薫りが届く。

「君は食べ物の匂いには敏感だね」

 笑ってそう言うと彼女は少し得意げに、

「そうよ。後はね、お花の香り!最近、庭の端のほうにハーブたちも植えてみたの。お料理にも紅茶にも使えるし、ポプリにして可愛い袋に詰めると良い香りがするのよ」

「へえ…それはいいね。帰るのがますます楽しみになるよ」

「でしょう?だから、オフにはちゃんと帰ってきてね?」

「うん、勿論」

 約束ね、と言いながらシモーヌが小指を立てて示した。僕はクスッと笑って、自分の小指を絡める。

 …純真で、素直で、優しい妹。

 確かに昨日は気持ちが昂ぶってしまい、泣きも入ったせいで、つい素直に言ってしまったけれど…

 何処へも行かないでくれ──なんて、僕はそんなことを言える立場じゃない。

 シモーヌにはシモーヌの幸せがあるんだ。いくら彼女が僕の言葉を心から喜んでくれたとしても、それは一時のこと。これから先、素敵な出会いが訪れたとしたなら、僕は黙って見送るしか……

「…さん、兄さん?」

 気がつくと、シモーヌに呼ばれていた。

 僕たちはいつの間にかベーカリーの前に来ていた。シモーヌを見ると少し心配そうな顔をしていた。

「やっぱり疲れちゃった?昨日は運転もして、あちこちお店を巡っていっぱい歩いたから…」

「大丈夫だよ。撮影でも良いポイント探しでウロウロ歩き回ってるから、慣れてるんだ」

「…本当に?」

「本当さ。それにシモーヌと一緒だと楽しくてね、つい時間を忘れてしまうんだ。可愛い妹が喜んでくれるのなら、僕は何でもするからね」

 そう言うと、彼女は少し照れ笑いを浮かべる。

「…本当かなあ?」

「信じられない?」

「ううん、信じる。信じてるもの」

 呟くように言う。まるで自分に言い聞かせるかのように……

「お腹すいちゃったわ!クロワッサン、たくさん買って行きましょう!」

 彼女は笑い、ベーカリーの扉を開けて入っていった。僕も続いて入る。

 ──兄さんって、本当に素直じゃないんだから──

 ふいに、昨日彼女に言われた言葉が脳裏に浮かんできた。

 彼女はちゃんと僕を理解してくれている。それなのに──

(……)

 ……素直に…か。

 シモーヌのように自分の気持ちに素直になれば、もっと気が楽になるのかもしれないのに。

 美味しそうなパンをあれこれ探し、どれにしようかと目をキラキラさせている彼女を見ていると、そんなふうに思ってしまう。

 だけど、家族を悩ませることになる一言だけは言うまいと考えている。

『シモーヌを誰にも渡したくない』

 もちろん兄としての感情が強いけれど、もっと…他の感情もあるようにも思えてならない。

 そう思うようになったのはここ最近のこと。

 それはリアリストの僕にとって…いや、わりと重大なことだと感じた。入念に計算され、規則正しく構築されたところへ予測外の変数が紛れ込んできて危うく崩壊を招きかける…そんなイメージ。

 だいたい“素直に”ってどういう意味で?

 僕の本当の気持ちは、いったい──?


 パンを買った後、僕らはセーヌ川に沿って歩きながら休憩スポットを探した。

 天気も良いし、テイクアウトのカフェオレもある。家に戻るのは勿体ない。

 木陰にあるベンチに並んで腰を下ろして、昨日の昼間と同じようにセーヌの穏やかな流れを見ながらクロワッサンを頬張る。

「んー、美味しい!焼きたてのパンってどうしてこんなに美味しいのかしら?」

 満足げにそう言って食べているシモーヌを見ている限り、昨日までのいろいろな出来事の陰は潜めているのかまったく感じられない。

 降って湧いた見合い話、ヘンリー卿の死、自分の出生の悩み、僕の曖昧な答えを問い詰めたこと、それから…僕が“素直になって”少しだけ我が侭を言ってしまったこと。寝る前の“事故?キス”もそうだ。あまりにいろいろなことが一気に頭の中を駆け巡っていて、どこから整理をすればいいのか見当がつかなかった。

