第3章
夕食ができるまでの間、僕は執事のリナンと話をすることにした。
母さんとシモーヌはキッチンにいるし、当分はそこから出てこられないだろう。
リナンの執務室へ行き、本家からの電話の内容を聞いた。
「…母さんとシモーヌが、本家の昼食会に誘われている?」
内容は少し、いや、かなり意外なものだった。
さっき母さんが困惑したような言い方をしたので、もっと面倒な内容かと思いきや…
でも面倒には変わりがない。
本家との付き合いなんて、僕の祖父母の兄や姉、つまり僕にとっては大伯父や大大伯母の葬儀ぐらいしかなくなっている。従兄弟が結婚したのも僕らが英国に行っていた頃だったから、参列すらできずにいた。
それに母さんは末っ子だから、親戚の中では僕やシモーヌは一番年下にあたる。むしろ従兄弟の子供が僕より上の年齢だ。直系の家族とそうそう会う機会なんてないと思っていた。
それなのに母さんとシモーヌをわざわざ昼食会に招くというのは、いったい…
怪訝な顔つきの僕がずっと黙り込んでいるので、リナンも言葉を続けるべきか迷ったような顔をしていた。
「…何が目的だと思う?心当たりはあるかい?」
遠回しな言い方は苦手だ。僕は単刀直入に尋ねた。リナンは息をつき、
「実は、奥さまの従兄弟の孫にあたるセルジュ様がご結婚相手をお捜しとの噂が流れてきております。お年は45歳で、ダンヴェール伯爵家の御長男にして相続継承権をお持ちの方でいらっしゃいます」
「結婚相手?45歳だって?」
僕は呆れてしまった。これは面倒どころじゃなく、クレイジーだ。
歳の近い母さんですら会ったことも写真で顔も見たことすらない、遠縁の男じゃないか。
「まさか母さんを再婚させるつもりかな。今更…?」
「その線も充分に考えられます。ですがわざわざアントワープまで呼ぶというのは、シモーヌ様まで同席する理由にはなりにくいかと」
「確かにそうだね…いずれ紹介することになるのなら、母さんと話がまとまった後で改めて会う約束を取り付けるだろうし……なら、目的はシモーヌの方?」
初めに電話を受けた母さんが未だに困惑しているのは、おそらくそちらが正解だろう。自分への話ならその気はないと突っぱねてしまえばすむ。だけど娘への縁談は無碍には断りにくい。
「……」
いいや、それでもおかしすぎる。
二回りも上の男にシモーヌを紹介するなんて馬鹿げてる。大仰に肩をすくめてみせ、僕は言った。
「今のシモーヌは相手の顔だってはっきり見えないんだ。遠縁だかはとこだか知らないけれど、そんな所へ嫁がせるなんて僕は断固反対だね」
「……」
「だいたい、どうしてシモーヌを?親戚の中にだって妙齢のお嬢さんがいるだろうに」
軽く苛ついている僕に気付いたようで、リナンは遠慮がちに口を開いた。
「おそらくは、シモーヌ様はお目が不自由ですので、この先に良きご縁があるかわからないとお考えなのではないかと…奥様が迷っていらっしゃるのもそういう理由では──」
「リナン!」
その言葉を否定するように、僕は少し声を荒げた。
「実際の目的がわからない以上、それはお前の推測でしかないはずだ。今の言葉を取り消してくれ」
「失礼いたしました、ルイ様」
リナンはすぐに謝罪をした。
僕だって、リナンの言いたいことぐらいわかっている。だけど、それを口に出すほど諦めてはいない。
否定はできない。確かに今の状態ではシモーヌは行動範囲も限られる上、恋をする相手に巡り会う確率は同世代の女の子に比べたら低いはずだ。
だけど……この先のことなんて誰にもわからないじゃないか。
母さんや僕にだって、そして何よりもシモーヌ本人にすら!
