第8章
「嘘…」
シモーヌは一言そう呟き、震える手で僕の腕を探し求め、縋り付いた。
「嘘でしょう?兄さん、どうしてそんな嘘をつくの?ねえ!」
必死で我慢していた大粒の涙が、シモーヌの白い頬に流れ落ちていく。
「嘘じゃない……本当だ。本当にヘンリー卿は亡くなっているんだ。僕もアラン兄さんとともに葬儀に出た」
「……!」
その瞬間、体を震わせ、シモーヌは咽せるように泣き出してしまう。
僕はやるせないように肩を落として、当時のことを話し出した。
「ある事件が起きて、僕は1月にハイランドへ行った。アラン兄さんと話すためにね……その時はもう、既にヘンリー卿は体調を崩して危篤状態に近かった」
「……」
「彼はアバディーンの自宅ではなく、ボート・オブ・ガーデンの家で療養を続けていたんだ。執事のウォルターや主治医のノリスとも会った。だけど…ヘンリー卿には面会謝絶で会えなかった。もっとも、動けない彼に会ったところで、僕はどうにもできなかったと思う。パニクって彼を叩き起こすわけにもいかないからね」
大きく息をついて、僕は首を振る。
「アラン兄さんと話して……彼がヘンリー卿の命を奪おうとしていたことも聞いた。彼なりに怒りをぶつけるつもりだった筈だ。君も知っているとおり、ヘンリー卿が僕ら家族を巻き込んだことで、アラン兄さんもずっと苦しんでいたんだ」
「……覚えてるわ。一度だけ、アラン兄さんがママンに謝りに来てくれたこと。わたしはまだ幼かったし、表情も良く見えていなかった。だけどいつも優しいアラン兄さんがとても辛そうな、悲痛な声で謝っていて……」
「そう。ママンはアラン兄さんを一言も責めなかった。そればかりか“父親を憎まないで”と言った……君が話してくれたことだったね、シモーヌ」
「…でも、アラン兄さんがまさか、パパをそこまで──」
「僕はアラン兄さんを止めるつもりで会いに行ったんだ。実の父を手にかけようとするなんて正気の沙汰じゃ無い。ヘンリー卿が罪を認めるならまだしも、そんな予兆は全くなかった……そんな相手を殺めたところで、兄さんの手を無闇に汚すだけだ、と…」
「……」
「結果的に阻止はできた。だけど…その数日後にヘンリー卿は亡くなった。すべてが遅すぎたんだ…」
僕の腕を掴むシモーヌの手に力がこもっていく。震えが止まらないようで、ふいに僕の胸に顔を埋めてしまう。僕の胸を軽く叩くようにし、涙ながらに問い詰める。悲痛と苦悩の中、彼女が感情をぶつけられる相手は僕だけだった。
「どうして……どうして黙っていたの?わたしにずっと隠して…どうして…!」
僕は震えるシモーヌの細い肩をそっと抱きしめた。
「…守りたかったんだ。ヘンリー卿のことを話したら、君はきっと揺れると思った。優しかった記憶と、ママンを傷つけた現実の間で苦しむだろう。だから少しでも長く、穏やかでいてほしかった」
「……」
「…それに、父親に未練が残ってるなんて思いたくなかった。だから君には悪いけれど、12年もの間、ずっと何の連絡もさせずにいた。これはママンとも話し合って決めたことだ」
「ママンと…?じゃあ、知らなかったのはわたしだけ?どうして⁉」
悲痛な声を上げて嗚咽するシモーヌを、僕は強く抱きしめる。
「ママンはずっと、君がイギリスへ行きたがるんじゃないかと不安がっていたんだよ。もちろん僕もだ。ヘンリー卿が元気でいるのなら、君が会いたがってもおかしくない。だけど、会えばきっと君の気持ちが揺らぐと思った。優しい父を憎むことなどできない、その葛藤から僕は君を守りたかった」
「……」
シモーヌの肩がピクリと反応する。
「揺らぐなんて……わたしを信じてくれていると…そう思っていたのに……」
ギュッと僕に縋り付いてくる。けれど、僕の言葉を聞いてからは、シモーヌの様子が少しずつ落ち着いてきた。
「…わたしが兄さんとママンを置いて行くはずがないじゃない……こんなに優しくしてくれる…こんなに幸せにしてくれる2人から離れるなんて、考えたこともないわ…」
顔を上げ、濡れた瞳で見つめてくる。
辛そうなのに無理に笑おうとしているのか、微かな微笑みが浮かんでいた。
僕はそれを見た瞬間、胸が詰まる。
──なんて勝手な思い込みをしていたんだろう、と。
シモーヌは優しくて、純粋で、真っ直ぐで……そして強い女の子だったのだ。
「…パパにもう二度と会えないのは辛いわ。胸が張り裂けそうなくらい。でも、もうイギリスには戻らないって決めていたから……ママンや兄さんと絶対に離れたくない。2人とずっと一緒にいたかったから……」
「…シモーヌ──」
