第2章
そして週末、僕は早朝から愛車のシトロエン2CVチャールストンを駆って郊外へ向かった。
黄色と黒のツートンカラーで、中古で買ってからもう7、8年にはなる。だけど全然現役で、問題は無い。
赤や深緑も気に入ったけど、派手な黄色にした理由はシモーヌのためだ。
彼女はぼんやりとわかるとはいえ、赤や緑のような色が判別しにくい。なので間違えにくいハッキリとした黄色と黒のツートンを選んだ。
乗っていれば自然と愛着もわくし、シモーヌも可愛い車だと言ってくれている。
僕はカメラ以外のことはそれほど執着がないから、何かあるときはシモーヌを優先に考えてしまう。それは決して悪いことではないと思っていた。
だけどある時、ハリーに言われてハッとしたことがあった。
『お前さん、シモーヌが結婚でもしたら、一体どうなっちまうんだろうなあ?』
──僕が妹に依存してるとでも言いたいのかい?──
その時は突拍子もないことを言われ、ついカッとなって言い返したけれど…
冷静になってみると、これまでの人生でシモーヌのことを考えなかった時なんて、外人部隊に参加して砂漠の戦場で過ごしていた半年間だけだ。
生き伸びるのに必死だった時間以外は、アバディーン時代も、パリに戻ってからも、ほとんど自分よりシモーヌを優先して考えている。
(…結婚、か)
通い慣れた道を走りながら、なんとなく考えた。
いずれはそんな日も来るかもしれない。
兄としては、良い相手に巡り会えたのなら、ぜひとも幸せになって欲しいと思う。
半分は本心だ。
だけど…半分は強がり、かな。
きっと僕は大事なものを失ったようになり、塞ぎ込んでしまうだろう。体の半身を失うと言ってもいいぐらいのショックで、暫くはいつものカフェオレも苦みを強く感じるようになると思う。
シモーヌももう20歳だし、いつまでも小さい頃のようにベタベタしていてはいけないのかな…
そんなことを考えながらハンドルを握っていると、やがて実家が見えてきた。
とても安心して、大きく息を漏らした。
母と妹が暮らす大切な場所だ。優しく、暖かい家。
事務的なパリの自宅に比べたら、なんて温もりのある場所なんだと感じる。
小さくホーンを鳴らすと、やがて庭から誰かがひょっこりと顔を出した。
「兄さん!」
黄色い車を視認したらしいシモーヌが、嬉しそうに手を振る。
シンプルなブラウスにデニム、ガーデニング用のエプロン姿だった。庭の花壇の手入れでもしていたんだろう。
そんな姿を見て、僕はまた一段と大きな安堵の息をついた。
帰ってきたんだ、僕の帰りを待つ人たちの家に──と。
と同時に、思った。先ほどの考えを全部否定するわけじゃないけれど。
依存だっていいじゃないか。
僕らは大事な家族だもの。母さんもシモーヌも、絶対に失いたくない大切な家族。僕が心の底から自然な気持ちで接することができる、唯一の存在。
不安なんて“その日”が来た時に考えればいいこと。
今は──家族に甘えていたいんだ。
「ルイ、お帰りなさい」
玄関に入ると、母さんが待ち兼ねていたという様子で出迎えてくれた。白いフリルのエプロン姿。若い頃も綺麗だったけれど、年齢を重ねても老いを感じさせない美しさだ。
いつもは執事のリナンが真っ先に出てくるけれど、と不思議に思って母さんに訊いてみると少し困ったような顔になる。
「“本家”から電話が来ていて、その対応をしているのよ」
とだけ教えてくれた。
だけどすぐに表情を変え、明るい笑顔になった。
「ずっと仕事で忙しかったから疲れたでしょう?今日はゆっくりしてね」
「うん、ありがとうママン」
そう言って、家に入った直後から漂う芳しい香りに僕は笑った。