深呼吸をして、少しずつ冷静に戻る。
「ごめん。大きな声を出して悪かった」
「いえ…ルイ様のお気持ちもわかりますので」
「……僕はただ、シモーヌに後悔しない人生を送ってほしいんだ。世界中の眼科医を捜してでも、僕は彼女の目を治したい。その希望を端っから削ってしまい、安易な道に逃げたりしてほしくない」
「そうでございますね…」
リナンは息をつき、頷いてくれた。
この話はおそらくまだシモーヌには伝わっていないはずだ。リナンと母さんのところで止まっている。できればこのままそうしてあげてほしい。
ただでさえ、シモーヌには隠していることがあるのだから。
(……ヘンリー卿の死をまだ伝えていないうちに、見合いなんてことになれば)
僕は髪をかき上げ、どうするべきかと考えあぐねる。
「とりあえず事情は解ったよ。ありがとう、リナン。今後も母さんたちのフォローを頼むよ」
「承知いたしました、ルイ様」
うやうやしく頭を下げるリナンの部屋を後にし、一度リビングへ向かった。
「兄さん?」
置きっぱなしにしていた鞄を取りに行ったところ、すぐにシモーヌが反応した。
キッチンから顔を出してくる彼女に、笑いかけて言う。
「よくわかるね。シモーヌは耳がいいな」
廊下に通じるドアは開いているから、開閉音ではないはずだ。
「あら、すぐにわかるわ。でも足音じゃないの。微かだけど匂いがするから」
「匂い?」
意表を突かれ、僕は自分の手や袖を少し嗅いでみる。
「…僕、そんなに臭うかい?」
「うふふ、最近はそうでもないけれど、現像液の匂いがほんのちょっぴり…ね?」
「ああ、そういうことか」
僕は苦笑する。
最近はデジタル化で、撮影した写真もPCに取り込んでしまうから関係ないけれど、特別にフィルムを使う時は今でも暗室で現像液を使用する。といっても現像液はアルカリ性で匂いはしない。
シモーヌが言っているのは停止液と定着液の匂いだろう。こっちは酢酸を使うのでお酢の匂いがする。
「もうすぐ夕飯ができるから待っててね、って母さんが言ってたわ」
「わかった。一度、荷物を置きに2階へ行くよ」
他愛ない会話を交わし、僕は鞄を手にして2階の自室へ向かった。
フリーになって市内に個人事務所を構えてから、もうすぐ2年になる。
だけど、母さんはまだ僕の部屋をそのままで残しておいてくれていた。
ドアを開けると、しばらくぶりだというのにそんな気がしなかった。
「……」
何も変わっていない。荷物はほとんど残していない。数冊の本や壁に掛けられた数枚の写真が僕を優しく迎えてくれる。ベッドに、そしてオーク製のデスクと椅子、本棚。いつも母さんが綺麗に掃除しておいてくれるから埃っぽくもない。
荷物をデスクに置いて、僕は窓に歩み寄った。西向きの僕の部屋は窓から沈む夕陽が眺められて、とても気に入っていた。
そっと窓を開けると、なんともいえない懐かしい空気が感じられた。
緩やかな丘陵地帯。小川に、森に…自然豊かな郊外の風景が僕はとても好きだ。
15歳で英国からパリに戻ってきて、初めは市内にある僕の生家に住んでいたけれど、すぐにここへ引っ越した。
父さんと住んでいたような大きなお屋敷ではないけれど、執事や召使いも数人いる暮らしだ。
庭も広く、広い花壇や家庭菜園ができる畑もある。母さんやシモーヌは毎日のようにそこで野菜を育てたり、花の種を植えて生育を楽しみにしている。
箱入り娘でお嬢様だったはずの母さんが汗だくになって庭仕事をしている姿なんて、アルフォンス曾祖父だって想像だにしなかったろうね。
「……」
ふと、さっきのリナンの話を思い出した。シモーヌではなく、母さんのことだ。直接聞いたわけじゃないからわからないけれど、今更再婚なんてするつもりはないと思う。
母さんは、今の生活が充分幸せだと言っているから……
僕は壁の写真を振り返った。
飾ってあるのは、亡き父さん・セザールと若かりし母さん、そしてその2人に優しく抱きしめられている3歳ぐらいの僕の写真だった。
父さんは22歳で結婚したけれど、当時はまだ大学院生だったそうだ。
真面目で頭の良い、読書好きな父さん。僕にも図鑑を初めとして、毎晩のように様々な絵本を読み聞かせてくれて、とても優しい声だったのを思い出す。
