第7章
時計の針が18時を回る頃、僕らは夕食を摂りに再び外へ出た。
何が食べたいかを訊いてみると、シモーヌは温かいものが良いと答える。
日が傾くにつれ、気温も下がってくる。ニットだけでは冷えるから、僕は薄手のジャケットと、シモーヌは千鳥格子の大判のショールを羽織って出た。
今日買ったブローチはショールを留めるのにも役立っていた。
「何がいいかな?シチューは昨日ママンが作ってくれたし…」
僕が独り言のように呟くと、シモーヌに「兄さんは?」と訊かれた。
「僕は何でもいいよ。君に合わせる」
「…兄さんはいっつもそうね。わたしを優先してばかりで、自分の好みやしたいことを後回しにしてしまうの」
まるでそれがいけないと言いたげな、少し不満そうな言い方だった。
「そりゃあ、僕が一番大事にしている妹を優先するのは当然じゃないか」
「……それは…嬉しいけど、じゃあ兄さんの食べたいものは?したいことは一体何?」
「えっ…?」
「わたしにも言えないの?どうして?わたしに遠慮してほしくない」
急にどうしたのだろう?僕は何も返せなくなった。
今までもずっとそうだった。けれど彼女は特に何も言わず、わがままを聞いてくれてありがとうと笑っていた。
僕のほうも決して我慢していたわけではない。我を張るほど食べ物に拘る気がなかっただけだ。したいことだって、自分なりに選択してきたつもりだ。だからカメラも好きになったし、仕事にもしている。
「兄さんの優しさだとは思うわ。でも“何でもいい”なんて答えは嫌なの。兄さんが本当に食べたい物を答えてほしいの」
「シモーヌ?…もしかして怒ってる?」
顔を覗き込んで訊くと、シモーヌは目を伏せて首を横に振る。
「怒ってなんていないもん。ただ、ちゃんと意思表示してほしいって思っただけよ。兄さんの欲しいもの、知りたいって思ったらいけない?」
「……僕の…欲しいもの──」
食べたいものではなく、欲しいもの……
そう言われて、僕は唇を軽く噛みしめた。幼い頃はやんちゃで、好奇心旺盛でいろんなことを知りたがっていた僕も、大人になったらいつの間にか冒険をすることを忘れてしまっていた。穏やかに、波風を立たせないよう気を遣って、まるで風のようにフワフワ漂って……
──あなたは風──
ふいに記憶の底から響いてきた声。
──あなたの眼は、空に似ている──
……エミール…あなたは、風のよう…
ずっと昔、恋をした少女の声。
未だにあの頃の夢を見る。
10年も経つのに、僕はまだ彼女を忘れることができないでいる。
(サヴィーヌ──)
会ったばかりの彼女にも訊かれたな。
『あんたの欲しいものって何?』
その時は“何にも揺るがない勇気”と答えたはずだ。
本気でそう思っていたから。
家族を守るために、強くなりたい。勇気と強さを携えて闘えるように、自分に自信をつけたかった。
今はもう闘う必要はない。
何故なら……ヘンリー卿はもう…
「…さん?兄さん?どうしたの?」
シモーヌの声にハッと我に返る。
「ごめん、ちょっと考えてた」
「何を?」
「……食べたい物のこと、だよ」
曖昧に笑ってみせ、僕は続ける。
温かいもの、ちょうど良いパリ名物があるじゃないか。
地元だからとあまり口にしなかったけれど、少し冷えてきたこの時期ならちょうど良さそうだ。
「オニオングラタンスープ、それにビーフパイ。あとはチキンのクリーム煮って言えば何処の店かわかる?」
シモーヌにそう問うと、思い出したような顔になる。
「エッフェル塔近くの、あの店ね?」
「そう。あのスープが今無性に食べたいんだ。そこで構わないかい?」
「行きたい!もうお腹ペコペコなんだもの」
ニッコリ笑うシモーヌ。
良かった…やっと笑ってくれた。
さっきまでの問い詰めるような話し方も、寂しそうな表情も消えている。
僕は安心して、シモーヌの手を取ってしっかりと握った。
「そうと決まれば、善は急げだ。エッフェル塔直下まで地下鉄で行こう」
「うん」
すっかりいつものシモーヌに戻っている。握り返してくる手がとても温かかった。
その会話は、直後、僕らの関係に少しだけ陰を落としかけた。
欲しいものは何か?
したいことは何か?
