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第4章

 入浴後にリビングのソファでカフェオレを楽しんでいた僕だったけれど、唐突に母さんの口から出た言葉にギクッとさせられてしまった。

 それは母さんがシモーヌの髪をドライヤーで乾かしてあげている時だった。

 そんな光景は子供の頃からずっと見てきている。シモーヌは母さんの手を煩わせたくないのか、思春期の頃に『自分でするから』と言って少し反発していたこともある。だけど母さんは娘の世話がしたくてたまらないらしく、いつでもニコニコと接していた。

 肩先で揺れるふんわりとしたミディアムブロンド。シモーヌの髪は柔らかくてずっと触れていたくなる。僕だってそう思うのだから、母さんはもっとそうだろう。

 僕の向かい側のソファに並んで座り、シモーヌの髪を丁寧に乾かしながら母さんは言った。

「ねえ、シモーヌ?あなたはお見合いなんてしてみたいかしら?」

「えっ?」

 シモーヌが驚くのと同時に、傍らで聞いていた僕も思わずカフェオレを吹き出しそうになってしまった。

(…ママン⁉…な、何を急に…)

 夕食前にリナンと話した本家からの電話の件が脳裏に浮かんでくる。

 リナンと母さんのところで留めておく話だと思っていたのに…!

 焦って僕が見つめると、母さんはいつもと変わらない微笑みを浮かべながら話を続ける。

「もしもの話よ?ちょっと年の離れた男の人があなたとお見合いしたとして、あなたを気に入ってくれたとしたら…どう思うかしら?」

「……」

 やっぱり、あの電話はシモーヌへの縁談…?

 僕はカップを持つ手が震えるのに気づき、テーブルに一旦置いた。

 シモーヌはすぐには返事をしなかった。母さんが冗談を言っているのではないんだと考えたのか、口元に手を当ててしばらく黙っている。

「わたし、お見合いなんて嫌」

 やっと出てきた言葉は、こうだった。

「結婚なんてまだ早いわ。自分のことだってきちんとできないのに。誰かに好かれてもその人に何もお返しできないじゃない。お世話になりっぱなしなんて嫌よ」

 目のことだけじゃなく、色々なことを鑑みているんだと思う。

 けれど、僕にはその言葉がとても重々しく感じられた。


 ──世話になりっぱなしなんて嫌──


 生まれた時から、ファーディナンド家で蝶よ花よと大事に育てられたシモーヌ。

 好奇心旺盛な僕が野っ原や小川で遊ぼうとすると、自分もと言ってついてこようとした。その度にメイドたちに止められて大泣きしていたシモーヌ。

 メイドたちが必死で止めたのは、女の子だからというだけでなく、ファーディナンド家にとっては初めての娘だから、という理由もあったと思う。

『わたしも兄様のようにいろんな遊びをしたいの!いろんなことを知りたいの!』

 家の中や、せいぜい庭で花を楽しむ程度ではシモーヌは我慢できなかったんだろう。

 シモーヌは僕に似てとても好奇心が旺盛な子供だったから、常に自分で自分のことをしたがった。

 だからこそ、この郊外に引っ越してきてからの生活は母さんだけでなく、シモーヌにとっても新鮮だったはずだ。花や野菜を育てたり、簡単な料理を教えてもらったり、得意な編み物を近所の子供たちに教えたり……

