第6章
歩き回ったせいかシモーヌが少し疲れた様子だったので、ドレス探しは後にして、セーヌ川のほとりで休憩することにした。
川沿いの緑地歩道のベンチに腰を下ろし、緩やかなセーヌの流れを見つめる。
「これだけは変わらないな…」
僕の呟きに、シモーヌは不思議そうに見る。
「パリにもどんどん新しい建物が出来たり、ノートルダムのように昔からのものが火事で消失したり…変化がとても多いんだ。けれど、この川の流れだけはずっと変わらない」
「そうね。私にはよく見えないけれど…水の音がとても穏やかなのがわかるわ。優しくて、大きくて……」
まるで兄さんみたい、と呟いた。
「さすがに川と似ているなんて言われたことはないなあ。シモーヌは詩人だね。ロマンチストだ」
少し照れながら僕がそう言うと、彼女は微笑んだ。
そしてさっき買ったばかりのオルゴールを袋から出して、ベンチの上でゼンマイを巻いた。
『愛の夢』の美しい旋律が流れ出すと、うっとりしたようにバレリーナ人形の動きを見つめる。そうとう気に入ったようだ。
僕もそんな彼女を眺めて、こんなに優しいひとときは久しぶりだなと感じていた。ここのところ、ずっと仕事に追われていたせいで、余裕というものが少々足りなくなっていたように思う。
そうだ、と僕は思い出して、袋からもう一つの贈り物を出した。
「チェコはガラス製のビーズで有名なんだ。僕はまだ東欧には行けてないけれど、プラハ城などの古い建築物にも興味があるから…いつか行ってみたい」
「そうなのね。きっと荘厳な建物なんでしょうね……もし行けたら、またお話をたくさん聞かせてね?」
「勿論だよ、シモーヌ」
花の形をしているブローチを、そっとシモーヌのカーディガンの胸元に着けてあげた。シモーヌは指で装飾部分に触れながら微笑む。
「とっても可愛い。他にもネックレスやイヤリングもあったわね。ああいう場所にいると、つい時間を忘れてしまうわ」
彼女の嬉しそうな顔を見ている僕も、今日は口角が上がりっぱなしだ。
「ねえ、兄さん?」
ふいにシモーヌに呼ばれた。僕が顔を向けると、一瞬だけ真顔に戻って言う。
「あのね…」
真剣な表情だ。言うべきか、迷っているようにも見えてしまう。
何だろう…?と言葉を待つ僕に、シモーヌが小さく言った。
「……花瓶、買うの忘れてるでしょ?」
「──あっ」
しまった、と息を呑む。
アンティークショップで見繕うか、って数時間前に話していたことをすっかり忘れていた。
シモーヌはくすくす笑っている。僕は顔を片手で覆ってみせながら、
「そんなに可笑しいかい?君へのプレゼントで頭がいっぱいになってたんだから仕方ないだろ?」
「本当にひとつのことに夢中になっちゃうのね。わたしがついててあげなきゃ心配だなって思っちゃうわ」
また言われた!
ため息をつき、僕は降参を認める。
…そうだよ、僕が心配なら他の誰かと結婚なんかしたらダメだ。
なんて、冗談でも言ってしまいそうになる。
例の見合い話は母さんもおしまいだと言ったし、シモーヌが市内に来ている間に本家にきちんと詫びの電話を入れると言ってくれた。
それでも、あまりに急すぎる話で僕が焦ったのは紛れもない事実だ。
『ずっと傍にいて、ついててくれ』なんて至極真面目に言われてしまった日には、彼女だってどう応えればよいか困ってしまうかもしれない。
少しでも困らせたくない。少しでも傷つけたくない。
もっと、もっと彼女の笑顔が見たい。
幸せそうな笑顔を振りまいていてほしいから……ここは道化になるしかない。
「だけど君だって、今の今まで忘れていたって顔だよ、シモーヌ?」
白旗を揚げつつも、僕は反論する。
「もう、兄さんの意地悪」
シモーヌはとっくに演奏が終わっていたオルゴールを紙袋に片付けながら口をほんの少し尖らせた。
「わたしのほうが先に思い出したんだもの。わたしの勝ちよ?」
「そういうものかな…じゃあお嬢さん、負けた僕はどうすれば?」
「うーん…そうね…」
指を口元に当てながら、彼女は茶目っ気たっぷりに言った。
「もう2日ぐらい、わたしの滞在を延ばしてほしいな。やっぱり3日じゃ足りないもの。話したいこと、たくさんあるのよ」
「なんだ、そんなことか…」
少し安心した。もっと無理難題を吹っかけられるかと思ったよ……
「承知しました、可愛いお姫様。助手のアンリにはもう少し暇を取らせます」
