表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/9

第1章

 

『久しぶりに市内へ行きたいな』

 電話の途中、ぽつんとシモーヌが呟いた言葉。

 しばらく仕事が立て込んでいて、僕は実家に戻れていなかった。

 オフになって家に帰ると、母が温かい手料理を振る舞ってくれ、妹のシモーヌは庭を廻ってニコニコしながら自分で育てた花々を見せてくれる。

 執事のリナンや召使いたちも数人いるけれど、やっぱり女性2人の生活は心配で、僕はできるかぎり実家に足繁く通うことにしていた。

 もう3週間も帰れていない。

 時々こうしてシモーヌに電話をかけて、明るい声を聞くだけの日々になってしまっていた。

 シモーヌも少し寂しかったのだろうか、会話の途切れたところで、ふいに呟きを零したのがとても耳に残った。

「そうだね、しばらく来ていなかったね」

 僕はそう相槌を打ち、少し考える。

「今やってる仕事が今週中には終わるから、週末には帰れるはずだけれど…」

『兄さん、帰ってこれるの?』

「たぶんね。他にもやることは多いんだけど、PC持って帰れば家でもできるものだから」

『そうなのね。ママンもきっと喜ぶわ』

 普段と変わらない跳ねるような明るい声に戻り、僕は少しホッとした。

 シモーヌには哀しい顔は似合わない。

 彼女は目が不自由で、ゆえに行動範囲も狭い。ぼんやりとは見えていても、1人では遠くへ行ったりできない。

 それでもいつも明るく朗らかで、周りを心配させないように気を遣っている。

 そんな妹に、僕はできるかぎりのことをしてあげたかった。

「…来るかい?」

 僕の問いに、シモーヌは少し驚いたような小さな声を上げた。

『えっ…?兄さん、今、なんて?』

「パリに遊びに来るかい?って聞いたんだ。週末、僕が迎えに行くから。ママンを安心させたいから一晩はそっちに泊まるけれど、その後にパリに一緒に戻ろう」

『……いいの?兄さん、行ったり来たりで大変じゃない?』

「シモーヌのためなら、僕は平気だよ」

 優しい声でそう言う。彼女は本当に嬉しかったんだろう、声のトーンが一段階上がったようになった。

『本当に…?嬉しい!ありがとう、兄さん!』

「そんなに喜んでくれて僕も嬉しいよ」

 知らず知らずのうちに僕も笑顔になってしまう。

『パリは何か変わった?新しく何かできたとか、ある?早く行きたいな…すごく楽しみ!』

 嬉しそうな声が続く。僕は時計をちらっと見遣り、もうこんな時間かと気にかけた。

「もう遅いね。金曜の夜にまた電話するよ。僕が帰るまでにどこに行きたいか考えておいて」

『わかったわ、ありがとう兄さん。楽しみにしているわ。お仕事頑張ってね』

「ありがとうシモーヌ。それじゃ、ママンに宜しく。おやすみ」

『おやすみなさい、兄さん』

 通話が終わり、僕は開いたままのPCに目を向けた。

 撮影した写真がずらりと並ぶフォルダを見つめ、最高の一枚を選択する大事な作業の途中だった。

「さあ、のんびりしちゃいられないな。しっかり終わらせて、週末には家に帰らないと」

 独り言を呟いて、僕はふたたび作業に集中することにした。

 シモーヌがパリに来たのは…もう半年以上前かな。

 母さんと2人、電車で来ることも出来るけれど、郊外の自然の中でのんびりしたがる母さんには、パリは少し騒がしくて落ち着かないようだ。

 観光客も多いし、近頃は移民が増えたりして治安もやや悪くなってきている。

 端から見ても美人な母娘が歩き回っていたら、ちょっと心配かな…

 シモーヌはまだ若いから、新しいものやキラキラしたものに惹かれるのは仕方が無い。そう思うと、時々市内へ連れてくるのは彼女の楽しみを増やす意味でもいいかもしれない。