「わたしを“守ろうとしてくれた”のは、いつもの優しい兄さんと変わらないわ。でも、その前にわたしを信じてほしかった……わたしに“行かないで”と言ってほしかった……そうしたら、わたし──」
真っ赤にした目を僕から逸らす。
「嬉しかったと思う。兄さんの気持ちをちゃんと話してくれたら、きっと…」
頬に流れる涙を指で拭いながら、シモーヌはそう言った。
僕は夕食前の会話を思い出した。
曖昧に流さず、きちんと言っていたなら…もっと早くシモーヌを安心させられたかもしれなかった。
気を遣って遠回しにしていたことを悔やむ。大事にしたいと言いながら、逆に不安にさせていたのかもと思うと、これまでの自分の言動のすべてにエラーが見え隠れする。
「……ごめん。僕のせいだね」
急に目頭が熱くなり、声が震えた。
シモーヌも怪訝そうに僕を見つめる。
僕の頬に伝うあたたかい涙。
「君を何よりも大切だと言いながら、君を信じ切れていなかったなんて。僕は本当に酷いな……君の兄失格だ」
蒼白の顔をしていたシモーヌはようやく僕の異変に気付いたようだ。ゆっくりと僕の顔を手探りで探し当てて、頬を流れる雫に指が触れたとたん、息を呑んだ。
「…兄さん…泣いてるの?」
「……」
それ以上何も言えず、僕は悔しげに唇を噛む。妹の前で泣くなんて──。
だけど色んなことが頭を巡って、耐えきれなくなったんだ。
ヘンリー卿が亡くなった当初も複雑な思いを抱え込んでいた。誰にも言えない苦しさを閉じ込め、時間が経てば解消されるんだと信じた。
母さんに話して、ようやく少しだけ気持ちが晴れたけれど、大切な妹に隠しているというモヤモヤとした心残りが絶えずあって、そのうちに考えることをきっぱりとやめたくなった。
守りたかったのは本当だ。けれど、僕には強さが足りなかったんだ。
強い意思と勇気があったなら……
(サヴィーヌに教えてもらったはずなのに、いつの間にか全部忘れてしまっていたんだな…)
誰かを守ることの意味。
覚悟。
強さ。
信じる心。
希望……そして…。
街にいて、忙しさに流されていく中で、すっかり成りを潜めてしまった勇気。
愕然となる僕の耳にはっきりと聞こえてきたのは、これまでずっと守ってきたつもりの妹の言葉だった。
「…兄さんは、兄さんよ。誰よりも優しくて、いつも、わたしを大切に思ってくれる兄さんだわ」
「……」
シモーヌの表情はとても穏やかで、安心させてくれるような温かさが感じられた。
「やっぱり、わたしがついていなきゃダメじゃない。ね?そうでしょう?」
……今日、3度目。
もう反論する気さえない。
ましてや今の僕は、情けなく妹に泣き顔を晒してしまっている状態だ。
でも──。
…たまには素直になってもいい、かな。
「そうだよ。何処にも行っちゃダメだ。誰かと見合いなんて絶対に嫌だし、これからだって──」
息せき切って僕が言うと、シモーヌは顔を近づけてきた。そのまま僕の頬に口づけして、優しく涙を拭ってくれた。
「…そう言ってほしかったの。わたしの一番好きな人に、そう言われたかったのよ?今のわたしがどれだけ嬉しいか、心の底から喜んでいるか解る?」
「……シモーヌ……」
──完敗だ。
まだ赤い目のままでニッコリと笑う彼女に、僕は苦笑する。
“言わないこと”が嘘つきになるんだとやっと気付いた。
本音を隠してばかりで。強がって。
感情を出すことを恐れてばかりで。
自分自身に正直になれば、ほら……目の前の人はとても優しく笑ってくれるじゃないか。
「あーあ。…サングラス持ってくるのを忘れたのは一生の不覚だよ…」
大きく息をついて、シモーヌを抱きしめながら僕は空を見上げた。
宵闇にすっかり包まれている夜空には、きらきらと輝く星々がうっすらと見えた。
ライトアップやイルミネーションが邪魔してしまい、郊外の家のようにたくさんは見えないけれど……
「兄さんって、本当に素直じゃないんだから」
僕の腕の中でくすくすと笑っている彼女の瞳にも、とても美しい輝きが垣間見れた。
星よりも月よりも美しい、エメラルドグリーンの瞳。
この美しい人を、これからもずっと守り続けていきたいと…心に、そして今夜の夜空に誓おう。
妹との絆がさらに深まった、今夜。
僕は寄り添ってくれる存在を感じながら、心地良い安堵に浸っていた。
「だいぶ遅くなっちゃったね」
アパートメントに戻るともう22時近かった。
冷えた体を温めるべく、シモーヌに先にシャワーを使わせようと準備していたら、寝室からビックリするほどの声が聞こえてきた。
「きゃああ!」
「シモーヌ、どうした⁉何が──」
慌てて駆けつけ、トランクを開けたままでオロオロしている様子のシモーヌに聞く。
