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第12章

 

 いつものごとく、楽しい時間が経つのはあっと言う間だった。

 薬が効いたようで、シモーヌは翌日には熱が下がったけれど、まだまだ本調子ではなかった。

 念のために母さんに連絡を入れて、明日早めに帰るからと伝えた。

 母さんも『シモーヌが熱を出すなんて珍しいわね』と少し驚いていた。

 シモーヌはベッドから起き上がり、温かいスープを飲みながら、

「兄さんのせっかくの休みを無駄にさせちゃった」

 と申し訳なさそうに言う。僕は首を振って、

「そんなことはないよ。むしろ、こうしてゆっくり話せたじゃないか。あちこち出かけるのも楽しいけれど、たまにはこういうのもいいと思うよ」

「…そう?」

「うん。僕はそういう時間も好きだな。色んなことを語り合って、知らなかった一面を知ったり…ね」

 シモーヌが納得したように頷く。

「わたしも兄さんとたくさん話せて楽しかったわ」

「また元気な時にカフェに行ったり、店巡りを楽しもう。こっちに来たくなったら、呼んでくれれば迎えに行くよ」

「……うん!えへへ…」

 明るい声で笑うシモーヌ。やっぱり笑顔が似合う子だ。僕もつられて笑んでしまう。

 が──。

 少しずつ回復していく様子に気を取られ、つい…油断してしまった。


 その夜、前日と同様に僕は一緒のベッドで寝るのを避けた。

 具合の悪いシモーヌを狭いベッドに寝かせるのは可哀想だと思ってのことだ。

 簡易型のマットレスベッドを作り、並べて設置する。こうすると部屋の中を歩けるスペースがまるで無くなってしまうので不便だけれど、仕方ない。

 シモーヌはちょっと不満そうな顔だった。

「昨日は熱があったから我慢したけど…今日はもう下がってるのに、一緒に寝てくれないの?」

「そうは言うけど、まだ調子が戻っていないだろう?ゆっくり体を休めないとね。明日はまた車で移動するんだし、睡眠もしっかり取らないとダメだよ」

「……」

 僕の言葉を納得したのか、してないのか…シモーヌはそれ以上何も言ってはこなかった。

 ほぼ隣に寝てるんだからいいと思ったんだけれどな……

「おやすみ、シモーヌ。良い夢を」

 そう言って僕は彼女の頬に軽くキスを落とす。

「…おやすみなさい、兄さん」

 彼女からも頬にキスをしてもらい、僕は安心してベッドに横になる。

 電気を消して、目を閉じた。

 この数日間、いろいろ話して、シモーヌの考えや悩みを知った。

 そして、僕は改めて、彼女がとても大事な存在なのだと自覚した。

 それは…可愛い妹としてもそうだし、1人の人間としても……そして──

「…兄さん?」

 しばらく経ってから、シモーヌが小声で僕を呼んだ。

(……)

 僕はまだ意識もハッキリしていたし、応えようとすれば出来た。

 けれど、なんとなく先日のことが頭をよぎり、何も返せなかった。

(……まさか、ね)

 静寂の中、僕は息を呑んで時間が過ぎるのを待つ。

 そして──シモーヌがベッドを抜け出て僕の方へ移動してくる気配を感じ取った。マットレスがへこむ感触が寝ている僕の体にも伝わってくる。

(…シモーヌ…?)

 暗闇の中でまた僕の顔を指で探りはじめたシモーヌ。思わず体が強ばる。

 顔を近づけてくるシモーヌのかすかな息づかいがすぐ近くで聞こえ、僕はそっと手で自分の口元を抑えた。

「ダメだ、シモーヌ」

 僕は目を開け、そして電気のスイッチを入れた。急な眩しさが目の前に広がり……すぐ横にシモーヌが驚いたような顔で座り込んでいた。

「…兄さん…?」

 口づけを拒まれ、信じられないような表情のままシモーヌは言う。

「……気付いてたの?」

「君は2日前にもしただろう?僕が寝てしまったと思い込んで……けれど、あの時僕はまだ眠ってはいなかった」

「……」

「どうして、こんなことを?」

 うつむき加減のシモーヌを見つめ、僕はそう訊いた。どうしても何も、既に彼女の気持ちは聞いてしまっているんだから…とは思った。でも、訊かずにはいられなかった。昨日は一緒にいるだけでいいと言ったのに、こんなことを繰り返すなんて。

「……だって、誰にも取られたくないんだもの。兄さんを独り占めしたくて…」

「…だからって、こんなふうにしなくてもいいだろう?僕はまだ自分の気持ちもハッキリ解っていないんだ。なのに、こんなことをされて……もし僕がその気になって、感情だけで突っ走る男だったらどうするんだ?」