 僕も、そんな楽しそうに振る舞うシモーヌを見たい。いつも僕を心配してくれている、心優しい妹だ。たまには小さな願いを聞き入れてあげたい。



『兄様ぁ…エミール兄様ぁ……』

 遠くから呼ぶ声が聞こえる…

 あれは…妹だ。幼かった頃の……まだアバディーンにいた頃で、“アイリーン”と呼ばれていた。

 僕がアラン兄さんと同じ中等部の寄宿舎へ入ることが決まった時、妹はとても泣きじゃくって寂しがった。

『遠くへ行っちゃうの?もう帰ってこないの?』

 涙でぐちゃぐちゃになった顔が可愛くて、僕は思わず妹を抱きしめた。

「週末には絶対帰るよ。だから、良い子にしてて?ママンを困らせたりしないようにね」

『兄様……わたし、良い子にしてる。ずっとずっと良い子にして待ってるから、わたしのこと忘れないでね』

「忘れるもんか。こんなに僕を思ってくれる優しい妹を…」

 妹はまだ6歳ぐらいだった。寂しい思いをさせてしまう罪悪感はあったけれど、僕らは義父のファーディナンド卿の命じたことを守らなければならない。遠くの中高一貫式進学校への入学も命令の1つだった。血の繋がらない僕を遠ざけようとでもいうのか、それともアラン兄さんのように“頭の良い子”に育てようとしているのだろうか。

 だけどここにいれば、少なくとも母さんと妹の安全だけは保証される。それだけが救いだった。



「………」

 ……夢か。

 翌朝、僕は昔の夢で目が覚めた。

 アバディーンの屋敷にいた頃の夢は、今でも時々見る。

 妹はいつも可愛らしい笑顔を見せてくれて、メイドや使用人たちにも愛想を振りまいてとても可愛がられていた。

 ただひとつ、視神経が極端に弱く、目が不自由なことを除いては……

(ダメだな、弱気になってたらシモーヌに心配される一方だ)

 僕は大きく息をつき、ベッドから下りて深呼吸する。

 必ず捜すんだ。

 シモーヌの目を治してくれる医者を。

 絶対に、捜してみせる。


 それからは、あっと言う間に日々が過ぎていった気がする。

 忙しい時ってどうしてこんなに時が経つのが早いんだろう?

 だけど、嬉しくもあった。

 週末になれば、オフになる。

 そうしたら家に帰って、母さんの絶品タルト・オ・フリュイを久しぶりに食べて…一晩眠ったらシモーヌとパリへトンボ返りして……

 ピピッ!ピピッ!ピピッ…

 PC作業中に、突然電話が鳴った。

 助手のアンリも休みで、僕しかいない事務所の中でやけに音が響いた。

「アロー?」

『エミールさんですね?初めまして。私、○○テレビで紀行番組を制作している者で…』

 …テレビ?紀行番組?

 唐突な言葉に僕は正直驚いていた。

 フリーだから日頃から色々なツテを探してるし、様々な人間とも付き合うけれど、大体は出版社や新聞社からの連絡だ。

 だけどテレビ……映像作品を撮るわけでもない僕に一体何の用だろう?

 話を深く聞いてみると、フィンランドの報道局からの依頼で、ラップランドの少数民族の取材をしてほしいとの事だった。場所を聞いて思い当たることがあった。

 1年以上前になるけれど、僕はその近くに赴いたことがある。

 夏場で、夏至の頃だった。白夜のオーロラを取材するという出版社の依頼で、他のカメラマンやルポライター、通訳も同行してのかなり大がかりな取材だった。僕は撮影に専念でき、おかげでオーロラの美しい写真を撮ることができたし、雑誌に載った写真は概ね高評価を得た。

 おそらく今回の紀行番組の制作者という人は、その記事を見たんだろう。

 場所はフィンランド北部のイナリ湖から西へ数キロ走った村だという。

『…それで、番組で使用するための写真やパネルに、ぜひエミールさんの作品を使わせていただきたいと思いまして。サーミという少数民族のありのままの姿はもちろんのこと、現地の美しい風景をテレビでお伝えして観光にも役立てたいということでフィンランドの報道局から依頼を受けました』

