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第11章

 

 そのまま翌朝までキッチンの椅子で過ごしていた僕は、目覚めてすぐに後悔することになった。

「…えっ?」

 テーブルに突っ伏したままのシモーヌの様子が少しおかしかったのだ。

 毛布にくるまって寒そうに震えている。

 夜中にふと目が覚めて、寒さを覚えてヒーターを点けてはいたけれど…

「シモーヌ?どうし──」

 顔を覗き込むと、なんとなく赤い。嫌な予感がしてそっと額に触れると、少し熱かった。汗ばんでもいる様子だ。

(まさか、熱が…?)

 シモーヌは時折つらそうに息をもらし、ぐったりしている。僕はすぐに彼女を抱え上げ、寝室へ向かう。

(しまった…!)

 昨晩、うたたねをしていたシモーヌを起こして、さっさとベッドに寝かせれば良かった。ワンピースが皺になるとか些細なことを気にしたせいで…こんなことに──

(すぐに汗を拭いて、着替えさせ…)

 そう考えた僕だったが、さすがに気が引けてしまって行動を起こせなかった。

 そりゃあ、小さな頃は服の着替えを手伝ったりしたさ?目が見えない子だし、何より幼かった。

 だけど今は……

(って、そんなことを言ってる場合じゃ…)

 震えているシモーヌを見つめ、どうすればと考える。

(──そうだ!)

 と、その時ふいに浮かんできた顔があった。同じ女性なら──

 そう思い、僕はスマートフォンでイリヤの番号にかけ始めた。


「ごめん、イリヤ。朝っぱらから呼び出してしまって」

 早朝というのに駆けつけてくれたイリヤはノーメイクで、着ているものも簡単な部屋着に近かった。珍しく眼鏡をかけていたので、普段とは雰囲気が少し違って見えた。

「もう、ビックリしたわよ。えっと…熱を出してるのは妹さんなのね?とにかく部屋を暖めて、汗をかかせて熱を下げなきゃ」

 イリヤの指示で、僕はエアコンを入れたりタオルや着替えを出したりと、忙しなく動いた。

 僕が寝室を出ると、彼女はテキパキとシモーヌを着替えさせ、体の汗を綺麗に拭き取っていたようだ。その手際の良さはさすがとしか言いようがなかった。

「家から冷却シートを持ってきたわよ。どうせあなたの所には揃えてないでしょうしね。それと解熱剤も。何か食べれそうならその後に飲ませてあげて」

 一段落した後、寝室から出てきたイリヤはそう言って微笑んだ。もう、感謝しかない。僕はホッとして礼を言った。

「色々ありがとう、イリヤ。本当に助かったよ」

「…まったく。大変なことが起こったんだとか言うから、何ごとかと思ったじゃない。いつもは落ち着いてるあなたが、あんなに慌てた声で電話してくるんだから…」

 苦笑するイリヤに、僕もすっかり動揺してしまったことを反省するしかなかった。

「悪かったよ。つい慌ててしまって…」

 キッチンで僕はコーヒーを淹れながらそう言った。自分でもだいぶ焦っていたのがわかる。

 差し出されたコーヒーを飲みながら、イリヤはふふっと笑う。

「まあ、あなたのそういう一面が見れてちょっと嬉しかったわね。いつもは飄々としてマイペースで、シニカルなリアリストを気取ってるあなたが、妹さんのことになるとあんなに感情的な声を出すなんて、意外すぎたわ」

「そうかな…僕、そんなにいつもと違っていた?」

「ええ、とっても可愛かったわよ」

 ウインクとともにそんなことを言われ、僕は気恥ずかしくなってしまった。

「そういうイリヤこそ、眼鏡なんてかけて珍しいな。もしかして目が悪い?」

「そうよ、いつもはコンタクト入れてるの。急だったから、眼鏡で間に合わせちゃったけれどね」

「そうか…今日はこれから仕事かい?」

「ううん、オフよ。予定もない日だったし…あなたもそうみたいね?妹さんが遊びに来てるぐらいだもの」

「うん、シモーヌが来る前に仕事をほぼ片付けたよ。展示会の準備以外はね」

 数日前のカフェでの時のように、つい話が弾んでしまう。

「今日は頼りにされて嬉しかったわよ?また何かあったらいつでも声かけて」

 長居をするのも悪いから、と言ってイリヤはコーヒーを飲み終わると早々に立ち上がった。

「それじゃ、お大事にね。可愛い妹さんにちゃんと付き添ってあげるのよ?」

 微笑んで手を振り、イリヤは帰って行った。僕も玄関で手を振り、息をつく。

(とりあえずは、何とかなって良かった…)

