第九章 母ちゃんが、いない。
第九章 母ちゃんが、いない。
接見が終わった。
三浦が書類を片づけ、小宮に頭を下げる。
「で、では、今日はこれで」
「三浦くん」
「は、はい」
「柏木先生に、よろしくね」
三浦の手が止まった。
「……はい」
曖昧な返事だった。
小宮は満足そうに微笑んだ。
美沙は、その顔を見つめていた。
「……何が、よろしくよ」
三浦が席を立つ。
美沙は一瞬、その後を追いかけそうになった。
だが、足を止めた。
今日ここまで来たのは、三浦の話を聞くためではない。
小宮を調べるためだ。
生きている人間の体から、どうやって生霊が抜け出すのか。
それを確かめたかった。
「……さて」
美沙は小宮に向き直った。
「今度は、あんたについていくわよ」
もちろん、小宮には聞こえない。
職員に促され、小宮が立ち上がる。
美沙も後を追った。
ところが、すぐに問題が起きた。
扉だった。
小宮と職員が通り抜けたあと、扉が閉まってしまったのだ。
「あっ、ちょっと!」
美沙は慌てて手を伸ばした。
指先が扉に沈む。
けれど、そこで動きが止まった。
「……うう」
壁抜けは、今でも苦手だった。
幽霊なのだから簡単に通り抜けられるはずだと、佑には言われたことがある。
だが、そういうものではない。
目の前に壁や扉があると、どうしても体が拒んでしまう。
ぶつかるはずがない。
痛くもない。
頭では分かっているのに、怖いのだ。
「……ええい!」
美沙は目をつぶった。
思い切って前へ進む。
次の瞬間、扉の向こうへ抜けた。
「……できた!」
喜んだのも束の間だった。
廊下の先に、また扉がある。
「……嘘でしょう」
美沙は肩を落とした。
*
何度か扉を抜け、途中で小宮を見失いかけながら、美沙はようやくその姿を見つけた。
小宮は、ほかの収容者たちと同じように過ごしていた。
職員の指示に従い、決められた場所へ移動する。
特に変わった様子はない。
美沙は少し離れて、その様子を観察した。
「……普通ね」
小宮は誰かと大声で話すこともなければ、奇妙な動作をすることもなかった。
何かを唱えるわけでもない。
目を閉じて念じるわけでもない。
美沙が想像していた、生霊を飛ばすための特別な行動など、どこにも見当たらなかった。
「……どうやってるのよ」
美沙は小宮の顔を覗き込んだ。
「ねえ。あんた、いつ体から抜け出してるの?」
返事はない。
小宮は美沙を見ようともしない。
試しに、目の前で手を振ってみた。
「おーい」
反応はなかった。
「……やっぱり見えないのね」
生霊の小宮は、美沙を見ることができた。
声も聞こえていた。
それどころか、突き飛ばすことまでできた。
なのに、ここにいる小宮は何も感じていない。
美沙は腕を組んだ。
「……本人とは別なのかしら」
小宮は椅子に座り、静かに時間を過ごしていた。
時折、何かを思い出したように微笑む。
その顔を見て、美沙は先ほどの接見を思い出した。
卒業アルバム。
文化祭。
タキシードを着た彼と、ドレス姿の小宮。
たった一枚の写真。
小宮は、あの写真を思い出すだけで幸せそうだった。
「……あんたねえ」
美沙は小さく息を吐いた。
「彼がどんな気持ちだったか、考えたことある?」
小宮は答えない。
ただ、薄く微笑んでいる。
美沙はその横顔を見つめた。
あの女が彼を見つめるときの顔と、よく似ていた。
「……もしかして」
美沙は眉をひそめた。
特別なことなど、何もしなくていいのだろうか。
彼のことを考えるだけで。
会いたいと願うだけで。
あの女の一部が、勝手に彼のところへ向かってしまうのだろうか。