「なるほど。そういうことでしたら、ぜひ詳しいお話を聞かせていただけますか?ええっと…来週以降なら時間が取れますから」

 カレンダーを確認しながらそう言うと、撮影時期は12月末とだけ教えてくれた。

 相手はまた後日連絡しますと返してきた。

 通話が終わり、僕は息をつく。

 意外な仕事が舞い込んできたものだ。

 まさか同じような極寒の地に二度も足を運ぶことになろうとはね。

 しかもあの、時代に取り残されたような最果ての地に……

 それにしても12月末か…

 まだだいぶ先ではあるけれど、年末年始を実家で過ごしたかった僕には、正直なところ気乗りしない仕事だ。

 母さんやシモーヌに話したらきっと寂しがるだろうな。近くなってから急に入った仕事だと伝える方がいいかもしれない。何せ今はまだ9月──

「…っと、それより今はこっちを片付けないと」

 僕は電話のために途中で手を止めたPC作業の続きに取り掛かった。

 僕のようなフリーランスのカメラマンにとっては、小さな規模とは言え、SNSやサイトの編集は欠かせない作業だ。

 いつ何処で、どんな人が僕の作品を見るかわからない。そのためにはなるべく頻繁に更新し、作品を展示させる必要がある。多くの人の目に留まり、いろんな人が評価してくれる。もちろん、良いのも悪いのもある。けれど、いちいち悪評を気にしてはいられない。生活にストレートにかかってくるんだから、そんな輩に構う暇はない。

 とにかく数をこなして良い物をネット上にアップする。

 ずいぶん地道な仕事だと思いながらも、黙々と1人で作業するのが苦じゃない僕にはけっこう向いてるかなと感じていた。


「ん、うーん…」

 作業が一段落した頃。僕は伸びをして時計を見た。

 もう昼過ぎだ。息をつき、作業デスクを離れる。

(美味しいカフェオレでも飲みたい気分だな…よし、カフェに行こう)

 そう思い、ランチをテイクアウトするべく僕は身支度を整え始めた。


 今やってる仕事というのは、初の合同展示会に向けてのものだった。

 具体的にはパリ近郊に住む数人のカメラマンが共同で出資して行うものだ。仲良くなった編集者からの誘いを受けて僕も今回初めて参加することになった。

 開催は1カ月ほど先だけれど、場所の確保や広報・告知関連、色んな準備に追われる中での展示予定作品の撮影だったから、けっこう骨が折れた。

『四季のパリ』というテーマなので、どこかに遠征する必要がないのが幸いだった。これで遠くまで出かける仕事が入ったら、僕の身体は間違いなくパンクする。それぐらい、ここ数週間はバタバタして過ごしていた。

 だけど、それもほとんど落ち着いた。作品も何点か仕上がり、あとはもっと良い写真を撮れれば──

「えっ?」

 お気に入りのカフェの近くを通りかかった時、僕はふと足を止めた。

 知り合いがそのカフェのテラス席に座っていたからだ。

「あら、エミールじゃない。久しぶりね」

 彼女──イリヤが綺麗なアクアブルーの瞳を和ませながら、そう言った。

「なあに?そんなに驚くこと?」

 僕の顔があまりに可笑しかったのか、イリヤは赤いルージュをひいた唇に軽く手を添えて笑う。

「いや、別に驚いたわけじゃ…君だってパリ市内に住んでるんだし、どこかで会ってもおかしくないからね」

 僕は肩を竦める。彼女はすっかり秋の装いで、紫をベースにしたチェック柄のハイネックシャツに黒いパンツを上手に着こなしている。細い腰をゴールドの入った黒いベルトでキュッと締め、彼女のスレンダーなスタイルの良さをいっそう際だてていた。

「ここで会ったのも何かの縁かしらね、座ったら?」

 イリヤは向かいの席を指さす。

 テイクアウトを考えていた僕は少し迷ったが、せっかくの機会だしと厚意に甘えることにした。店内でカフェオレとベーグルを注文し、テラスへ戻る。

「仕事は順調かい?」

「まあまあね。新しくできた出版社とも契約できたし、当面はね」

 彼女は駆け出しのルポライターだ。僕とは同業のようなもので、仕事で顔を合わせることは無くとも業界のあれこれについて話すことはよくある。

「あなたの方はどうなの?もうすぐ展示会があるんでしょう?」

「よく知ってるね」

「そりゃあ、あなたのインスタをこまめにチェックしてますもの」

 ふふっと笑うイリヤ。僕は軽く頭を搔いた。なんとなく気恥ずかしい。

 それというのも、イリヤの目はかなり厳しいからだ。僕が気付かないような細かな点─たとえば女性の視点からの─などを見抜いてコメントを残してくれる。彼女は僕の写真のファンだと言うけれど、ほとんどが辛口評価ばかり。