 シモーヌの様子を見に寝室へ行くと、彼女はまだ眠っていた。寝息も落ち着いてきている。イリヤに言われたように、熱を持った額に冷却シートを貼ってあげた。髪を撫でてやり、目を細める。

(環境が変わったし、いろんな話をしたから混乱して、疲れてしまったのかもしれないな…)

(ごめんよ、シモーヌ──)

「……にい…さま…」

 ふと、シモーヌがそんなふうに呟いた。

「…兄様……エミール兄様…」

 寝言だった。夢でも見ているのだろうか?何度も僕を昔の呼び方で呼んだ。

(……幼かった頃の…)

 僕は懐かしさとなんともいえない嬉しさで、胸がいっぱいになる。

 可愛いシモーヌ。僕の大事な妹。

 世界で一番大切な…宝物……

「…兄様…わたしを置いていかないで…お願い…」

 朦朧となった意識の中、切ない声でそう言うシモーヌの手を握り、僕は囁く。

「何処にも行かない。いつも…いつまでも君の傍にいるよ……シモーヌ」

 行けるはずがないじゃないか。

 君と離れられるわけがない。

「ずっと一緒だ」

 僕ははっきりと声に出した。

 それが君の望みなら。

 それが君の幸せなら。

 僕の幸せにも繋がるのだから……


 数時間後、シモーヌはようやく目を覚ましてくれた。

 ずっと付き添っていた僕は、彼女のエメラルドグリーンの瞳に光が宿ったのを見てホッとした。

「具合はどう?」

 そう訊いてもシモーヌはまだ理解が追いつかない様子で、暫くぼんやりと僕を見つめていた。

「わたし…どうしたの…?」

「熱を出したんだ。昨夜、キッチンでうたた寝してそのまま朝まで過ごさせちゃったからね。軽い風邪を引いてしまったんだと思う」

「……そう、だったの…」

 口調もたどたどしく、まだ調子が戻らないようだ。僕は彼女の顔の汗をタオルで拭いながら、何か飲みたいか訊いてみた。水分補給もさせないといけないからね。

「喉渇いたろう?ミネラルウォーターとスポーツドリンク、それと経口補水液があるけれど…どれがいい?」

「お水がいい…」

 弱々しい声に心配がよぎる。

 シモーヌが具合を悪くしたところを見るのは、子供の頃以来だったから。

 ペットボトルからストローで飲ませてやると、シモーヌは少しだけ笑ってくれた。

「さっきね、兄さんの夢を見ていたの…イギリスの…アバディーンにいた頃の…わたしがどんなに頑張って走っても追いつけなくて…」

「…うん。兄様って寝言で言ってた。なんだかすごく懐かしくて、嬉しかった」

 じっと僕を見つめているシモーヌの潤んだ瞳。僕は優しく言った。

「置いていかないで…って言う君の声を聞いて、思ったんだ。置いてなんかいくもんか、何処にも行かないって。僕がいる場所には君もいなきゃダメなんだよ、シモーヌ」

「……兄さん…」

「僕といることで君が幸せになれるのなら…僕は一緒にいたい。それが、僕の望みだ。僕がしたいことだ」

 髪を撫でてやり、僕はそう言った。

 少し照れくさいけれど、ちゃんと伝えておかないといけないと感じた。

「…その、僕自身もまだよく解っていなくて……なんと言えばいいのか答えに詰まるけれど……ただ、一緒にいたい気持ちは強い。今はそれでいいかい?」

「ううん…兄さんと一緒ならいいの。わたしも、1人でもっと何でもできるようにならなきゃ…兄さんに甘えてばかりじゃいけないでしょ?」

 照れたように笑うシモーヌ。その頬に軽く口づけして、僕は囁いた。

「たくさん甘えていいよ。特に、こういう時こそ」

「……うん」

 嬉しそうな顔。布団から手を出し、握ってと囁く。僕は頷いて、細いその手を両手で包み込むように握った。

 ふと、シモーヌの目線がハンガーに掛けたままのドレスに向けられていることに気付いた。僕も振り返ってドレスを眺める。ブルーグレーの美しいドレスだ。きっと早く着てほしいと思ってくれている。けれどシモーヌに無理させたくない気持ちの方が圧倒的に強い。ごめんね。