今でも母さんは美人なのだし、10代の頃はそれはもう色々な地位の男性から交際や結婚の申し込みが絶えず、大変だったと聞いた。そんな母さんが唯一惹かれたのが、ハンサムだけど口数がそれほど多くない父さんだったらしい。中高一貫校の図書館でいつも本ばかり読んでいる寡黙な3つ年上の先輩に、母さんは一目で恋に落ちてしまったとか。
洒落たエピソードだと思うだろう?でも母さんは伯爵家、父さんは子爵のカーン家出身。爵位に差があることで、特にアルフォンスには猛反対されたそうだ。
だけど父さんは諦めず、長い時間を掛けて懇々とアルフォンスを説得したという。寡黙であってもきちんと自分を持っていた父さん。まだ学生だけれど母さんを幸せにする気持ちは誰にも負けないのだ──と。
写真の優しそうな表情の父さんからはそんな強い熱意は感じられないから、相当の勇気を持って説得したんだなと解る。
父さんは結婚して5年後、僕が4歳の時に交通事故で亡くなった。たった数年しか続かなかった結婚生活。それだけでも辛いだろうに、母さんはその後すぐにヘンリー卿に連れ去られて英国に行った。
それから母さんは再婚なんて言葉はまるで出さず、シモーヌとの生活を本当に生き甲斐にしているように見える。
自分が大変な人生だったから、娘には落ち着いた人生を送ってほしいと思っているはず。それは愛情的にも、金銭的にも…ね。
「……今夜はシチューかな…」
それから野菜のたくさん入ったキッシュ、母さん特製のアラビアータ……
窓枠にもたれた僕の鼻に、キッチンからの夕食の香りが届き始めた。
ずっと変わらない物なんて、どこにもない。それは解っている。
だけど……僕が心の拠り所としているこの状況だけは、変わってほしくない。
ワガママだと言われようが、僕はもう、大切な人が目の前から消えるのは嫌なんだ……
「兄さん?」
ふいに下から呼ぶ声にビクッとなる。
庭にシモーヌが出ていた。アラビアータに載せるバジルを摘みに出たようで、小さな籠にたくさん載せていた。
「何を見ていたの?」
「郊外の景色だよ。事務所からはこんな豊かな自然なんて見えないからね。雑踏と車の列ばかりさ」
僕の言葉にシモーヌは少し微笑む。
「わたしはちょっと羨ましいかな。ここも楽しいけれど、退屈な時もあるのよ」
「…だろうね。変化が少ない場所だから」
「だから明日、市内に行けるのがとても楽しみだったわ。兄さんのおかげね、ありがとう」
「……礼なんて──」
苦笑を浮かべて答えようとする僕に、シモーヌは首を振った。
「ううん、明日のことだけじゃないわ。兄さんがいつも優しい兄さんでいてくれて、わたしは本当に幸せなの」
「シモーヌ…?」
沈みゆく夕陽に映える彼女の横顔に、なんとなく憂いが見えた気がした。僕は返す言葉を失い、黙ってしまう。
だけどすぐに、シモーヌはいつものように満面の笑顔で僕を見上げた。
「いつまでも、わたしの大好きな優しい兄さんでいてね。約束よ?」
「……うん」
頷くことしかできなかった。
ついさっきまで母さんやシモーヌが結婚してどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかと心配していたのに、シモーヌにそんなふうに言われたら…
(僕も変わるわけにはいかないじゃないか…)
ふふっと笑う。
急に安心感に包まれる気がした。
「兄さん、ママンがそろそろ降りてきてもいいって言ってるわ。今日は兄さんの好物ばかりのメニューよ」
「もちろん知ってる。匂いで気付くさ」
僕はそう言って、窓をそっと閉めた。
階下に向かおうと部屋を出がけに、もう一度父さんの写真を眺める。
(……父さん、ずっと見守っててくれるよね?母さんと、そしてあなたとは血の繋がりはないけれど…僕の大切な妹のシモーヌを)
頼むよ、と小さく声に出して笑いかけた。写真の中の父さんが笑顔で頷いてくれたように見えた。
夕食のメニューは僕が思ったとおりのものだった。
母さんに教わって僕も同じメニューを自宅で作ったりもするけれど、やっぱりどこか違う。
その違いは何だろう?愛情かな?