 まあ、本当に良い点にはきちんと評価をしてくれるからありがたい。

「昨日アップした写真も見たわよ。眠くてコメントはしなかったけど、高評価を押しておいたわ。ああいう構図はやっぱり得意ね、あなた」

「本当かい?それはどうも」

 カフェオレを一口飲み、僕はベーグルを食べながら応える。

 昨日遅くまで頑張った甲斐があった、ということかな。最高の1枚を選ぶのも神経使うんだよね、本当に。

 褒められればやっぱり嬉しいものだ。特に彼女のような、普段は辛口評価の人が褒めてくれるのはありがたい。

「『四季のパリ展』だったかしら?見慣れてる風景だからこそ、新鮮味を出そうとすると難しいわね」

 彼女はほのかに温かいカップを両手で包み込むようにしながら言う。

「特にあなたのように“絶対にエッフェル塔は入れない”なんて拘っている人だと、余計にね」

 クスッと笑われてしまう。僕は頬杖をついて返す。

「パリ=エッフェル塔じゃないからね。有名な観光名所ばかり追っかけていたら勿体ない。この街にはもっと色々な場所があるってことを伝えていきたいから」

「なるほどね。そういう頑ななところもあなたの写真の魅力だと思うわよ」

「ありがとう」

 褒め言葉として素直に受け取ることにして、僕は笑顔で言った。

 彼女は左手首の腕時計をちらっと見遣り、静かに立ち上がった。

「この後、人と会う約束があるのよ。また今度、話しましょう。展示会には絶対に行くわ」

「仕事の関係者かい?忙しそうで何よりだ」

「まあ…そんなようなものね」

 なんとなく意味深な言い方をする彼女に、僕はふと思い出したことを告げる。

「そうそう、展示会にはハリーも来るらしいから、バッティングしないようにするよ。君の予定が決まったら早めに教えてくれるかな?」

 聞いた途端、イリヤは急に眉間に皺を寄せて嫌悪をむき出しにした。

「アイツも来るの?嫌だわ、絶対に会いたくない。予定決まったら教えるわね」

「…うん。それじゃ、また」

 手を振って席を離れていくイリヤの姿を見送って、僕は苦笑した。

 イリヤとハリーという男は以前から犬猿の仲なんだ。会えば毎回口撃バトルが始まるので、正直同席したくはない。

 まあ、イリヤの気持ちもわかる。ハリーの馴れ馴れしさと大きな声には、10年来の親友だと思っている僕でも辟易することがあるからね。

 悪い人ではないんだけどな、と思いながらも、さっきのイリヤの嫌悪感丸出しの表情を思い出して僕は笑ってしまった。


 カフェを後にした僕は、すぐに事務所には戻らずにその辺を散歩することにした。

 天気も良いし、セーヌ川のほとりに足を伸ばすかと思って歩いていると、見慣れた店の並びに1軒、新しいカフェがオープンしていることに気付いた。

(へえ…どんな感じだろう?)

 ちょっとだけ覗いてみると、個人経営の店のようだ。狭いながらもアンティークな小物類やシックな内装で落ち着きそうな感じだった。

 今度、シモーヌが来た時にでも寄ろうかな。僕が知らない店なんだから、彼女ももちろん知らないだろうし、たまには違うカフェ巡りも楽しい。

 カメラを忘れてきたことを後悔し、僕はスマートフォンを取り出した。少し離れた所から外観を撮る。気構えもせず、いつでも気軽に撮れるスマホは便利だ。

 それからセーヌ沿いまで歩いていきがてら、続けて写真を何枚か撮ってみる。

 風景を見るとどうしても構図とか、光の当たり具合などを無意識に計算してしまう癖がついている僕。職業柄、仕方がないとは思うけれど、たまには自由気ままに撮りまくってみたい時もあるんだ。

 そうやって違った形で楽しんで撮った写真に、次の手がかりになるヒントが隠れていたりもするからね。

 撮った写真は事務所で確認することにして、ひとしきり満足した僕はセーヌのキラキラした流れに「また来るよ」と呟いて踵を返した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