 そこには、自立しようとしているシモーヌがいたように思う。

 それなのに見合いをして、本家の親族と結婚したならたくさんのメイドや使用人に囲まれ、再びお嬢様のような生活に戻されてしまうに違いない。

 母さんはどんな相手かを詳しく言わなかったけれど、懸命な判断だ。それを伝えたらシモーヌはもっと拒否反応を示したはずだ。

「…ママン、どうしてそんなことを訊くの?」

 心配そうな表情でシモーヌは言う。

 僕は言葉を挟むことができず、母さんがどう答えるのかをじっと見守るしか出来ずにいた。

 母さんはいつもの笑顔より、さらに温かな笑みを浮かべる。

「あなたが自分で幸せな道を選んでほしいと思っているからよ。きちんと意思表示のできる娘に育ってくれて嬉しいわ」

「ママン…」

 安心した様子の母さんとシモーヌを見つめていた僕も、安堵感に包まれた。

 母さんはシモーヌの意思を尊重したかったのだと思う。

 何度かの電話の件を渋っていたのも、なかなか切り出せずにいたせいだろう。

 僕が帰ってきた時なら穏やかに話せると考えてくれたのかもしれない。

 優しい母さん。そして優しい妹。

 僕は思わず胸が熱くなる。

 僕のいる時に話してくれて、良かった。

 安心して、またカフェオレを飲もうとカップに手を伸ばしかけた僕の耳に、シモーヌの声が聞こえてきた。

「わたし、誰かと結婚するぐらいならずっと兄さんと一緒にいたいわ」

「えっ」

 つい声が出てしまった僕の方を、シモーヌはニッコリと笑いながら見た。

 既に髪を乾かし終え、母さんは使い終わったドライヤーをバスルームへと持って行こうとしていたが、シモーヌの言葉にふと足を止める。

「だって昔から決めてたもの。誰とも結婚なんてしない。もしも結婚するなら兄さんと、って」

「いや…それは僕みたいな性格が穏やかな、色んなことを教えてくれる人って意味だと…」

 焦る僕に、母さんはたまらず吹き出した。

「もう、どこまで仲が良いのかしらね、あなたたちって」

「マ、ママン⁉そこは否定するところだよ⁉」

「否定?どうして?」

「だ、だって…」

 キョトンとしているシモーヌを余所に、僕は母さんに続きを言おうと口を開きかける。

 だけど、母さんの方が早かった。

「ルイ、あなたのそういうところね、昔のセザールにそっくりよ」

「…えっ?」

「普段は生真面目で落ち着いていたセザールも、私が告白した時にはそうとう慌てていたの。結婚したいのはあなたです、って伝えた時の顔、今のルイに良く似ているわ。ふふ」

 …父さんと……?

 そんな話、初めて聞いた気がする。

 一目惚れしたのは母さんの方だけど、まさか母さんからプロポーズしていたなんて思ってもみなかった。

「シモーヌは私にそっくりね。そういうの、逆プロポーズって言うのよね?ルイもますますしっかりしなきゃね」

 母さんは楽しげにそう言ってバスルームへ言ってしまった。

 残された僕はシモーヌと2人になり、なんとなく気まずい気になってきた。

 結婚の話もだけれど、シモーヌにとっては僕の父セザールは写真か、思い出話しか聞いたことのない人だ。

 自分の父親ヘンリー卿と母さんは決して相思相愛だったわけではないから、少し複雑に感じたのだろうか…

「そろそろ寝ようか…」

 僕はちらっと壁の時計を見遣って言った。

「ほら、明日は市内へ行くんだから。シモーヌも支度はできてるかい?何か手伝うことは?」

「荷物もまとめてあるし、特にすることはないわ」

「じゃあ早く眠ろう。夕飯が美味しすぎて食べ過ぎたみたいだ。眠くなってきてる」

 僕は立ち上がり、カップを手にキッチンへ向かった。シモーヌはそのままソファに座り込んでいる。淡いピンクのパジャマ姿で、昔からそれは変わらない。白とピンクが似合う、可愛らしい女の子。

「ママンにお休みのキスをしてくる」

 そう言ってシモーヌもやっと立ち上がった。僕は「うん」と呟いて、その姿を見送る。カップを洗い終え、さて僕も母さんに…と廊下に向かったところ、母さんが戻ってきた。

「ママン、さっきの話だけど」

 僕は見合いの件を母さんに直接聞こうと切り出した。

「本当にシモーヌを?」

「そうなのよ。突然だったからビックリしちゃって…リナンにさわりだけ相談したけれど、結局はシモーヌの気持ちが大事だから。ルイが戻った時なら、あの子も感情が揺らがずに落ち着いて話せると思って待っていたの」