「今夜の撮影は中止にして、またいつか予定を立てよう」

「ごめんなさい、兄さん。こんな時に熱なんて出しちゃって」

 申し訳なさそうな声に、僕は苦笑する。

「なかなかお目にかかれない、おとなしいお姫様だね。ゆっくり休んで元気になって、またいつもの君になって?」

「……もう、兄さんって一言多いわ」

 口を尖らせ、一瞬の後にクスクス笑い出したシモーヌ。つられて僕も笑う。

「…ところで、ねえ兄さん?」

 ひとしきり笑った後で、シモーヌが言ってきた。

「その…昨日わたしが着ていたワンピースって……」

「ああ、ハンガーに掛けてあるよ?」

 僕が手で示すと、首を振って不思議そうな顔になった。

「着替えさせてくれたのって、兄さんなの?」

「ち、違うよ?知り合いのルポライターをしている女性に頼んで着替えと…体を拭いてもらったんだ。本当に僕はまったく見ていないから、安心して!」

 別に焦ることはないだろうに、僕は首を横に振り続けて見ていないことをアピールしまくった。そんな僕の様子が可笑しかったのか、シモーヌは赤い顔のままでまた笑った。

「見られたって気にしないのに。数年前までお風呂も一緒に入っていたのよ?」

「…数年前じゃないだろう?さすがに10年以上前だよ。アバディーンにいた頃なんだから」

「だって、一緒に入って髪を洗ってくれてたじゃない。あれは2-3年前でしょ?兄さんがまだ市内に来る前だもの」

「その時は服を着ていたって!」

 だんだんいつもの調子が戻ってきたようだ。元気なシモーヌになってくれるのは嬉しいけれど、こうもからかわれては落ち着かない。僕はシモーヌの手をそっと離し、立ち上がって言った。

「お、お腹空かないかい?何か食べて、薬を飲んだ方がいいからね。…っと、昨日のキッシュが残っていたかな……食べれそうなら、温め直して持ってくるよ」

「……お腹空いてないの。あ…でもゼリーとかプリンなら食べれそう」

「そうだね、口当たりの良いものか…」

 あいにく冷蔵庫にはデザート系は入ってなかった。

 少し考えて、買い出しに行くことを伝えた。

「シモーヌ、ほんの少しの間出かけるけど…僕が帰るまで良い子で寝ていてくれるね?」

 そう言うと、彼女はこくんと頷く。僕はその頭を撫でて、笑いかけた。

「ゆっくり休んでるんだよ?いいね?」

「うん、兄さん、行ってらっしゃい」

 小さく手を振る彼女を後に、僕はサッとジャケットを羽織る。財布とスマホを確認してから自宅を出た。


「ただいま」

 買い物を手早く済ませて、僕は足早に自宅へ舞い戻った。

 眠っているかと思ったけれど、シモーヌは起きて僕を待っていた様子だ。

 ああ、正確にはゼリーかプリンを、かな?それらが入った袋を見せつつ僕が顔を出すと、なんとも嬉しそうな顔に変わったからね…

「美味しい。病気の時に食べるプリンって、本当に美味しい!」

 僕がプリンを食べさせてあげると、シモーヌは満足そうに笑った。

 まだ熱が下がったわけじゃない。でも朝よりは確実に元気になってきている。世話をしてくれたイリヤに感謝するとともに、僕は昔からのシモーヌの丈夫さがありがたかった。子供の頃からほとんど病気になったこともなく、母さんも『シモーヌは目のこと以外は手がかからないわね』と喜んでいたのを思い出す。

 逆に僕の方がわんぱくっ子で、野山や小川を探検しまくって擦り傷ばかり作って帰っていた。大きな怪我はせずに過ごせたことを今では幸運に思う。

 戦場で戦っていた頃もそうだし、カメラマンになってからも良い風景を撮るために少しだけ無茶をしたりすることもあった。もちろん大きな危険が伴うようなことはしないけれど、徒歩でしかたどり着けない山奥の滝を撮りに行ったり、崖のギリギリまで寄ったりして、今思うと母さんやシモーヌがいつも僕を心配する気持ちもよく解る。

