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第10章

 

「……僕の初恋の人だ」

 彼女のことをこんなふうに誰かに話すなんて、思ってもみなかった。

 しかもそれがシモーヌ相手だなんて……

「僕は外人部隊に所属して、国境付近を警備していたんだ。射撃の腕を買われ、急襲してきたゲリラ兵と銃撃戦もした。そのゲリラ兵の一人がサヴィーヌだったんだ」

「……えっ?」

 シモーヌが意外そうな声を小さく上げる。それはそうだろう。自分とたいして変わらない年齢の女性がゲリラとなって戦いに身を置いているなんて、きっと想像しがたいことだと思う。

「もちろん、彼女と直接闘ったわけじゃない。ただ、僕らは立場的には敵同士だった。外人部隊は国を防衛する軍隊に協力して、軍や国家に対し反乱を起こすゲリラ兵たちの戦力を削ぎ、騒乱を鎮める役目を担っていたからね」

 そして僕は、背筋に冷たいものがスーッと流れる嫌な感覚をいつも覚える、あの夕陽の美しさを思い出した。

 銃撃を受けて砂の上に倒れ込むサヴィーヌの姿……

 今でも目に焼き付いている、背後から撃たれて鮮血を弾かせ、力なく崩れ落ちるサヴィーヌの姿を……

「僕が国籍年齢詐称で本国に送還されることが決まった直後──彼女は仲間の一人に裏切られ、撃たれて死んだ。だから、もう彼女はこの世にいない。僕の思い出の中でだけ生きている人だ」

 シモーヌはずっと黙って聞いてくれていた。僕は顔を手で覆い、やるせないように頭を振った。

「サヴィーヌはいつどんな時でも凛として、仲間を率い、自分たちの信じるもののために闘っていた。強くて、勇気があって…」

 毅然とした態度、冷静な思考と気丈さを持って前線へ駆けていく。迷いのない金色の目でぐっと前を見つめて──

「だけど…明日も見られるかどうかわからない夕陽を眺めて、ひっそり涙を流していた……優しい普通の子だった」

 僕があげた造花を何よりも大事にすると言って、微笑んでくれた優しい彼女。

 ……鮮やかな赤いバラの髪飾りをつけ、優しい声で言った彼女のことを、僕は永遠に忘れないだろう。


『造花でもいい。紛いものでもいいの』

『だってこのバラは永遠に枯れないし、散ることもないから』

『だからエミール、あなたの愛をずっと抱きしめていられる。それがあたしの強さにもなるんだ』


 もともと強いはずの彼女が、僕のあげたバラを“愛”といい、自らの強さにもなるのだと言ってくれた。

 彼女は、皆の希望となるために闘っていた。

 砂に似通う長い髪。高い位置でポニーテールにして、風に舞わせて砂の海を駆け抜けていく。浅黒い腕にバラのタトゥーを入れて……痩せた細い身体だというのに、誰よりも勇敢で、誰よりも優しかった……サヴィーヌ──

「……もうどこにもいない人なのね…」

 話を聞き終えたシモーヌはぽつんと呟いた。うん、と僕は頷く。

「君はパパの死を知って悲しんで、おそらく暫くは悲しみを癒すのに時間を必要とするだろう。それと同様に、僕も彼女の死を未だに信じられず、忘れきることができない。時間が解決してくれるのを待つだけだ」

「忘れきる…?忘れてしまうの?時間が経てば、その人と過ごした記憶も薄れて…?」

 不安そうに話すシモーヌ。

「そんなの、悲しすぎるわ。忘れちゃったらその人が可哀想よ。その人も、パパも…愛する人の心にずっと残っていたいと思ってるに決まってるわ」

 また涙ぐんでるシモーヌの綺麗なエメラルドグリーンの瞳。どうしてこんなにも優しい子を毎日のように泣かせてしまうんだ、と悔やむ。こんなにシモーヌの涙を見ることになろうとは……

 僕は息をつき、少し苦笑する。

「…サヴィーヌは違う。僕がいつまでもウジウジしていたら、きっと天国で怒ってしまう。“しっかり前を向いて生きるんだ!”って…そういう人なんだ。僕に勇気と、生きる強さと…希望を教えてくれた人だから」