「…やっぱりそうか。あまりに急だから僕もビックリしたよ」

 息をつき、僕が言うと母さんは微笑んだ。

「私への縁談だったなら、どう?」

「ええっ⁉」

 驚いて声を上げる僕がよほどおかしかったようで、母さんはクスクス笑う。

「いや、あの…母さんさえ良ければ僕は再婚してもいいと思ってるよ?」

「冗談よ。もう結婚なんて懲り懲り。あなたやシモーヌが幸せになるまで静かにここで見守るわ。セザールもそう望んでいると思うの」

 優しい微笑みを浮かべる母さん。

 そんな母さんに寄り添い、白い頬に僕はお休みのキスをした。

「ありがとう、ママン。だけど、本当に好きな人ができたとしたら教えて?その時は、僕もシモーヌも精一杯祝福するからね」

 おやすみ、と言い残し、僕は笑顔で手を振る母さんを後に2階の自室へと向かった。


 真っ暗な部屋に入り、電気のスイッチを入れた途端、僕は心臓が口から飛びだすんじゃないかと思った。

「……⁉」

 壁に向かってシモーヌが佇んでいたからだ。

 鍵は開けていたし、入っても構わないと言ってはあるけれど…電気ぐらい点けてほしかった……

「…シモーヌ…?どうかしたかい?」

 シモーヌは壁の写真を前に、ぼんやりとした顔をしていた。父さんと母さん、それに僕が写っている写真だ。


 僕がここに住んでいた頃から、この写真を良く見ていたのは知っている。ヘンリー卿の所では隠していたし、引っ越しの際に市内の生家から持ち出したものだ。ここへ来て初めてこの写真に気付いた彼女はまじまじと見つめ、驚いたように言った。

『これがエミール兄様のパパ?』

 その頃は8歳で、なんとなく見えていたはずだ。それでも金髪の優しそうな笑顔の男性、としか映らなかっただろう。

 ヘンリー卿も金髪だけれど、父さんとは顔つきがまるで違った。野心の強いブルーの瞳で睨むように見る彼は、ライバル意識も強く、嫉妬心も激しかった。友人だったはずの父さんとの間にもわだかまりが起こり、特に母さんと結婚した頃からはものすごい敵意を剥き出しにしていたと母さんから聞いたことがある。


「……」

 シモーヌは何も答えず、目を伏せる。

 僕は心配になった。さっきの母さんの話を思い出したからだ。僕が初めて聞いたのなら、シモーヌだって初めて聞いた話だったかもしれない。

 そっと歩み寄って、シモーヌの肩に触れる。小さく震えていた。

「ママン、この頃は幸せだったのね…」

 シモーヌは弱々しい声で言う。

「もしも…わたしのパパと会わなければ、イギリスに連れてこられなければ、わたしは生まれなかった。そうしたらもっと幸せになれたかも…わたしが生まれてこなければ…もっと……」

 辛そうな表情になる彼女を見つめ、僕はしばし呆然となってしまう。

 彼女がそんなことを口にしたのは初めてだった。

 母さんはシモーヌが生まれてからは、娘を生き甲斐として愛情を注いでいたはず。それまで頻繁に起こっていたヘンリー卿との言い争いが極端に減ったのもシモーヌのためだ。娘にそんな姿は見せたくないと我慢していたんだろう。

 シモーヌも成長してから母さんの詳しい事情を聞いたと言っていたけれど、これまで特に問題なかった。

 だけど、今は自分の“存在意義”について悩んでいる……

「聞いて、シモーヌ。君が生まれる前のことは、君にも…僕にだって、どうにも出来ないことなんだよ」

 震えるシモーヌをそっと抱きしめ、僕は囁くように言う。

「ママンは今、とても幸せなんだ。毎日生き生きしてるのを君だって知ってるだろう?過去はどうであれ、今は僕らの幸せを一心に願ってくれる優しいママンだ…」

「……」

 ──あなたが自分で幸せな道を選んでほしいと思っているから──

 母さんの言った言葉が思い起こされる。

 それができなかった母さん。拒んでもヘンリー卿の元へ連れて行かれてしまった自分のように、他人に流されてはいけないと伝えたかったのかもしれない。

 そしてそんな母さんの気持ちを、シモーヌは敏感に感じ取ったんだろう。

「いいかい、シモーヌ?」

 僕は体を少し離して、シモーヌと向き合う。

「君が生まれてなかったら、今ここでの幸せは無かったんだ。ママンも僕も、君をとても愛してる。これ以上の幸せがあったかどうかなんて誰にもわからないんだから、何も気にしなくていい」