僕は心の中で「アンリ、すまん!」と手を合わせながら言った。くすくす笑ってシモーヌが続ける。
「よろしい。母上にも後でちゃんと連絡すること。わたしが、じゃなくて兄さんのワガママだからって、ね?」
「はあ…わかってます…」
1週間にはギリギリならないけれど、結局母さんが言ったとおりになりそうだ。
しかも僕が言い出したことにされている。まったく、抜け目がないなあ。
「そろそろ花瓶とドレスを探しに行きませんか?お姫様。のんびりしていると、すぐにディナーの時間になってしまいますからね」
僕は立ち上がり、彼女の手を取って自分の腕に触れさせた。
「さあ、エスコート役はお任せ下さい」
「うふふ、兄さんったらお上手ね」
立ち上がったシモーヌは僕の腕に腕を絡めてきた。ニコニコした顔で満足そうに言う。
「素敵なドレスをお願いね?」
「仰せの通りに」
僕らはくすくす笑いあいながら連れ立って歩き始めた。とりあえずは花瓶を見に、さっきのアンティークショップへ、だ。
綺麗なクリスタルの花瓶を買った後、知り合いのイザベルが店長をつとめているアパレルショップへ向かった。
シモーヌには内緒にしていたけれど、こちらにはあらかじめ話を通しておいたので、何着かの良さげな物を見繕ってくれていた。メールで写真を送ってくれて、僕もどんな服かは知っていたつもりだ。
「これは胸元が広めのタイプでビジューがたくさんついています。こちらは…」
イザベルがシモーヌにひとつひとつ丁寧に説明しているのを聞いた後、試着の間に僕は他にも良い物が無いかと店内をまわっていた。
上品な感じのする綺麗めのカジュアルドレスをという注文だったので、見繕ってもらったものはシフォンやオーガンジー、レースやビジューの着いたドレスばかりだった。それは確かに良いが、シモーヌの好みはもう少し可愛らしい…例えばフリルやリボンがついた服だろう。どうせならそっちも見立ててあげたかった。
「兄さん、どう?」
しばらくして試着室から呼ばれた僕は、いそいそとそちらへ向かう。
「……!」
カーテンが開き、現れたシモーヌに一瞬声を失った。
グレーがかった淡いブルーの細かなプリーツドレス──肩から袖にかけて繊細なシアーレースで覆われ、白い花柄の刺繍が浮かび上がるように配置されている。袖口にはほぼ黒に近い濃茶色のレーストリムが施され、甘さの中に凛とした印象を添えていた。
手にはゴールドチェーンのついたブラウンのキルティングバッグを持ち、全体的にはクラシカルでロマンティックな雰囲気を醸し出している。
写真で見たものよりもはるかに精巧な作りだ。彼女が身に着けるとこんなにも変わるのかと──
「…似合わない、かな?」
何も言えずに見つめている僕を見上げ、シモーヌは心配そうに訊いてきた。
「い、いや…逆だよ!とても素敵で…驚いたんだ。このシアーレースの部分なんて素晴らしすぎる。花柄の刺繍も良いし、君のためにあつらえたのかと思ったぐらいだ。よく似合ってる」
僕が感想を述べると、シモーヌはホッとしたように笑う。
「何着かあったけど、これが一番好みかなあって。でも兄さんもそう思ってくれたなら良かった」
イザベルが持ってきたのはあと2-3着だけど、目を通してみると確かに今着ているドレスが一番シモーヌに合いそうなデザインだった。他のはややエレガント過ぎたり、晩餐会にでも行くのかと思うほど上品だった。高級ホテルやレストランに行くわけでもないし、普段使いもできるようなものが良かったので、シモーヌの“直感”は正しかったようだ。
「そのキルティングのバッグも素敵だね。ドレスによく合うし、それも欲しいな……あとは…靴だな」
今日履いてるのはブラウンのローヒールで、キルティングのバッグに近い色だから合うといえば合う。けれど、せっかくの撮影だ。ましてや展示会に出品するつもりならいっそう手が抜けない。
「えっ、いくらなんでもそんなに買ってもらうの悪いわ」
シモーヌはそう言ったが、僕は頑として引かなかった。イザベルに靴も見繕ってもらうことにし、さっきまで見ていた白いシフォン生地の服もシモーヌに手に取ってもらった。オフショルダーで胸元にレイヤードフリルがついていて、ふわりと広がるフレアータイプの膝丈ワンピースだ。
「素敵な服……これも着ていい?」