それとも皆で食卓を囲んで楽しく話しながら食事する雰囲気かな…
「ルイが来てくれると、あっと言う間に食べられちゃうわね。もっと作らなきゃ足りないかしら?」
僕が美味しそうに完食すると、母さんがニコニコ笑って言った。
「小さい頃は少ししか食べない上に偏食気味で、食べさせるの大変だったのよ」
「えっ?そうだったかなあ…」
急に昔のことを振られ、僕は戸惑った。
確かに小食だったのは覚えているけれど…そんなに好き嫌いがあったかな?
「シモーヌもそうだったわ。いつも残してしまって、私の料理はそんなに美味しくないのかしらって自信を無くしちゃうぐらいに」
茶目っ気たっぷりに言う母さんに、シモーヌは笑いかけた。
「だって、ママンはたくさん作りすぎるんだもの。わたしなりに頑張って食べてたのよ?」
「そうだね、ママンは腕を振るい過ぎちゃうから。だけど、本当に美味しいよ。ママンの料理は、僕が楽しみにしていることのひとつ」
僕がそう言うと、母さんとシモーヌはよく似た笑顔を向けてくる。
「他にはどんなことが楽しみなの?」
「郊外の景色、我が家の懐かしくて温かい雰囲気、庭に漂う花の香り……それから、一番はシモーヌに話を聞いてもらうこと、かな」
「…兄さん…」
シモーヌが照れたように小首を傾げて笑った。
「わたしも、兄さんのお話をたくさん聞けることが楽しみなのよ。色々な場所に行って、色々な人々に会って…綺麗な風景…花や、山、小川、海……話を聞くだけで情景が頭に浮かぶの」
微笑んでそう言う彼女のエメラルドグリーンの瞳が、純粋な透明感溢れる色で本当に綺麗だった。
そうまで言われると、これからも、もっともっと話をしたくなるってものだよね。僕は頷き、そう伝えることにした。
「いつだってたくさん聞かせてあげるよ。シモーヌのためなら、いつでも飛んで会いに来るからね」
「うふふ、ありがとう…兄さん」
2人でくすくす笑い合う。
そんな姿を見ていた母さんは、
「あなたたちは本当に仲の良い兄妹ねえ。いつまでもそうしていてほしいわ」
なんて笑顔で言ってきた。
「そうだよ、だってシモーヌは僕の大切な宝物なんだから。ずっと大事にして、ずっと守り抜くから」
僕は得意げに返す。
ハリーにはいつも重度のシスコンだと茶化される。
だけど、過去に2度ほどパリの自宅で偶然ハリーとシモーヌが会った時、僕の気持ちが理解できたようなことを言われた。
『俺には妹がいねえから解らねえけど…お前さんがシモーヌをすごく大事にしたいって気持ちはなんとなく解った。あの娘はそう思わせる雰囲気があるな』
そう言ったハリーが、シモーヌが結婚でもしたら…の発言をしたのは、やっぱり依存していると思われたのかな…
「ルイ?先にお風呂入っていらっしゃいな。私たちは片付けをしてるから」
気付くと母さんが立ち上がって食器を片付け始めていた。シモーヌも立ち上がり、すぐには片付けはせずに僕の後ろにまわりこんだかと思うと──
「……ありがとう、兄さん。わたしも世界で一番兄さんが大好きよ。誰よりも大切な存在だわ」
背後から椅子の背ごとハグをしてきた。
そして耳元に軽いキスを落とす。
「……僕の方こそ、ありがとう」
お返しに優しいキスを柔らかな白い頬にすると、シモーヌは本当に嬉しそうに、幸せそうな笑顔を見せてくれた。
シモーヌはもちろんだけど、母さんも大切だ。
母さんが望むなら、本当にいつまでもこうして仲良くしていたい。
少なくとも、僕はそうするつもりだ。
優しく温かい、大事な人たちをずっとずっと守りぬく。
アバディーンからパリに戻った15の頃からずっと考えていたことだ。
僕らを執拗に追いかけようとしていたヘンリー卿はもうこの世にいないし、追跡の危険はなくなったけれど……
僕は絶対に、母さんとシモーヌを悲しませたりしない。
万が一にも彼女たちに危険が迫った時には、僕は再び武器を手にすることも厭わない。
“死神”と呼ばれた砂漠での過去が甦るような、そんなことにはならないことを祈るばかりだけれどね。