きちんと意思表示をしなければ……
話さずに誤魔化すことで、誰かを傷つけてしまう。決して嘘をついているわけでなくとも。
いや……嘘をつくとしたら、おそらくは自分自身に対してなのだ。
そして僕は、まだ自分の本当の思いに気付けていなかった……
店に着いたのは19時少し前。
そろそろハイシーズンも終わる頃だから空いてきたかな?とヤマを張ってきたんだけど…そうでもなかった。
まあエッフェル塔に近いんだし、仕方ないなと苦笑する。
フランスの夕食時間には少し早めということもあって、観光客は多かったけれど、席にはあまり待たずに座れた。
オニオンスープグラタンは体が温まるし、ビーフパイはボリューム感があって2人で分けてちょうど良い。チキンのクリーム煮はトマトの酸味も効いていてとてもクリーミーで美味しかった。
ゆっくり話しながら食事をしたかったけれど、後から後から客が入ってきて、そのうちに相席で全部の席を埋めるようになってしまった。
「そろそろ出ようか」
僕はシモーヌに声をかけ、盛況ぶりを目ではなく耳で聞き取っていた彼女も小さく頷いてくれた。
店を出ると少し風が出てきたように感じた。少し先にエッフェル塔のイルミネーションが見えて、どの店のテラス席にもスマートフォンを構えて写真を撮っている客で溢れていた。
遠目とはいえ毎日のように見ている僕からしたら、ただの鉄塔なのになと思う。
シモーヌの手を引きながら、僕は彼女に話しかける。
「僕がエッフェル塔を入れずに写真を撮るのは知ってる?」
「ええ。兄さんの撮ったパリの写真には、名物の塔が入った物は無いってママンから聞いたわ」
「何故だかわかるかい?」
「……」
小首を傾げるシモーヌ。
僕はクスッと笑い、歩きながら話を続けた。
「エッフェル塔はシンボルとして強烈すぎるんだ。凱旋門やルーブル美術館、ノートルダムもそうだったけど、いつ行っても観光客が溢れている。人の頭が景色を遮ってしまって、上手く撮れないんだよ。だから避けるようになった」
「でも、それなら遠くから写したら?」
「そこまでして入れたい被写体でもないかな。パリにはもっとたくさんの素敵な場所があるってことを知らせたいからね。だから“敢えて”入れないのさ」
「素敵な場所?」
「そう。何気ない通りに出来た小さなカフェ、花屋、アクセサリーショップ…人の活気が集まる駅にだって魅力はたくさんあるんだ。エッフェル塔に拘らずとも、撮るべき場所はあるってことだよ」
例えば、と僕はセーヌ川にかかる石造りの橋についての話をする。
「雨の日の、あの橋とかも。しっとりと濡れた石造りの素朴な橋には歴史も感じる。夜になればあんな感じで外灯が灯って、濡れた石がキラキラ輝く…僕はそういうさりげない美しさも、パリの魅力として撮りたいんだ」
シモーヌは黙って聞いていた。そうね、と相槌を打ってから微笑む。
「そういうのって、撮る人の温度を感じるっていうか…とても温かみがあると思うわ。多くの人が派手なものや目につきやすい目立つものばかりを選ぶのに、兄さんは何気ない日常を撮ろうとする。わたしは兄さんの写真が大好きよ」
ニッコリと笑ってみせ、シモーヌは手を軽く握り返してきた。
「ありがとう。シモーヌが僕の写真の、一番のファンだからね。そう言ってもらうと大いに励みになるよ」
僕は常日頃から思っていることを伝える。僕も少しだけ握る指に力をこめた。
のんびり話しながら歩いてきたら、いつの間にか目当ての広場に来ていた。
エッフェル塔のライトアップも綺麗に見え、温かみのある外灯の色も優しく目に映る。小さな広場に着いた僕らは、すっかり日が落ちたことに気付いた。
「寒くない?シモーヌ」
「大丈夫。このショール、すごく暖かいのよ」
羽織り直してシモーヌは微笑む。
「これね、ママンからもらったものなの。若い頃に使っていたんだって。でも今住んでる郊外ではそんなにオシャレして出かけるところもないし、あまり使わないからって言って…」
「ママンから…そうなのか」
僕はなんとなく嬉しかった。そうやって母さんから受け継ぐものがあるなんて、ちょっと良い話だから。
「……」
手頃なベンチに並んで腰を下ろし、僕はヘンリー卿の話をどう切り出すべきかを考えあぐねていた。
言わなきゃいけないことはわかっていても、いったいどこから話せば良いのだろう?