「……」

「君が知らない、狼みたいな僕がいるかもしれないんだよ?口へのキスは決して軽々しくするものじゃない」

 シモーヌは何も言わず、しゅんとなっている。困惑した僕は息をつき、ブランケットを手にして寝室を出ようとした。

 気配に気付いたシモーヌに呼び止められる。

「…何処へ行くの?」

「今夜は事務所のソファで寝るよ。君も早く寝るんだ。いいね?」

 少し冷たい言い方になってしまったけれど、誰にも取られたくないなんて言うほどだからシモーヌが素直に引き下がるとは思わなかった。ここは甘い顔はできない。

 彼女が泣いてしまうかもしれない、という不安もある。だけど、このまま同じ部屋で過ごしたら……僕自身も正常な判断が続けられるかどうかはわからない不安の方が勝ってしまった。

「兄さん…待って」

 事務所に向かう僕を、彼女の声が追いかけてきた。僕は立ち止まりはしたものの、振り向かずに言う。

「女性と違って、男は簡単に欲情できてしまうんだ。だから──」

 言葉を言い終わらないうちに、背後からシモーヌがぎゅっと抱きついてきた。

「ごめんなさい、ごめんなさい…」

 それだけを繰り返す。叱られて必死で謝る子供のようだった。その声があまりにも弱々しくて、だんだん責めている気になってきた僕はどうして良いものか考える。

 ここは納得してくれるまで冷静に話すしかないだろう。

「…シモーヌ、僕は怒っているわけじゃない。それは解ってくれるね?」

「……うん…」

「君が大事だからこそ、君に軽はずみなことをしたくないし、されたくないんだ。僕は何処にも行かないと言ったよね?君のいない所には行かない、って。だから…焦ることはないんだ」

 僕はため息にも似た息をつき、しがみついてくるシモーヌの手に自分の手を重ねる。そっと離れて、持っていたブランケットを彼女の肩からかけてあげた。

「約束してくれるね?もうこんなことはしない、と。男って、君が思うよりも単純な生き物なんだ……まあ、僕は草食系って言われてるからアレだけど」

 ハリーやイリヤにもさんざん言われてるし、その解釈は間違っていないはずだ。

 シモーヌはこくんと頷いてくれたけれど、まだうつむいて元気なさそうな顔だった。

「何か温かいもの、飲もうか」

 僕はそう言ってキッチンに彼女を連れて行く。ブランケットを羽織ったままの彼女はおとなしく椅子に腰を下ろしてくれた。ヒーターを点けた後にお湯を沸かし、ホットココアを作りながら僕は口を切る。

「僕はこういう…現実的な考えだから、ロマンチックな台詞も言えないし、ましてや感情に走ってしまうのはとても怖いと思ってる。だからつい風刺や皮肉で返してしまったりするんだろうな。素直じゃないといえばそうだけれど…どうしてもモラルとかを先立って考えてしまうんだ」

「……うん、知ってる」

 シモーヌはしゅんとなったままで頷く。

「兄さんがわたしをちゃんと叱ってくれる人だってことも知ってるわ。だからいつかきっと気付かれて、止められるってわかってたの…でも1度してしまったら、次も次もってなってしまって……ごめんなさい」

 ココアの入ったカップを受け取り、シモーヌはそれをゆっくり飲み始めた。

 僕も一口飲み、

「まあ、済んでしまったことは仕方がないよ。でも…人間同士の関係は編み物じゃないんだ」

 ドレスを買いに行った際、店長のイザベラと編み物の話をしたのを思い出す。

「編み物って、間違いに気付いたら時間はかかるけれど、解せてまた編み直せるものだろう?でも人間はそうじゃない。解すのも大変だったり、修復だって上手くいかないこともある。僕は小さな間違いで大事な君を失いたくないんだ」

 カップをテーブルに置いて、僕は諭すようにそう話す。

 うん、と頷くシモーヌ。すっかり元気を無くしてしまったようだ。それだけ本気でいてくれるってことなんだろうけれど…今はまだそれを素直に喜べない気持ちが僕に残っている。

 シモーヌはやっぱり、僕を兄としてじゃなくて…それ以上の感情で見ているんだろうか…とても怖くて訊けやしない。

「1度ぐらいなら誤射もある、ってことかなあ…」

 なんとなく呟くように言った僕に対して、ようやく顔を上げたシモーヌが首を振って言った。

「……1度じゃないの」

「……え…?」

「兄さんが事務所に移り住んでから、家に帰るたびにしてたの」

「………」

 僕は耳を疑ってしまう。

 ……え?

 一昨日が初めてのキスではなかった、ってことなのか?