「……ごめんなさい…」

 ふと、シモーヌが零した。

「寝言のこと、言わなければ良かったのね。そうすれば辛いことを思い出さなくても良かった……でもわたしは、兄さんがあんなに悲しい声で呼んでいる人がどんな人なのか知りたかったの…ごめんなさい」

「いいんだ、シモーヌ」

 もう、昔のことだよ。と続けた。

 シモーヌの髪を撫でてやりながら、できるだけ優しい声で言った。

「かえって君に余計な心配をかけちゃったね。ほら、またウサギさんの目に逆戻りだ。そんな目をしていたらいつになっても撮影なんてできないな」 

「……」

 ウエストポーチからコンデジを取り出して、僕はふふっと笑ってレンズをシモーヌに向ける。

「泣き顔も可愛いから、撮りたくなっちゃうな」

 わざとおどけて言うと、彼女は恥ずかしそうに涙を指で拭う。真っ赤になった顔を押さえながら、

「やだ。こんな顔、撮られたくないわ。もう、兄さんの意地悪…」

「じゃあそろそろ泣き止んで?食べ終わったし、その辺を散歩してみよう。それからスーパーで買い出しだ。ランチは僕のお手製ガレットだからね」

「……うん!」

 やっと笑ってくれた。元気な声も出て、いつもの朗らかなシモーヌになってくれた。


 スーパーからの帰り道、街中で何気ない表情のシモーヌを何枚か撮った。

 コンデジだし、展示会に出せるような本格的なものは撮れないけれど、久しぶりに会ったんだからと記念めいたものにしたかったのだ。

 並木道で木の陰から顔だけ覗かせる姿や、セーヌ川を眺める綺麗な横顔、生の野菜を口に入れようとするおふざけ、ショールを外してクルッと軽やかに回るオフショルダーのワンピース姿のシモーヌ……

 眩しいほどの若さが弾けるような、可愛らしい彼女は、改めて本当に良い被写体だと感じる。


 兄妹として生まれた、僕とシモーヌ。

 僕の後を一生懸命に走って追いかけてきた、幼いシモーヌ。

 満面の笑顔でたくさんの花を抱えて、「兄様のために摘んできたの!」と言いながら僕に差し出してくれた妹。

『…兄様ぁ…エミール兄様ぁ……!』

 可愛いあどけない声で僕を呼ぶ妹…

 ひとりぼっちは嫌、夜の闇が怖いと言って泣き出し、僕のベッドに潜り込んできた妹…

 いつも僕の隣にいた、小さな小さな妹。

 シモーヌはずっと僕の可愛い妹だった。僕はそんな妹を“兄として”好きだったんだ。

 そうだ。それ以外の何ものでもない……

 僕は、妹のためなら何でもする。

 彼女が幸せになるためになら、何でも、だ。


 ガレットを一緒に作り、ランチを食べ終えた後で、さっき撮った写真をパソコンに取り込んだ。

 シモーヌも横に座って僕の作業の様子を眺めている。

「うん、良く撮れてる」

 数枚の写真が画面上に映し出され、僕は満足げに呟く。

 中でもセーヌ川を眺めるシモーヌの立ち姿は本当に綺麗に撮れていた。顔だけアップにしたものから、ローヒールのつま先までのロングショットまで。そして一番気に入ったのが、彼女の横顔のズームだった。