シモーヌが最後に父親に会ったのはもう12年も前のことだ。手紙や誕生日のプレゼントすら届いてはいない。それは当然だ。僕らは彼から『逃げた』のだから。
逃げるのを手伝ってくれたアラン兄さんにだけは連絡を取っていた。アラン兄さんも実父のヘンリー卿の執拗で強引なやりかたを快く思っていなかったので、僕ら3人をパリへ逃がすためにかなり骨を折ってくれたはずだ。
けれどそんな兄さんですらシモーヌとは連絡を直接やりとりしていない。常に僕だけに連絡が来ていた。僕がモロッコの戦場へ行っていた半年近くは、何の連絡も取っていなかった。
そんな状況で、シモーヌがヘンリー卿に対してどんな感情を抱いていたか、僕に理解できるだろうか?
昨夜のこともそうだ。母さんの話を聞いて、自分が知らないセザールという男性とは幸せそうにしていたようなのに、父であるヘンリー卿には愛情も無く、口論も絶えず……ピリピリと神経を尖らせて過ごす日々だったのだ。
ヘンリー卿が憎むべき人間だとしても、シモーヌにとってはたった1人の父親なのだ。厳格だったヘンリー卿も、娘であるシモーヌが幼い頃は本当に愛情を注いでいた。それは母さんも僕も見てきたから知っている。だからこそ複雑な思いを抱えてしまっているのだ。
相手が心の底から憎ければ、もっと楽だったはずなのに……
「兄さん、あのね…」
ふいにシモーヌが口を切った。
「昨日の続きを話してもいい?」
「続き?」
ドキッとする。どの話のことだろう?見合いの件、僕の父であるセザールという男性の件、もしかしてそれに関してヘンリー卿の……
思い当たることがたくさんあって、僕は言葉に詰まった。
「…どの話?」
「パパのこと」
……やっぱりそうか。
一晩で解消できる悩みなんかでは決してない。
「…うん、何?」
声を抑えて訊く。
悩んだら僕に言ってと伝えたのだから、きちんと聞いてあげなくては。
シモーヌは少しだけうつむき、
「今はどうしてるのか、知ってる?」
「……」
「元気なのか、どうなのかもわからないし……でもママンの話を聞いてて、やっぱりパパは間違っていたんだと思ったの。いくらママンを愛していたからって…自分には奥さんがいるのに無理に連れてくるなんて、やっぱりいけないことだったのよ」
辛そうに目を細めるシモーヌ。
僕はなんと言うべきかわからず、黙って聞いていた。
「ちょっと厳しい顔もしていたけれど、わたしにはいつも優しいパパだった。お庭のお花を摘んでいくと、いつも笑って喜んでくれた。アイリーン、お前は良い子だよ、って髪を撫でてくれて。怒ったりすることは一度も無かったわ」
「……」
「わたしももう子供じゃないから、パパとママンの間に何があったかぐらい理解できるわ。わたしがパパのわがままだけで生まれた私生児だったことも解る。それは昨日も兄さんに言ったとおり、パパがママンをイギリスに連れてこなければ起こらなかったことよね?」
「…シモーヌ、それは──」
口を挟もうとする僕を遮るように、シモーヌは顔を上げて僕の方を見た。
そのエメラルドグリーンの瞳が潤んで、涙が零れかけていた…
──わたしが生まれてこなければ──
昨日はそんなふうに思わないでくれと伝えたけれど、彼女の中では消化し切れていなかったのだろう。
「だから……今ならきちんと話ができると思うの。パパと…ねえ、兄さん?アラン兄さんとは連絡を取ってるのよね?それならわたしがパパに会いたがっていると伝えることもできるわよね?」
「……」
どうすれば……
僕は緊張でかすかに震え出すのを感じていた。
だけど、辛いのはシモーヌの方なんだ。
そして、彼女を支えるのは事情を知っている僕しかいない。
──言うんだ。
「…伝えたくても…もう無理なんだ…」
僕の言葉にシモーヌはハッとなる。目を大きく見開いて、少し顔を近づけた。ぼんやりとしか見えない僕の顔をよく見ようと必死になって……
言わなくては。
彼女が泣いたとしても、これだけは伝えなければ。
黙っていたことで裏切られたと思い、彼女が怒ったとしても。
「…ヘンリー卿は……今年の1月に亡くなった。だから…もう彼と話なんてできないんだよ、シモーヌ……」
僕は彼女をしっかり見つめ、そう言い切った。