「……そんなの、どうやって止めればいいのよ」
美沙は途方に暮れた。
それでも、ここまで来たのだ。
何か分かるまでは帰れない。
美沙は小宮のそばに立ち、もう少し様子を見ることにした。
家で、二人が待っていることも忘れて。
*
その頃。
柏木家では、夕食の支度が進んでいた。
彼は鍋の火を弱め、時計を見た。
いつもなら、そろそろ佑が帰ってくる時間だった。
美沙は今日も学校についてきていたはずだ。
帰り道でも、特に変わったことはなかった。
もっとも、彼には確かめようがない。
美沙が隣を歩いていても、分からないのだから。
玄関が開いた。
「ただいまー」
「おかえり」
佑が居間へ入ってくる。
彼は鍋の蓋を置いた。
「佑、母さんは?」
「え?」
「今日も学校についてきてたんだが、帰ってきてるかな」
佑は居間を見回した。
「……母ちゃん?」
返事はなかった。
「母ちゃーん」
台所。
廊下。
階段の下。
いつもなら、どこからかひょっこり顔を出す。
だが、今日は誰もいなかった。
「……あれ?」
佑は首を傾げた。
「いないな」
彼の手が止まった。
「……いない?」
「うん。ちょっと二階見てくる」
佑は階段を上がった。
自分の部屋。
父の寝室。
空いている部屋。
すべて覗いた。
「母ちゃん?」
返事はない。
階段を下りる足が、少し速くなった。
「……父ちゃん」
「いたか?」
「いない」
彼は黙った。
「学校で別れたの?」
「いや……」
彼は考えた。
「一緒に帰ってきたと思ってたんだが」
「思ってた?」
「……見えないからな」
その言葉に、佑は何も返せなかった。
彼には、美沙が見えない。
学校から一緒に帰ったのか。
途中でどこかへ行ったのか。
そもそも、まだ学校にいるのか。
何ひとつ分からないのだ。
「……ちょっと、もう一回探してくる」
佑は再び階段へ向かった。
彼はその背中を見送った。
時計の針が進む。
鍋から湯気が上がっている。
いつもと変わらない夕方だった。
なのに、胸の奥がざわついていた。
八年前。
あの日も、美沙は帰ってこなかった。
最初は、少し遅くなっているだけだと思った。
何か用事ができたのだろうと。
そのうち帰ってくる。
そう思って、待っていた。
けれど、帰ってこなかった。
翌日も。
その次の日も。
何年待っても。
彼は鍋の火を止めた。
*
「……やっぱりいない」
佑が居間へ戻ってきた。
彼は食卓の椅子に座っていた。
「そうか」
「母ちゃん、どこ行ったんだろ」
「……分からないな」
佑は携帯電話を取り出しかけて、手を止めた。
美沙に電話はできない。
メッセージも送れない。
誰かに見かけなかったかと尋ねることもできない。
そもそも、普通の人には見えないのだ。
「……困ったな」
佑は呟いた。
そのときだった。
彼の肩に、何かが触れた。
そっと。
後ろから、手を置かれたような感触だった。
「……美沙?」
彼は振り返った。
誰もいない。
けれど、確かに触れられた気がした。
「佑」
「ん?」
「母さん、いるんじゃないのか?」
佑が顔を上げた。
「え?」
「今、肩に触られたような感じがしたんだ」
佑はすぐに彼の背後を見た。
そして、居間を見回した。
「……母ちゃん?」
返事はなかった。
佑には、何も見えない。
「……いないよ」
「そうか……」
彼は肩に手を当てた。
確かに、誰かに触れられた。
美沙が帰ってきたのかと思った。
けれど、佑には見えないという。
「……気のせいかな」
彼は小さく呟いた。
その背後に、小宮が立っていた。
うっとりとした表情で、彼を見つめている。
その手は、まだ彼の肩に置かれていた。
ゆっくりと、指先が動く。