「これはママンにも見せたいぐらいの出来だな。帰る時にプリントして持たせてあげるよ」

「そんなに良い出来なの?」

「そりゃあもう。モデルが良いからね」

 僕の言葉に、シモーヌは微笑んだ。

「兄さんだって、わたしに似てるのならモデルになれるんじゃない?」

「僕は撮られるよりも、撮る方が性に合ってるよ」

 そう言って僕は笑う。

「明日はあのドレスの撮影をしようと思うのだけど、どうかな?シモーヌ」

 あのドレス、というのは寝室のハンガーにかけたままのブルーグレーのカジュアルドレスのことだ。

 元々はあれを着た姿をしっかりとした機材で撮る目的なのだから。

 場所はどこがいいかな…と考えている僕に、シモーヌが言ってきた。

「あのドレスって、昼よりも夜の方が似合いそうな感じがするの。だから、夜の外灯のついた橋とかどうかなって」

「夜か…うん、それもいいかもしれないね。ぼんやりと明かりが灯った橋の欄干で、振り向いた君を撮る……なるほど、絵になりそうだ」

 僕の頭の中に構図やイメージがどんどん出来上がってくる。

 椅子から立ち上がり、早速機材の確認に入った。レンズを最適の物にし、手入れもしておかないと。

 忙しなく動き回る僕を、シモーヌは座ったままで眺めている。

 何の変哲も無い事務机に肘をつき、両手の指を組んだところに顎を載せている。口元には柔らかい頬笑みを浮かべ、優しい表情で僕を見つめていた。

「…そうだ」

 僕はふと思いついて、生けてあるイエローキューピッドの花を花瓶からスッと取り出した。水を吸っていた茎の下部分をタオルで吹き、シモーヌに渡す。

「これを持って、窓辺に立ってみて」

「えっ?」

 シモーヌは急に言われたのでビックリした様子だ。

「せっかく綺麗に咲いたんだから、撮らなきゃね。花びらの黄色がオフホワイトの服にも合ってる」

 僕はシモーヌの手を取り、事務所の窓辺に立たせてみる。味気ないはずの窓がパッと華やかな印象になった。

 手早く一眼レフをセッティングし、僕はファインダーを覗き込んだ。

 そこに映ったシモーヌは、少し恥ずかしそうな笑顔で、見る人を包み込むような温かさと優しさを湛えていた。

「いいね、とても素敵だ。そのまま笑っていて」

 夢中でシャッターを連続で切りながら、僕はシモーヌに声をかけ続けた。

「その笑顔が良いね。そう…少し首を傾げてごらん?うん、良い表情だよ」

 イエローキューピッドの花束を抱えて微笑むシモーヌは、本当に綺麗だった。

「もう、兄さんったら褒めすぎ」

 あまりに僕がいいね、いいねと繰り返すものだから、終いにはシモーヌはクスクス笑い出した。

「写真家の人って、みんなそうよね?」

「まあね。リラックスさせて、その人の一番良い表情を引き出すのが目的だから。僕もついつい褒めすぎてしまう」

「…風景にも?やっぱり褒めるの?」

「え…?」

 不思議なことを訊くなあと苦笑する。

 けれど、まあ似たようなことはしているかもしれない。

「褒めたりはしないかな。最初に向き合った時に、お願いしますと心の中で頭を下げるくらいで」

「頭を…?どうして?」

「だって撮らせてもらう側だからね。雄大な景色への感謝というか、そんな感じで“お願いします”って言うんだ。失礼の無いようにね」

 僕は十数枚を撮り終えてから、満足げにカメラを机に置いた。

「ありがとうシモーヌ。また良い写真が撮れたよ」

 寄ってきたシモーヌにそう言って、イエローキューピッドの花束を受け取った。花瓶に戻して、改めて花を眺めた。

「“君”もだね、ありがとう」

 そんな僕を見ていたシモーヌの表情は本当に穏やかだった。

 彼女はもう立派なレディーだ。心からそう思う。僕はそんな彼女の幸せを願う兄として見守っていきたい…それだけだ。


 その日の夕食も僕の手料理を振る舞うこととなった。

 メニューは2日前に母さんが作ってくれたのとほぼ同じ。

 シモーヌにも手伝ってもらいながら、久しぶりにちゃんとした料理を作った気分になれた。

 シモーヌは寝室からオルゴールを持ってきて、ダイニングテーブルの上で鳴らしていた。

 チュチュを着たバレリーナ人形がくるくる回って踊る姿は、ずっと見ていても飽きないらしい。

 片付けを終えた僕は助手のアンリに電話をかけた。