 それに全然気付いてなかった僕は、自分で自分が信じられなかった。

「あー…」

 僕は仰け反って頭を抱えてしまう。まさかそんな前からシモーヌにキスされていたなんて。

 それじゃあ慣れてるよなあ…

 やっぱり一緒に寝たりするのはよくなかったんだろうか?寂しさを感じさせないようにと思っていたのに、シモーヌにとっては疲れて帰ってきた僕は格好の獲物か、若しくは美味しそうなエサだったんだろうか……

 そんなふうに考えたら、ふいに可笑しくなってしまった。ふふっと笑いを零す僕をシモーヌは不思議そうに見る。

「兄さん…怒らないの…?」

「それはもう怒るとかのレベルじゃないよ。帰るたびにって、何十回したんだって話だろう?全く気付かなかったよ」

 肩をすくめてみせた僕に、シモーヌは何とも言えない顔をしている。

 どうすれば、どう言えばわかってもらえるのかな?

 ここはやっぱりストレートにぶつけてしまうしかないか?

「あのね、…いけないことだって、解ってる?僕らは兄妹だから、それ以上の関係にはなっちゃダメなんだよ?」

「解ってるけど…」

「だったら、もう2度と僕の寝込みを襲ったりしないこと。意識が無い間に何かされてるなんて考えたくないからね。解ったかい?」

「…意識のある時ならいいの?」

「……シモーヌ…頼むよ、言うことを聞いてくれ」

 大仰にため息をつく。そして意を決して言った。

「まだそんな気があるのなら、もう2度と一緒に寝ない。してもいいのは頬と額のキスまでだよ?」

 一緒に寝ない、と聞いた瞬間、ハッと表情を変えて「そんなのは嫌」と呟いたシモーヌ。

「わかったわ、我慢する……でも、わたしの気持ちは変わらないもん。兄さんがわたしを選んでくれるまでずっと好き」

「……うん」

 僕はシモーヌから目を逸らす。

 どうして…かなあ。

 どうして僕らは…兄妹に生まれたんだろうな。

 深みにはまれない恋心なんて、つらいだけだろうに……

 これで確定、か…シモーヌは明らかに僕を異性として見ているってことが判明してしまった。困ったな…

 困惑はするものの、少しばかり安心というか……ホッとするような気持ちもあることにも気付く。

 それは僕も、おそらく……


 結局、その夜は寝室に戻り、別々のベッドで眠った。

 同じベッドで眠って、いつものようにぎゅーっなんて抱きつかれたらと考えると、自分で自分を抑えきれる自信がなかった。

(誰にも取られたくない、か……)

 寝息を立ててぐっすり眠っている様子のシモーヌの言葉を思い出す。

『誰にも渡したくない』

 僕が言いたくても言えない言葉を、彼女はこんなに素直に口に出せるんだな…

 羨ましいというか、なんというか。

(言ってしまって、楽になれるのならその方がいいのか?)

(それとも…隠し通して、今のままの兄妹という関係でこれから先も…)

 僕は深い深いため息をつく。

 考えがどうどう巡りしてしまい、おかげでその夜は一睡もできなかった。


 翌日は、予定よりもかなり遅れて出発することになった。

 僕は明け方からようやく眠りに落ちたようで、シモーヌに起こされてやっと目が覚めたのが10時をまわっていた頃だった。

 シモーヌは昨日よりも元気な様子だ。それに昨夜のことも無かったような素振りを見せていた。

 まあ、スッキリはしただろうな。

『わたしの気持ちは変わらないもん』

『兄さんがわたしを選んでくれるまでずっと好き』

 なんて言ったぐらいだからね?


 準備を終え、車にトランクやドレス、母さんへのお土産を積み込んで出発する。

 途中でベーカリーに寄り、美味しいクロワッサンとドリンクを買い込み、僕らは再び郊外の自宅へと向かった。

 なんだか…色々あったなあ。

 色んなことを話したし、いろんなことを聞いた。色んなことも知った。

「ねえ、兄さん?」

 助手席のシモーヌが口を切った。

「家に着いたら、またイエローキューピッドを切ってあげるから、事務所に持って帰ってね?それからハーブも摘んで、紅茶にしてね?」

「うん。ありがとう」

「えっと…それから、…それから…」

 一生懸命思いつくことを話そうとしているシモーヌがいじらしくて、僕は笑った。

「またすぐに会えるじゃないか。来月には展示会もあるんだし、今度はママンと一緒においで」

「…そうね。そうよね、またすぐに会えるわよね?」

 安心したように微笑むシモーヌ。

 こんなに僕に懐いてくれている、可愛い妹。ここ数日で何度も見た彼女の涙。

 ──もう、泣かせたくない。

 なるべく早く、サヴィーヌへの気持ちにピリオドを打たなくては。

 …でも、どうやって?