「兄さん」

 呼ばれて視線を向けると、目の前に突き出されたクロワッサンが。思わず息を呑む僕。

「…な、何?」

「温かいうちに食べないともったいないわ?はい、あーん」

 笑顔のシモーヌ。そんな言動はまるで恋人同士…

 いや、確かに昨日はそんなふうに過ごそうとは言ったけれど……今の僕にはけっこう躊躇う理由にはなる──

「…君は本当に…天真爛漫というか…」

 照れ笑いを隠せず、僕は言った。

「僕にそんなことをしてくれなくても。たとえば今住んでいる身近で、気になる男性はいないのかい?」

「…どうしてそんなことを訊くの?」

 シモーヌは少し睨むように僕を見ている。ヤバい、怒らせちゃったかなと言葉に詰まる僕の口に、強引にクロワッサンを押しつけてきた。

「ちょ…シモーヌ!」

「だって変なこと言うから。わたしが一番気にしてる人なんてわかってるくせに、そんなふうに訊くのって酷い」

 あー…むくれている。完全にむくれた。

 仕方なく口を開けると、クロワッサンがねじ込まれる。ムードもへったくれもないよ、これは。

 もぐもぐと口を動かしている僕をじっと見つめ、シモーヌは口を尖らせたまま言った。

「じゃあ兄さんは、わたしが誰かのものになってもいいの?昨日は“何処にも行かないで”って言ったじゃない。それってパパのところ以外に、誰か他の人のところにも…って意味じゃないの?わたしはそう受け取ったから、昨日は嬉しかったのよ?」

「…それは…」

 目を逸らせてセーヌ川のほうへ視線を向ける。なんと答えていいのかわからなかった。

(だって君は僕の大事な妹だから)

 そうとしか言えないだろう……?

 自分自身でもよくわからない気持ち。それを軽く口にしてしまったら、僕たちの今までの関係に確実にヒビが入ってしまう。それはとても苦しく、哀しいし、辛い。

 曖昧にすればするほど、僕は自分にもシモーヌにも嘘をつくことになる。そう解っていても、それだけは口にしてはダメだ。

 僕は大きく息をつき、目を細める。

「……そう言う兄さんこそ、好きな人がいるんでしょ?」

 耳に届いてきたシモーヌの言葉に、少し驚いた。“いないの?”なんて訊き方じゃなくて、確信している様子だった。あまりに突然でギクッとなる。

「…何故だい?」

 顔を見ると、彼女は意外にも落ち着き払った様子で淡々と続ける。

「……寝言、何回も聞いたから知ってるもの。“サヴィーヌ”って女の人の名前でしょう?」

 ………!

 僕は愕然となる。

 寝言?僕がサヴィーヌの名前を寝言で?

「…その人が好きなの?今も好きなの?恋人なの?」

 矢継ぎ早に訊かれてしまい、僕は息を呑んだ。

 一緒に眠ったりしてるんだから、シモーヌに寝言を聞かれることはおかしくはない。けれど僕が驚いたのは、未だにサヴィーヌの名を寝言で言ってしまっているということだった。確かに夢は見る。けれど名前を呼ぶほどにまだ未練がましく想っているなんて──

「いつから…それを?」

 震える声で訊くと、シモーヌは切なげな表情でうつむいてしまう。

「兄さんが砂漠から帰ってきた時からよ。しばらくはわたしも遠慮して一緒に眠れなかったわ。その後にヴェネツィアへ行って、少し落ち着いた様子だったから大丈夫かと思ってたんだけど…今年に入ってからまた何回も聞くようになったの」

「…そんなに…前から?」

 砂漠から帰った頃はサヴィーヌの死んだ直後だったから仕方ないとしても、今年に入ってからって、一体どういうことだろう?思い当たる節がまるでない。

「…サヴィーヌって人を呼ぶ兄さんの声、いつもとっても辛そうなの。その人はそんなに兄さんに想われてるんだ…って考えたら、わたし…苦しかった」

「……」

「わたしだって兄さんには誰のところにも行ってほしくない。兄さんはわたしの大切な人だから……わたしは兄さんが好──」

「ま、待ってシモーヌ」

 軽く手で制し、それ以上の言葉を続けさせるのを絶とうとした。

 それ以上言わせてしまったら、シモーヌも、そして僕も今までのようにはいられなくなる…そんな予感がする。

「……話すよ。だから、落ち着いて」

 まずは落ち着かせないと。

 彼女も僕も、今は神経がピリピリしている状態だった。とにかく、サヴィーヌが今現在はいない人だということは伝えておかないと…

「サヴィーヌは、僕が16歳の時にモロッコの戦場で知り合った、当時18歳の女の子だよ」

 11年前のことを思い起こすように、ゆっくりと僕は話し始めた。


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