「アロー、アンリかい?実は…悪いんだけど、休みをもう2日ばかり取ってもらえないかな?」

『エミールさん?それってどういう?』

「シモーヌに負けちゃってさ。滞在を延ばすことになったんだ」

『負けた?…って何の勝負をしたんですか?エミールさんを負かすなんて、シモーヌさんもなかなかだなあ』

 電話の向こうでアンリが笑った。

 振り返ると、会話が聞こえていたのかシモーヌもふふっと笑っている。

 僕は頭を搔きながら、

「そういうことなんで、すまないね。そのうち埋め合わせはちゃんとさせてもらうよ」

『期待してます!あ、そういえば俺、この前の休みの日に、街中でイリヤさんを見かけたんですけどね』

「うん?イリヤを?」

『カフェでけっこうなイケメンと会ってたんですよ!背が高くて、カッコよくて…俺、ガックリきちゃって』

 アンリは声のトーンを落としながら、はあっとため息をつく。

 前から彼はイリヤのファンだからなあ…と僕は苦笑した。あんなに美人で素敵な人はいませんよ!と毎回力説するくらいだ。カッコいい男性とのデートを見てしまったんなら、それはそれはショックも受けるだろうな。

 けれどイリヤにそんな相手がいるなんて僕も初耳だ。どんな相手なのかちょっと興味はあるな。そう思って特徴を訊いてみたところ、

『濃茶のショートヘアで、もみ上げが少し長めのスタイルで…横顔しか見えなかったけど、少し鷲鼻っぽい感じの男でしたよ。タバコを咥えて、ああ、そういえば新聞を何部か持っていたような…』

「……ん?」

 あれ?となる。僕はイメージした顔がどこかで見たように思えてきた。

 背が高くて濃茶のショートヘア、鷲鼻、しかもタバコ、新聞……

「それって、ロンメルかもしれない」

『え?ロンメルさんって、フランクフルトの新聞記者の?』

「そう、僕もよく情報をもらったりする、そのロンメル」

 フランクフルトの新聞社に勤めている長年の友人、フリードリヒ・ロンメル。おそらく彼だろうという結論に至り、僕は苦笑いを浮かべた。

「聞かなきゃ良かったかな。ちょっと肩透かしだ」

『えっ、俺は逆に安心しました!なあんだ、知り合いだったんだって』

 アンリは急に元気な声になった。

 ロンメルという男とイリヤは、フランクフルト生まれの幼なじみなのだ。

 少し…いや、だいぶかな?ロンメルは女癖が悪くて、イリヤはそれを毛嫌いしているという。なのにロンメルはイリヤにもずっとモーションをかけ続けているんだから、どうなんだって話。

 それを嫌がってイリヤはパリの大学に進学したぐらいなんだ。実家に帰るのも渋っていて、なかなかフランクフルトには戻らないと言っていた。

「そうか、ロンメルが来てたなんて思わなかった。僕も久しぶりに会いたかったな。彼とは冬に連絡して以来だから」

 昨冬、スカンジナビアの城からハイランドへ逃亡したアラン兄さんの行方についての情報をくれたのもロンメルだった。

「知り合いとはいえ、ロンメルは君のライバルにもなり得る相手だからね、アンリ。まあ頑張って。…それじゃあ、休みの件は頼むよ」

 そう言って僕は通話を終わらせた。

 先ほどまで鳴っていたオルゴールがいつの間にか演奏を終え、静かになっていた。終わるとすぐにゼンマイを巻いていたのに、と振り返って見た。

「やっぱり…」

 シモーヌがテーブルに突っ伏してウトウトしていた。

 オルゴールの音色は眠りを誘うと言うからなあ…と僕はふふっと笑いを零す。

 レディーにはなったけど、まだまだ可愛いままだな。

「こんな所で眠ったら本当に風邪をひいてしまうから…」

 囁くように話しかけるが、反応はなし。くぅくぅと寝息を立てているシモーヌのあどけなさといったら、ない。

 ただひとつ問題は……オフショルダーのワンピースを着たままだってこと。

 このまま寝かせるわけにもいかないから、起きてもらわないといけないんだけど……

「シモーヌ?起きてくれ」

「…ん……」

 返事のような、違うような声。

 起きる気配、まったく無し。

 困ったな……

 まあ、まだ21時だし、少しぐらいはここでうたた寝してもいいんだけど。

 そう思い直した僕は寝室へ行き、ブランケットを持って戻った。シモーヌの体にそっとかけてやり、息をついた。


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