「……でも…」

 シモーヌの目から大粒の涙が零れ落ちる。それを指で拭ってあげながら、僕は言葉を続ける。

「このことは母さんには言わないであげて。もし辛くなったら、いつでも僕に言って?電話でもいいし、呼んでくれたらすぐに帰ってくる。僕は君のためなら何でもするから」

「……兄さん…」

 口を両手で覆ってしゃくり上げる彼女。

 誰にも言わないだけで、シモーヌはずっと1人で考えていたんだ。

 ヘンリー卿が僕らに酷いことをしたといっても、シモーヌには実の父であることは変わりがないのだから。

 小さな胸をずっと痛めていたんだと思うと、やるせなくなる。僕はもう一度シモーヌを抱きしめ、柔らかな巻き毛をそっと撫でた。

「ごめん、シモーヌ。僕はずっと気付かなかった。君が一番辛いのは、少し考えればすぐに解ることなのに」

「……」

「ごめん……」

 繰り返して謝る僕に、シモーヌは首を横に振った。

「…そしてシモーヌ、生まれてきてくれてありがとう。僕もママンも心からそう思ってる。だからお願いだ、生まれてこなければなんて思わないで……そんなふうに言わないでくれ」

 抱きしめ、支えてる僕の方も体が震えてきてしまう。シモーヌに辛い思いをさせたくないといつも思っていたのに、彼女は陰でたった1人で……

「ごめんなさい、兄さん」

 僕の背中にまわした手で、そっと撫でながらシモーヌが言った。

「…生まれてきたからこそ、ママンと兄さんに出会えたんだものね。こんなに優しい人たちに……」

「…シモーヌ…」

「もう言わないわ。でも、もし悩んだ時にはまっ先に兄さんに話すわね。そういう存在がいるなんて、わたし、幸せ者よね?大好きよ、兄さん」

 涙ぐんでいるものの、シモーヌはやっといつものように微笑んでくれた。

 僕はホッとした。彼女の支えになれているんだと思うと、本当に勇気が湧いてくる。これからも妹を守っていきたい……心からそう思った。

 安心した僕はシモーヌから手を離してベッドに歩み寄る。そのまま部屋から出ようとしないシモーヌを振り返って、肩越しに話しかける。

「一緒に寝るかい?自分の部屋に戻ってもいいけれど?」

「……一緒がいい」

 ぽつんとそう呟くシモーヌ。そんなところは小さな頃から変わっていない。ここでも僕が帰ってきた時は、同じベッドで寝ると言って甘えてくる。

 もう良い年齢なのだし、とも思う。だけど、普段寂しい思いをさせていると考えるとどうしても「一緒に寝るかい?」と聞いてしまうのだ。

「そうだね、一緒がいいね」

 僕が笑って言うと、シモーヌは少し照れたように笑う。

 セミダブルのベッドに2人で入る。シモーヌに掛け布団を掛けてあげた後、サイドボードの上のリモコンで照明をそっと落とす。おやすみのキスをした後、僕は口を切った。

「…明日は朝ご飯を食べて、のんびり出発しよう。ママンには2-3日のお泊まり許可をもらってあるんだ。久しぶりのパリを満喫させてあげたいから…」

 静かな部屋に僕の囁くような声だけが響く。シモーヌは僕に寄り添うようにし、こくんと頷いた。


 甘えん坊で可愛い妹。優しくて、控えめで…純真で……

 誰よりも大切な、僕の宝物のような妹。

 ──だからこそ、傷つけたくない。


(ヘンリー卿のことを、きちんと話そう。話さなければダメなんだ)

 いつ話そうかとずっと揺らいでいた。

 けれど、シモーヌにこれ以上嘘はつけない。つきたくない。

 辛いなら、寂しいのなら、僕が傍にいてあげる。

 いつまでだって。この先もずっと。

 それは、僕のたったひとつの願いでもあるから……


 やがて聞こえてきたシモーヌの小さな寝息を耳にしながら、僕はゆっくりと眠りに落ちていった。


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