「タルト・オ・フリュレ、だね?」
「そうよ。あなたが帰ってくるんなら是非食べさせたいと思っていたの」
母さんが眩しいぐらいの笑顔で言った。
家に帰るといつも僕の大好物を作ってくれる。子供の頃からずっとだ。それを食べるととても優しくて、温かい気持ちになれる。
「あら、シモーヌは?あなたを出迎えたでしょう、一緒じゃないの?」
誰よりも最初に出迎えてくれた妹がついてきていないことに気づき、母さんが訊いてきた。
「誘ったんだけどね、作業の途中だったらしくてまた庭に戻ったよ」
肩をすくめてみせる僕に、母さんは微笑む。
「ちょうどシオンとコスモス、それにビデンスが満開よ。紅茶の用意をしておくから、ルイも見ていらっしゃいな」
「わかった」
ずっと変わらず“ルイ”と呼んでくれる母さんに、僕は笑いかけて庭へと行くことにした。
ルイというのは僕のフランスでの本名だ。
だけど、僕にはもうひとつ、英名がある。それが“エミール”だ。
“ルイ”は、今は亡き父さんと母さんが付けてくれた名前。
“エミール”は、義父のヘンリー・ファーディナンド卿がつけた名前。
義理の父とはいうものの、実際にはヘンリー卿と母さんは婚姻関係は無かった。
ヘンリー卿にはエレインという奥さんがいたので、重婚になってしまうからだ。
ただ英国で暮らしやすいようにと、ヘンリー卿がミドルネームに付けようとしたのが“エミール”だった。
僕は改名をするつもりはないし、母さんもそれを認める気はないと頑なに拒んでくれたので、フランスに戻ってからもスムーズに“ルイ”に戻ったつもりだった。
ただ……シモーヌは違った。
彼女が英国で生まれた時から、僕は“エミール”だったから。
パリに戻ってからもシモーヌが僕を“エミール”と呼ぶのは仕方のないことだった。
母さんが英国時代のことを思い出したくないだろうから、その名前で呼んじゃダメだよ、と何度言い聞かせても無理だった。幼かったシモーヌにとっては、僕はずっと“エミール兄様”なのだから。
今では母さんも許容してくれているし、仕事でも通称として使用しているというわけ。
そして、シモーヌにも“アイリーン”という英名がつけられている。
ここでは誰もその名前で呼ばないけれど、ヘンリー卿によってミドルネームにつけられたままだった。
数奇な運命によって、僕ら家族はお互いを呼ぶ名前すら違うことになっていた。
シモーヌに至っては、義理のアラン兄さんと僕は未だに違う名前で呼んでいるくらいだ。
アラン兄さんからは時々メールが来て、
─アイリーンは元気か?─
といつも尋ねられる。
昨冬、ヘンリー卿やその他のことで一時的にトラブルはあったけれど、僕らの間にはもうわだかまりも何も無い。子供の頃からアラン兄さんの優しさは変わらないし、僕もそんなアラン兄さんを本当の兄のように慕い続けている。
「シモーヌ?」
庭へ入り込むと、花壇の一角で道具の片付けをしている彼女を見つけた。
僕の声に気付いた彼女は、ニッコリと笑いかけてくる。
その手や頬が土だらけなのを見て、僕は苦笑いした。
「すごく汚れているよ?可愛い顔が台無しじゃないか」
頬の土をそっと指で払ってあげると、シモーヌは茶目っ気たっぷりの笑顔で言った。
「うふふ、だって兄さんに早く見せてあげたかったんだもの。“イエローキューピッド”、今年も綺麗に咲いたのよ」
ビデンスの一種で、黄色いコスモスのような花を10本ほどの束にしたものを見せながら言う。
シモーヌも僕も、この花が大好きだった。黄色い花弁の先端だけが白く染まっている可愛らしい花だ。
「もうそんな時期か。この花が咲くと秋だなって感じるよ。とても綺麗だ」