「うん、合わせてごらん。きっと似合うと思う」
2着ともこれからの時期には少し寒いかもしれないけれど、質の良い物は来年でも再来年でも持つ。上にガウンコートでも羽織ればさらに着こなしは広がるだろう。
そして思ったとおり、2着めもシモーヌにとても似合った。
イザベルが靴を合わせてくれて、僕を振り返って笑う。
「さすがエミールさん、お目が高いわ。色彩のセンスもお持ちだし、彼女の好みもよくご存じね」
「あなたほどじゃないよ、イザベル。僕はただ…彼女の良いところを引き出してあげるために、何が合うのかを考えるのが好きなんだ。でも、このブルーグレーのドレスは本当に素敵だね。髪をアップにしたらもっと素敵に見えるはず」
僕の言葉にイザベルは満足そうに笑んだ。選んでくれたのはキラキラしたラメ入りの透明なハイヒールだ。履き慣れないものだからあまり高いヒールにすると危ない。そう考えてくれて、5センチぐらいのヒールだった。
「こちらのお色ならオフショルダーの服でも合います。妹さんはとても可愛らしい方ですもの。今日のお二人、コーデも揃えてまるで恋人同士みたいですよ」
それを聞いたシモーヌは恥ずかしそうに口元を緩める。自分で言うより他人に言われるのは照れてしまうんだろう。
リップサービスだとわかっていても、僕もなんとなくこそばゆい感じがした。
「色々ありがとう、イザベル。とても助かったよ」
「いいえ、これぐらい当然ですわ。エミールさんにはいつもお世話になってますもの。今年もそろそろ本格的に冬物が入ってくるし、またポスターや広告の写真をお願いしたいわ」
「こちらこそ、是非。予定がわかったら連絡を頼むよ」
会計を終え、イザベルと短い会話をした僕は微笑んでそう言った。
オープン以来、この店の販促ポスターはずっと僕が撮った写真を使ってくれている。いわゆるお得意様だ。
フリーだと色々回って常にアンテナを張っていないといけない。それに従って知人の数も増えていく。お世話になったり、お世話をしたり。けっこう大変だ。
着替え終わったシモーヌは壁際の椅子に座って、ぼんやりと待っていた。僕は買った商品をバイトの子が包んでくれる間に、イザベルに訊いてみた。
「このベスト、シモーヌが編んでくれたんだ。どう?」
「あら、やっぱり?手編みで素敵な色だと思っていたんです。妹さん、編み物がお上手なのね」
「うん…凄いよね。編み物って根気もいるし、ひとつ間違えたのに気付いたら、せっかく編んだ部分を解いてまた編み直しだから。僕も母から教わって、子供の頃は色々作ったりしたけれど…今はもう無理かな」
バイトの子からショッパーを受け取り、僕は礼を言ってシモーヌの所へ近寄った。
「お待たせ。疲れたかい?」
「少しだけ。喉が渇いちゃったかな」
「そうだね。荷物を置きに一度家に戻ろうか。温かい紅茶を淹れてあげるよ」
イザベルに手を振り、僕らはその店を後にした。
いつの間にか、街は少しずつ夕暮れに近づいていた。
遠くに見えるエッフェル塔はそろそろイルミネーションが点灯される頃だ。
その近くにオススメの橋とちょっとした広場があって、セーヌ川とエッフェル塔を一望できるスポットになっている。
初めて行った時から、シモーヌはそこがお気に入りだった。パリへ来るとアンティークショップとアパレルショップ、そしてその広場は周回コースになっていた。
自宅について一息入れたら、そこへも行きたがるだろうなと思ってシモーヌに訊いてみると、
「うん。久しぶりだから行きたいな」
「それなら、何か羽織って行こうか。夜になると冷えるから」
アパートメントへ戻り、まずは買った物を部屋に運び入れる。花瓶にイエローキューピッドを生けて、それから紅茶を淹れる用意をして、お湯を沸かした。
シモーヌは寝室に行き、買ったばかりのドレスを丁寧にハンガーにかけ、触ったりしながらうっとりとしている。
そんな姿は、可愛らしい女の子のままだ。昔から変わらずにいてくれる。
しばらくするとオルゴールの音が聞こえてきた。シモーヌはよほど気に入ったんだろう。また聞いてる…と思って、僕はふふっと笑う。
柔らかなオルゴールの音と、優しい紅茶の香りが漂う部屋。
普段は僕一人だから味気ないけれど、今日は違う。そのことがなんだかとても嬉しかった。
「紅茶を淹れたよ、シモーヌ。おいで」
呼びかけると、すぐに彼女が顔を出した。