「ねえ、兄さん」

 シモーヌが食べ終わって、僕が薬を用意していた所へ声をかけられる。

「オルゴール、持ってきてほしいの」

「ああ…昨夜からキッチンに置きっぱなしだったね。いいよ、今持ってくる」

 水と薬を手渡し、ちゃんと飲むんだよと言って聞かせる。飲んでいる間に僕はキッチンからオルゴールを持ってきた。

 ゼンマイを回して枕元に置くと、バレリーナ人形がクルクル踊り出した。

 シモーヌは穏やかな表情のまま、横になってそれを眺めている。

『愛の夢』……これまであまりクラシックは聴いていなかった僕は初めて、こんなに美しい素敵なメロディだったんだなと気付いた。フランツ・リストは音楽の授業で聴いたぐらいだった。

 超絶技巧のピアニストであり、社交的で女性との浮名が絶えない恋多き紳士だったらしい。それでも何故か生涯独身を貫いたというから、不思議な人だと思う。

 こんなに印象的で、綺麗なメロディーラインを創れる男性でもそうなのか…と考えると、恋人とか結婚っていったいどうなんだろう?

 僕にはあまり縁がないかなと思っていたのに、例の見合い話の件もあるし、いつどこから湧いてくるかわからないものだな……

 息をつく僕に気付いたらしく、シモーヌは言ってきた。

「どうしたの?兄さん…考え事?」

「う…ん。まあね」

「どんなこと?」

「……いや、一緒にいることと結婚することって何が違うのかな、とかそんなことだよ」

 何気なく零してしまった言葉に、シモーヌは一瞬キョトンとして──

「急にそんなことを?兄さんったら、深く考えすぎ」

 クスクス笑い出した。

「だって、結果的には同じことだろう?どちらも同居はするわけだし、単に書類を出すか出さないか、あとはパートナーとして認められているかどうかの違いかな。財産分与とかに関わってくるぐらいで…」

 僕がそう話すと、シモーヌは寝たまま僕を見上げるようにして微笑む。

「一緒にいることは簡単だけど、結婚ってなると難しいと思うわ。親戚とか色んな関わりがあるんだもの。ダンヴェール家もそうだけど、セザールさんのお家も貴族だったのなら繋がりが大変そうね」

「うーん…どうだろうね?爵位は直系の者しか継げないらしいから、少なくともダンヴェール家のほうは僕には関係ないけれど…」

 そこまで言った僕は、はたと気付いた。

 具合の悪いシモーヌにこんな面倒な話をしたら、余計に疲れさせてしまうじゃないか!

 慌てて話題を変えようとするけれど、思うように浮かんでこない。そうこうしているうちにシモーヌの方が口を切った。

「わたしはやっぱり…兄さんがいいな。だって、一番わたしを理解してくれている人だもの。ずっと、ずーっと一緒にいてほしいし、お嫁さんにもしてほしいけど…その前に目も良くなって、ちゃんと兄さんの顔を見れるようになりたいわ」

「……シモーヌ…うん、そうだね」

 彼女も希望を棄てていないようだ。

 僕はその言葉に安心して、必ず目を治してくれる眼科医を捜し当ててみせると改めて心に決めた。

(……ん?…あれ?)

 ずっと一緒にいる、は僕の望みでもあるからいいとして。

(お嫁さんにもしてほしい、って…)

 サラッと言われすぎて、後から恥ずかしくなるパターンだ。

 先日母さんが言った、“逆プロポーズ”をまたしても聞いてしまったわけで……

(また先に言われたか……)

 ──これは、本当にしっかりしなきゃいけなくなりそうだなあ。

 曖昧な考えは捨てて、真面目に考えないとダメだろう。

 少なくとも、僕を想ってくれているシモーヌに失礼になってしまう。


 だけど、その前に……


 僕は目を細め、サヴィーヌへの深い想いを噛みしめる。

(君を想ったまま、シモーヌを妹以上に大事に想うなんてできない)

 もう10年以上も僕の脳裏にこびりついて離れていかない、砂漠の思い出。それにきちんと整理をつけてから、だ。


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