「でしょう?後で包んでおくから、パリに連れて帰ってあげてね」
「ありがとう。きっと事務所が華やかになるよ」
僕はシャベルやじょうろなどの道具の片付けを手伝いながら、言った。
「僕がやっておくから、早く着替えておいで。母さんの絶品タルトと紅茶が待っているよ」
「本当に?それじゃあ、お願いしようかな。ありがとう、兄さんも早く来てね」
「うん、すぐに行くよ」
シモーヌが手を振って玄関に向かっていくのを見送って、僕は周りに咲き乱れているイエローキューピッドを眺めた。
風に揺れる細い茎。とても柔らかな印象を受ける花だ。秋からうっすらと霜が下りるくらいの時期まで長く楽しめる。
もう市内でも朝晩は冷え込むようになっているから、郊外のここらへんはもっと昼夜の寒暖差が大きいかもしれない。
冬になれば──と考えて、ふいに思い出した。
先日の電話、フィンランドへの撮影取材の件だ。まだ詳しいことは不明だけれど、母さんやシモーヌにも伝えるべきだろうか、と。
「……」
少し考えて、まだ早いかなと思い直す。
展示会が開催されたら2人ともパリに見に来てくれるというし、その時でも遅くはない。
僕は道具を庭の隅にある木製の棚にしまい込み、家へと戻っていった。
「ルイ様、お帰りなさいませ」
ダイニングに入ろうとしたところ、執事のリナンに声をかけられた。
「さきほどは電話中で、お出迎えできず申し訳ありませんでした。改めまして、失礼をお詫びしたく存じます」
詫びるリナンを手で制して、僕は首を振った。
「いいよ、本家からの大事な用件だったんだろう?」
本家というのはベルギー・アントワープ郊外にある、ダンヴェール伯爵家の直系親族が住む家のことだ。
母方の曾祖父であるアルフォンス・ダンヴェール伯爵は元々ベルギー出身で、今なお直系子孫が家を継いでいる。
祖父母世代にパリに引っ越したから母さんや僕の世代もこっちで暮らしているけれど、本家は未だにアントワープ郊外に広大な土地の権利を有していると聞いた。
財産の多くは貴金属や株式、そしてアルフォンスの描いた絵画だ。
その絵画というものが曲者で、僕の世代まで影響を及ぼしていたのは紛れもない事実。それがあったせいで、ヘンリー卿がしつこく僕らを追いかけまわしていたも同然なのだから。
「ルイ?」
キッチンから母さんの声が聞こえる。僕は少し声を落としてリナンに言った。
「電話の内容は後で聞かせてくれるかい?これから母さんの絶品タルトを味わうから行かなきゃ」
「かしこまりました。ではまた後ほど」
リナンは会釈してその場を離れていった。僕もダイニングへ入り、既に切り分けられた母さんお手製のタルトを見て思わず顔がほころんだ。
「いつ見ても美味しそうだね。これが楽しみで帰ってくるんだ」
紅茶を淹れながら母さんが笑う。
「今夜も腕によりをかけて美味しい夕食を作るから待っていてね」
先に来ていたシモーヌは切り分けたタルトを丁寧にお皿に移しながら笑う。
「兄さんったら、本当にママンの作るご飯が好きなんだから。普段1人で食べていると味気ないでしょう?」
「そうだね。簡単な物しか作らないし、仕事が煮詰まると食事も忘れてしまうぐらいだよ」
「ちゃんと食べなきゃダメよ?パリのお家に行ったら冷蔵庫チェックしなきゃね」
言いながらシモーヌがお皿を渡してくる。僕は困ったなと呟いてお皿を受け取った。まだまだ子供だと思ってたけど、そういうところは母さんに似てきたかな…
「いただきます」
早速、タルトを一口食べる。
口の中にふんわりと広がる香り。それから魅惑的な甘さがたまらなく美味しい。
「ママン、すごく美味しい。やっぱりママンのタルトは絶品だね!」
手放しで褒めちぎると、母さんは頬に手を当てて嬉しそうに笑った。