「ありがとう、兄さん。良い香りね」
「冷めないうちにどうぞ、お姫様」
ミルクとシュガーを並べて置く。席に着いたシモーヌは小さく息をついた。
「今日は色々あったから、疲れただろう?僕も運転でけっこう疲れたから、今晩は外で食べようと思うんだけど?」
「そうね、とんぼ帰りじゃ兄さんが疲れてしまうわね。やっぱり延期して…あ、ママンに連絡は?」
「ああ、そうだった。今のうちに電話しておこう」
スマートフォンを手にして、僕は郊外の家に電話をかけた。執事のリナンが出て、すぐに母さんに繋いでくれた。
『ルイもシモーヌも元気かしら?パリを楽しんでいる?』
スピーカーから流れてくる、朗らかな母さんの声。僕とシモーヌはふふっと笑いあいながら、
「とっても楽しいわ!ママンも来れば良かったのに。来月の展示会の時には絶対一緒に来るって約束よ?」
『勿論よ。ところでルイ?何かあったの?』
「ああ、無事に着いたよって……」
それから、と続ける。
「シモーヌをモデルにして撮影したいから、もう2日ばかり予定を延長してもいいかな?」
『あら、やっぱりそうなるのね』
くすくす笑う母さん。すっかりお見通しだったようだ。
『良いわよ。シモーヌ、ゆっくり楽しんでいらっしゃい。ルイに綺麗に撮ってもらいなさいね』
「ええ、ありがとうママン!」
シモーヌは元気な声でそう答えた。
短い通話を終え、僕は紅茶を飲んでようやく落ち着いた気がした。
「後は…そうだな、食料品の買い出しにも行かなきゃならないし、あまり遠くの店には行けないか。例の広場にも行くわけだから」
「大変じゃない?買い出しは明日の朝にでも行きましょうよ。ベーカリーにも行くんだし、その足で買い物したほうが」
「そうかい?君が良ければ、そうしようかな。マーケットの荷物を持って広場に行くのはちょっとね」
苦笑いして、僕は時計を見遣った。
17時近い。まだまだ暗くはないけれど、慌てることもないなと思ってのんびりすることに決めた。
玄関ドアから入ってすぐに事務所があり、パソコンやカメラ機材が所狭しと並んでいる。窓から遠いところにある小部屋は暗室として使用している。
廊下の先に、今いるミニキッチン付きのダイニング、寝室。ユニットバス付き。私室と呼べるスペースは決して広くはない。
ハリーやイリヤなどの知り合いが来た時は事務所のソファで話すことが多いから、僕のプライベートなスペースに入るのはシモーヌぐらいだ。
寝室にはメインベッドと簡易ベッドにもなるマットレスソファを置き、クローゼットと低い棚ぐらいでほとんど家具は無い。本や衣装小物などの私物も事務所に置く方がすぐに手に取れるからそちらへ。
こうして見るとシンプルで、ミニマリスト的な生活だなと感じる。
事務所にシモーヌが持ってきたイエローキューピッドの花瓶を置いて、少しだけ雰囲気が柔らかくなったかなというぐらいの、殺風景さだったからね…
本当はシモーヌをホテルなどに泊まらせた方が安心なんだけれど、目が不自由だと1人にはできないし、多少狭くても自宅の方が僕の目がすぐに届くからいつもこうしてしまう。
そんなことをぼんやり考えていると、シモーヌが僕を呼んだ。
「明日は兄さんの手料理が食べたいな」
「え?僕の料理…それだと昨日のママンのメニューとほぼ同じ物になるけれど、いいのかい?」
「特製アラビアータと、野菜たっぷりのキッシュよね?他には何か開発した?」
「この前、ガレットを作ってみたよ。カフェの物を参考にしたんだけれど、まあまあの出来だった」
「ふぅん…ガレットもいろいろアレンジできて味が楽しめるわよね」
「そうだよ。明日作ってあげようか?」
「うん!楽しみ──」
と言いかけたシモーヌが、急に顔に手を添えて照れる。チラッと僕を見て恥ずかしそうな様子で、
「嫌だわ、お腹鳴っちゃった。…聞こえた?」
食べ物の話をしているからだな、と思い、僕は笑った。
「君のお腹の音か。あんまり大きな音だから、てっきり地底に住むドラゴンのうなり声かと思った」
「ええっ?もう!そんなに大きなわけないでしょっ」
ハハハッと笑う僕。怒っているけれど全然怖くなくて、むしろ可愛いシモーヌ。
……なんて優しい時間なんだろう。
ずっとこうしていられれば、とも思う。
緩やかな時間の流れが、とても心地良くて……ずっと浸っていたかった。