彼の肩から腕へ。
まるで、長い間会えなかった恋人に触れるように。
彼はわずかに身じろぎした。
「……まただ」
「父ちゃん?」
「いや……何でもない」
小宮は微笑んでいた。
その姿は、佑にも彼にも見えない。
美沙だけが、見ることのできる女だった。
そして今、その美沙はいなかった。
*
時間が過ぎた。
夕食は、ほとんど手をつけられないまま冷めていた。
佑は何度も家の中を見回した。
彼は、ほとんど口を開かなかった。
「父ちゃん」
「……ん?」
「母ちゃん、どっか行っただけだよな」
「……そうだといいな」
佑は唇を噛んだ。
八年前。
母がいなくなったとき、自分はまだ子どもだった。
父がどんな気持ちで待っていたのか、全部は分からなかった。
けれど今は、少し分かる気がした。
帰ってこないかもしれない。
そんな考えが、頭から離れない。
母はもう死んでいる。
それでも、また失うことがあるのだろうか。
「……母ちゃん」
佑は小さく呟いた。
彼は何も言わなかった。
ただ、玄関のほうを見ていた。
*
「……あら?」
美沙が時計を見たのは、ずいぶん時間が経ってからだった。
小宮は、結局何も変わったことをしなかった。
生霊が抜け出す瞬間も見られない。
ただ普通に過ごし、ときどき幸せそうに微笑んでいただけだった。
「……もう、こんな時間?」
美沙は慌てた。
「いけない!」
急いで帰らなければ。
彼と佑が心配しているかもしれない。
美沙は小宮を振り返った。
「……今日はここまでね」
小宮は美沙に気づかない。
美沙は廊下へ向かった。
また、扉があった。
「……もう!」
美沙は目を閉じた。
思い切って通り抜ける。
何度か失敗しながら、ようやく建物の外へ出た。
すっかり暗くなっていた。
「……怒ってるかしら」
美沙は小さく呟いた。
佑は怒るかもしれない。
彼も、少し心配しただろう。
でも、事情を話せば分かってくれるはずだ。
小宮の生霊を何とかしたくて、調べに行ったのだから。
「……早く帰ろう」
美沙は家へ向かった。
*
「ただいまー」
美沙はいつもの調子で玄関を抜けた。
返事はなかった。
「あれ?」
居間へ向かう。
佑がソファに座っていた。
彼は食卓の椅子に座り、俯いている。
「……どうしたの?」
美沙が声をかけた。
佑が顔を上げた。
その瞬間、表情が変わった。
「……母ちゃん?」
「うん。ただいま」
佑は立ち上がった。
「どこ行ってたんだよ!」
美沙は目を丸くした。
「え?」
「何時間もいなくなって! 何してたんだよ!」
「ちょ、ちょっと待って」
「待てるかよ!」
佑の声が震えていた。
美沙は、ようやく気づいた。
息子が怒っている。
それも、ただ怒っているのではない。
ひどく怯えている。
「……ごめん」
美沙が呟いた。
佑は彼を振り返った。
「父ちゃん」
彼が顔を上げる。
「……母ちゃん、帰ってきた」
彼は動かなかった。
ただ、佑を見つめていた。
「……そうか」
その声は、驚くほど静かだった。
美沙は彼に近づいた。
「ごめんね。ちょっと調べたいことがあって……」
彼には聞こえない。
佑が代わりに伝えた。
「母ちゃん、小宮のこと調べに行ってたんだって」
彼はゆっくり頷いた。
「……小宮さんのことを」
「うん。三浦って弁護士について行ったらしくて」
彼は目を閉じた。
そして、静かに息を吐いた。
「佑」
「……何?」
「母さんに、聞いてくれるか」
「うん」
「どうして、何も言わずに行ったんですか、と」
佑が息を呑んだ。
美沙も、彼を見つめた。
その声は穏やかだった。
けれど、いつもの穏やかさではなかった。
「……お父さん?」