 どうすれば未練を断ち切れる?

 10年も経っていて、ようやくだなんて。

(君は、天国からずっと見ててくれているのかな)

 やがて郊外の自宅が見えてきた。

 その向こうの青空。その先に……砂漠での早朝に何度も見たような霧のごとき白い雲が何層にも重なっている光景が広がっていた。

(砂漠へ──)

 その時、漠然と思いついた。

 一瞬目を細めて、僕はまたしっかりと目を開いて青空を眺めた。


「お帰りなさい、ルイ、シモーヌ」

 数日ぶりに帰ってきた僕たちを、母さんが微笑んで迎えてくれた。

 リナンもメイドたちも口々にお帰りなさいと言ってくれて、帰ってきた実感が強くなった。

 シモーヌは着いてすぐに庭へ行ってしまったようだ。車の中で話していたように花やハーブを摘んでくれるのだろう。

 僕はリナンに荷物を預け、リビングで母さんに紅茶でもてなされた。

「少し休んでからパリへ戻るよ。明日からはまたたくさんの写真と睨めっこだ」

 そう言って僕は鞄から数枚の写真を出した。それを母さんに渡して微笑む。シモーヌをコンデジで撮ったものと、事務所でのショットだ。

「良く撮れてるだろう?」

「まあ、本当に!こんなに優しい笑顔で…ルイはいつも上手に撮るわね」

 母さんは写真を眺めながらそう言った。

「最近あの子ね、ルイがいないとこんなに笑わないのよ?もちろん少しは笑顔を見せるけれど…こんなふうに心から笑わないの。こんなに優しく穏やかに笑っているのは久しぶりに見たわ」

「…そう」

 それを聞いて、やっぱり寂しい思いをさせてるんだと気付く。

 僕が家を出る前は毎日よく笑ってくれていたシモーヌ。

 それは僕と一緒だったからか。

 離れて初めて寂しさを覚えたんだろう。

 僕だって、それは同じなのに……

「庭に行ってくる」

 紅茶を飲み終え、僕は母さんにそう伝えて外に出た。

 庭へまわると、すぐにシモーヌが走り寄ってきた。手には切ったばかりのイエローキューピッドと…摘み立てのハーブが小さな袋に入れられていた。

「これ、カモミールよ。フレッシュタイプといってね、ティーポットでもカップでもいいんだけれど、熱湯で花を蒸らしてから飲むの。リラックス効果があって、よく眠れるんですって」

 笑顔でそう言うシモーヌに、僕も笑う。

「ありがとう。持って帰って楽しむよ」

「…兄さん、ビデンスの花言葉、知ってる?」

 そう訊かれて、僕は首を傾げる。

「知らないな……何?」

「“もう一度愛します”」

 シモーヌは優しい声でそう言った。

 僕は思わず息を呑み、彼女を見つめる。

「“真心”とか“忍耐”って花言葉もあるんだけど、わたしは“もう一度愛します”っていうのが一番合っていると思うの。プロポーズとか、結婚記念日とか…愛を誓い直したい時にその花言葉を添えて贈るんですって。素敵でしょう?」

「……」

 それは、どの言葉もシモーヌの姿を表すかのように感じられた。

 僕は何も言えず、思わずシモーヌを両手でしっかりと抱きしめた。

 まだ君の気持ちに応えられないことを許してほしい、そう言いたい気持ちを心に押し隠して──

「兄さん…?」

「うん…」

「また来月に市内へ行くわね?お仕事、頑張ってね。いつも応援しているから」

「うん…」

 頷くことしかできなかった。

 腕の中の優しい存在。僕が世界で一番守りたい、優しすぎる妹……シモーヌ。


 君の笑顔を護るためなら、何でもする。

 たとえ全世界を敵にまわしたとしても、君を護る。

 ありふれた言葉しか言えないけれど。

 いつも、いつでも、

 君を想う気持ちは誰よりも強く在りたい。


「大好きよ、兄さん」

 シモーヌが僕の耳元にそう囁く。

 柔らかい髪、柔らかな体、すべてが愛しかった。

 僕たちはしばらくの間、ずっと抱き合って互いの存在を感じていた。


 “僕もだ”


 そう、心から素直に言える日がいつか来るのだろうか……と思いながら。


 その気持ちを胸に隠したまま、僕は再び市内の自宅へと戻っていった。


 いつの日にか──

 優しい貴方へ、伝えたい言葉。

 イエローキューピッドの花言葉を添えて、告げることができたなら。


 それが僕の望みなのかもしれない。





 fin.


(2025.12.14 up)


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