シモーヌも美味しそうに食べていて、ようやく家族水入らずの時間を過ごせている実感が湧いた。
「展示会の準備はどう?もうひと月ぐらいかしら…10月だったわね?」
母さんに訊かれ、僕は頷いてみせる。
「順調だよ。写真もほぼ撮り終えて、後は作品選びとパネル化する作業かな」
「そう。ステキな作品が一同に見られるなんて嬉しいわ。シモーヌと一緒に見にいくのが楽しみよ」
微笑んで言う母さんの横で、シモーヌは曖昧に笑った。
微妙な心境だろうと思う。彼女は写真を眺めても、その瞳に映るのはぼんやりとしたものだけ。もちろん本当に楽しみにしてくれているはずだけど、写真の感想などを聞かれてもうまく答えられないに違いないからだ。
「シモーヌ、安心して。来てくれた時には、僕が傍についてひとつずつ説明してあげるから」
展示会は1軒のギャラリーを借りて催行するんだけれど、僕の希望で壁に貼られた写真や撮影者の説明書きのプレートに点字を入れてもらうことにした。
それを聞くと彼女の表情が明るくなり、
「本当?兄さんがエスコートしてくれるなら、わたしにもそれがどんな写真かわかるような気がするわ」
いつものような笑顔に戻ってくれた。
写真は、花のように香りもしないし、手で触ってもただの平面でしかない。だから彼女のような視覚に障害がある人には理解しづらいだろう。そう思い、点字のわかる知り合いに専用の機械で打ってもらい、それをプレートに貼ることにしたのだ。
視覚だけじゃなく、バリアフリー化を目指して段差を無くしたり、車椅子の人でもよく見えるように低めの位置に写真を配置したりという配慮もすることになっていた。そういうことを僕以外にも考えてくれていたカメラマンやスタッフがいたからこそ実現できるものだ。きっと素晴らしい展示会になるだろうなと思う。
一段落した頃に、僕はリビングに置いた荷物の中からある物を出してきた。
「これ、2人に。気に入ってくれると嬉しいな」
母さんには優しい色合いの花柄が描かれたシルクのスカーフ、シモーヌには花の香りのするシャボンと香水のセット。
「あら、柔らかくて素敵な色のスカーフね。ルイは本当にセンスがいいわ」
母さんは袋を開けるとすぐにそう言って、早速襟元にふわっと巻いてみせた。
「ありがとう、ルイ」
立ち上がり、母さんは笑顔で僕の首にキスを落とした。昔から変わらない、優しい感謝のキス。
シモーヌはシャボンの香りを嗅いだり、アトマイザーのハートの形が可愛らしいと喜んでくれた。
「兄さん、ありがとう。このシャボン、とても心が落ちつく香りだわ」
母さんがアトマイザーを持ってシモーヌに軽く吹きかけると、また違う、なんとも芳しい香りが広がった。
「良い香り…」
エメラルドグリーンの瞳を和ませる、笑顔のシモーヌにとても合う香りだった。
「気に入ってもらえて良かった。明日、市内に行ったら可愛い物をたくさん売ってる店に行こう。それから、新しくできたカフェを昨日見かけたんだ。ぜひ一緒に行こう」
僕の話に、シモーヌは丁寧に相槌を打って聞いてくれる。
こんなに可愛らしく、優しい妹がいることに僕は本当に感謝している。
アバディーンのヘンリー卿の屋敷で、シモーヌが生まれるまでは母さんも僕も辛いことが多かったけれど、可愛いシモーヌが生まれてからは寂しさも辛さも半減できた。妹のためならどんな複雑な境遇にも我慢できる。そんなふうに思えたからだ。
今ではそういう思い出として胸の奥にしまいこんでいるつもりだった。
…少なくとも、僕は──。
だけど、妹は彼女なりにずっと考えて、苦しい思いを秘めていたのだと、後から知って胸が痛んだ。