彼は続けた。
「君は、また私たちを置いていなくなったんですね」
美沙は動けなかった。
「八年前も、そうでした」
彼の声は静かだった。
「君は一人で出かけて、そのまま帰ってこなかった」
佑は何も言わなかった。
彼は、美沙がいるはずの場所を見つめた。
「今日も、同じです」
「……違うの」
美沙は慌てて言った。
「今日は、ちゃんと帰ってきたじゃない」
佑がその言葉を伝える。
彼は少しだけ顔を伏せた。
「……そうですね」
そして、顔を上げた。
「でも、帰ってくるまで、私たちが何を考えていたか分かりますか」
美沙は答えられなかった。
「君がまた、どこかへ行ってしまったんじゃないかと」
彼の声が、わずかに揺れた。
「もう二度と、帰ってこないんじゃないかと」
美沙は彼を見つめた。
彼は怒鳴らなかった。
声を荒らげることもなかった。
ただ、いつもよりずっと丁寧に言葉を選んでいた。
「私には、君が見えないんです」
美沙の胸が痛んだ。
「君がここにいるのか、いなくなったのか。それさえ、私には分からない」
彼は佑を見た。
「佑が教えてくれなければ、君が帰ってきたことも分からないんですよ」
「……お父さん」
「どうしてでしょうね」
彼は小さく笑った。
悲しそうな笑顔だった。
「どうして、私には君が見えないんでしょうね……」
美沙は何も言えなかった。
彼は俯いた。
長い沈黙が落ちた。
やがて、彼は静かに続けた。
「君が、私たちのために動いてくれたことは分かっています」
美沙は顔を上げた。
「君は昔から、そういう人でした」
彼は少しだけ目を細めた。
「誰かのためなら、自分のことを後回しにしてしまう」
美沙の目に涙が浮かんだ。
「私は、それを誰よりもよく知っています」
彼は息を吸った。
「だからこそ、怖いんです」
その言葉に、美沙は俯いた。
「……ごめんなさい」
佑が小さく伝えた。
「母ちゃん、謝ってる」
彼は頷いた。
「……今日は、少し休ませてください」
そう言って、ゆっくり立ち上がった。
美沙の横を通り過ぎる。
彼には、美沙がそこにいることさえ分からない。
美沙は手を伸ばしかけた。
けれど、触れることができなかった。
彼はそのまま、寝室へ向かった。
*
居間に残された美沙は、しばらく動けなかった。
佑も黙っていた。
やがて、美沙が小さく口を開いた。
「……お父さん、怒ってたね」
「当然だろ」
「……佑も、怒ってるよね」
「怒ってるよ」
美沙は俯いた。
佑はしばらく母を見つめていた。
そして、少しだけ表情を緩めた。
「でも、俺や父ちゃんのためにしたことなんだよな? 母ちゃんのそういうとこ、変わってなくて安心する」
美沙は顔を上げた。
「……じゃあ、怒ってない?」
「怒ってるよ」
佑は即答した。
「でも、怒るってのは心配の裏返しだから、父ちゃんの怒りは受け止めてあげてよ」
美沙は黙って頷いた。
「……うん」
佑はソファに深く座り直した。
「ほんと、頼むよ。母ちゃん」
「……ごめんね」
「もう、勝手にいなくなるなよ」
「うん」
美沙は息子の隣に座った。
もちろん、ソファが沈むことはない。
それでも佑は、母がそこにいることを確かめるように、何度か横を見た。
美沙は、その視線に気づいていた。
八年前。
自分が帰らなかった夜。
二人は、どんな思いで待っていたのだろう。
そして今日。
また同じ思いをさせてしまった。
美沙は寝室のある二階を見上げた。
「……お父さん」
小さく呟く。
彼には聞こえない。
それでも、美沙はもう一度言った。
「……ちゃんと、ここにいるからね」
その声は、静かな家の中に消えていった。