「…パジャマ、忘れちゃった」
「え、っ…」
あまりのことに唖然とする僕。
彼女の顔は真っ赤になってしまった。
「これじゃ兄さんのこと、そそっかしいなんて言えないわ。どうしよう」
「……」
こういうところは似なくてもいいんだけど。
そう思い、僕はふふっと笑いながら、
「お互い様ってことだね。いいよ、僕のを貸してあげるから」
「……うん」
「一応聞くけれど、他の着替えは持ってきているんだよね?その、インナーとか」
心配になって訊いてみる。さすがに僕もそこまでは揃えてない……今から買いにも行けないし。
「そ、そこまでそそっかしくないもん!ちゃんと持ってきてますっ!」
頬を膨らせるシモーヌに、僕はすっかり笑いが止まらなくなった。
クローゼットから替えのパジャマを出して、シモーヌに渡す。
「はい、これ。タオルはバスルームに2-3枚置いてあるから、どれでも自由に使っていいよ」
「はあい」
恥ずかしそうにいそいそとバスルームに向かうシモーヌを見て、僕は声をかけた。
「そうやって小走りしてると、ウサギさんみたいだよ?今日の君は目も真っ赤だからね」
つい意地悪く、からかいたくなる。
シモーヌはさらに赤くなって、少し怒ったような顔でベーッと舌を出した。
「そう言う兄さんだって泣いてたくせにっ」
「君ほど長く泣いてないから」
知らん顔でそう言った後、僕は寝室の姿見をちらっと見遣る。
……映った自分の目を見て、思った。
(……僕もウサギさんみたいだ)
ヤバいなあ。明日までには直るかな…?
シャワーを浴び終えてからマットレス型の簡易ベッドを作ろうとした僕だったが、シモーヌは首を振って、結局シングルに2人で寝ることになった。
昨日はセミダブルだったからまだ広かったけれど、シングルじゃさすがに狭いよと僕が言うと、
「一緒がいいの。だってわたしがそばにいないと、兄さん寂しがっちゃうもの」
すっかりお姉さん気分になっているらしい。シモーヌはニコニコしながら言った。
「今度ベッドを買うときはもう少し大きめのを買ってね?わたしが転げ落ちたら一大事でしょ?」
「ああ…それはまあ…」
そうだな、と一瞬思ったものの、常にシモーヌを壁際に寝かせているんだからその心配はない、かな。
「逆に僕が蹴り飛ばされたり…したら、もっと一大事だなあ」
「誰にっ?わたし、そんなに寝相悪い?」
可愛い顔でむくれるシモーヌを見ていると、本当に飽きないな。
色んな表情で僕を満足させてくれる彼女は、やっぱり優秀な被写体だと思う。
「あの店のオニオングラタンスープ、美味しかったわね」
ベッドに並んで入りながら、シモーヌは言った。僕はうんと相槌を打つ。
「体も温まったしね。その後ずいぶん長く外で過ごしたからすっかり冷えたけれど大丈夫かい?風邪なんてひかないようにしないと」
「兄さんもね。あったかーい」
と囁きながらぴったり寄り添ってくるのは、昔と全然変わらないところだ。
「あのね…」
シモーヌが話題を変えた。
「やっぱりわたし、アラン兄さんの連絡先が知りたいの。パパのことも含めて、手紙を書きたい。それから…何か編んで贈りたいな」
「そうだね……アラン兄さんもきっと喜んでくれるよ」
これまでは向こうが遠慮してきて、機会もなかった。ヘンリー卿に知られる危険を少しでも避けようとくれていた。
僕ら兄妹にとっては、とても優しかったアラン兄さん。
あの時……あの冬の日、道を外させなくて本当に良かったと思う。彼の手を新しい血で染めさせなかったことに改めて安心感を覚えていた。
「……兄さん?」
寝ちゃったの?とシモーヌが小声で聞いてくる。
僕は少し疲れていたせいもあったけれど、目を閉じてぼんやりとしていた。
パチッ。
そのうちにナイトスタンドのスイッチを切る音がした。シモーヌが切ってくれたんだな…と思い、僕はウトウトと眠りに落ちかけ──
「……」
少しの間があり、シモーヌが更に寄り添ってきた。暗闇の中、僕の顔をそっと指で探し当てている。何だろうと思って口を開きかけたその瞬間──
(……⁉)
しっとりとした温かなシモーヌの唇が、僕の唇にゆっくりと重なった。
思わぬことに僕は固まってしまう。
おやすみのキスなら額か頬にする筈だ。指で顔を触っているんだし、場所を間違えたというわけではないと思う。
さすがにシモーヌとも唇へのキスはしたことがなかった。
……じゃあ何で、今…?
「……」
息を呑む僕の横で、何も無かったようにシモーヌは眠りについたようだ。
急に静かになった寝室で、僕の鼓動だけがドクドクと激しく高鳴っていく気がしていた。




