第八章 たった一枚の写真
第八章 たった一枚の写真
三浦は、校舎の中へ戻っていった。
美沙は少し離れて、その後を追った。
「……書類を受け取るんじゃなかったの?」
三浦は職員室の前を通り過ぎ、廊下の奥へ向かう。
やがて、教頭室の前で足を止めた。
「し、失礼します」
扉の向こうから返事が聞こえる。
三浦が中へ入ると、美沙も続いた。
部屋の中央には応接用の机があり、その上に分厚い冊子が積まれていた。
教頭が椅子から立ち上がる。
「三浦先生、お待ちしておりました」
「あ、ありがとうございます。お忙しいところ、すみません」
「いえ。こちらがご依頼の卒業アルバムです」
「……卒業アルバム?」
美沙は思わず声を上げた。
机の上には、八冊のアルバムが並んでいた。
「小宮先生が本校に着任されてからの八年分です。こちらでよろしいでしょうか」
「は、はい。ありがとうございます」
三浦は椅子に腰を下ろした。
鞄から手帳を取り出し、机の端に置く。
「お時間はどのくらい必要ですか?」
教頭が尋ねた。
「あ、十分ほどで」
「……十分?」
教頭が聞き返した。
美沙も思わず三浦を見た。
「八冊あるのよ?」
もちろん、返事はない。
三浦は一冊目を開いた。
そして、ページをめくり始めた。
ぱらり。
ぱらり、ぱらり。
「……え?」
美沙は目を丸くした。
速い。
とにかく速い。
集合写真も、行事の写真も、卒業生の顔写真も、ほとんど立ち止まらずにめくっていく。
それでいて、ページを飛ばしているわけではない。
一枚一枚、確かに目を通している。
「ちょっと、ちゃんと見てるの?」
三浦は答えない。
二冊目。
三冊目。
四冊目。
美沙は彼の肩越しに覗き込んだ。
体育祭。
文化祭。
修学旅行。
卒業式。
どの写真にも、大勢の生徒たちが写っている。
教師たちの姿もあった。
その中に、彼がいた。
「あ、お父さん」
美沙は思わず顔を近づけた。
若い頃の彼だった。
今より少し頬がふっくらしている。
生徒たちに囲まれ、穏やかに笑っていた。
「……懐かしい」
けれど、美沙がゆっくり眺める間もなく、三浦は次のページをめくってしまった。
「あ、ちょっと!」
美沙は慌てて追いかける。
「もう少し見せてよ!」
もちろん、三浦には聞こえない。
五冊目。
六冊目。
七冊目。
そして八冊目。
最後のページを閉じると、三浦は手帳を開いた。
何かを短く書き留める。
それだけだった。
「……終わり?」
美沙は壁の時計を見た。
まだ十分も経っていない。
「そんな見方で、何が分かるのよ」
三浦は手帳を閉じた。
「ありがとうございました」
教頭が驚いた顔をした。
「もうよろしいんですか?」
「は、はい。必要なものは確認できました」
「そうですか」
「お手数をおかけしました」
三浦は深々と頭を下げた。
美沙は机の上に積まれた八冊を見た。
いったい何を調べたのだろう。
写真を見たというより、紙をめくっただけにしか思えなかった。
けれど三浦は、もうアルバムに興味を示さなかった。
鞄を持ち、教頭に礼を言って部屋を出る。
美沙は慌てて後を追った。
「……どこへ行くの?」
三浦は校門を出ると、まっすぐ歩き始めた。
駅へ向かい、電車に乗る。
美沙もついていった。
どうやら、帰宅するつもりではないらしい。
やがて三浦が降りた駅で、美沙も降りた。
そこからさらに歩く。
そして、ある建物の前で三浦が足を止めた。
美沙は入口を見上げた。
「……ここって」
小宮が勾留されている施設だった。
美沙は三浦を見た。
もしかしたら、あの女に会うつもりなのかもしれない。
そう思った途端、胸が高鳴った。
「……ちょうどいいじゃない」
小宮が今、どんな状態なのか。
確かめる機会が来たのだ。
美沙は三浦の後について、建物の中へ入った。
*
接見室。
透明な仕切りの向こうに、小宮が座っていた。
美沙は三浦の後ろに立ち、じっとその姿を見つめた。
「……小宮」
今朝、学校に現れた女と同じ顔だった。
けれど、こちらの小宮は美沙を見ない。
視線は三浦だけに向けられている。
美沙が目の前に立っても、まったく反応しなかった。
「……聞こえる?」
小宮の顔に近づいてみる。
「ねえ、小宮」
返事はない。
美沙は眉をひそめた。
生霊の小宮は、美沙を見ることができた。
声も聞こえていた。
それなのに、目の前の小宮は何も感じていないようだった。
「……別々なの?」
美沙は小さく呟いた。
そのとき、三浦が鞄から手帳を取り出した。
「小宮さん。今日は、学校へ行ってきました」
小宮の顔が明るくなった。
「柏木先生に会ったの?」
「い、いえ。今日は卒業アルバムを見せていただきました」
「卒業アルバム?」
「はい。あなたが着任してからの八年分です」
三浦は手帳を開いた。
「小宮さん。あなたは着任二年目と五年目に、柏木先生と同じ三年生の学年団に所属していましたね」
「ええ」
「二年目は柏木先生が三年一組の担任、あなたが副担任。五年目は柏木先生が三年二組の担任で、あなたは三年四組の担任でした」
「そうだったわね」
「それから四年目。二年生の修学旅行では、柏木先生が二組、あなたが四組を担当されていました」
三浦は淡々と続けた。
「一年目の体育祭では、柏木先生は白組、あなたは赤組の担当。三年目の文化祭では、あなたは三年一組、柏木先生は二年三組。六年目の卒業式では、あなたは三年生の学年団には所属していませんでした」
美沙は三浦を見た。
「……ちょっと待って」
さっきのアルバムだ。
あの速さでめくった、八冊のアルバム。
それなのに三浦は、いつ、どこで、誰が何を担当していたのか、まるでその場にいたかのように話している。
手帳には短い数字がいくつか書かれているだけだった。
「……全部覚えてるの?」
美沙は呆然とした。
三浦はさらに続けた。
「写真も確認しました。集合写真では、同じ学年を担当していた年でも、必ずしも隣同士ではありません。職員の集合写真でも、二人の位置関係に特別な変化は見られませんでした」
小宮は首を傾げた。
「それが何か?」
「……いえ。お二人の関係を示すものがないか、確認していたんです」
「そんなもの、写真に写るわけないでしょう?」
小宮は笑った。
「仕事とプライベートは別よ。学校では、ただの同僚として接していたもの」
三浦は黙った。
「誰にも知られないようにしていたの。先生の立場もあるし、私だって教師だったんだから」
美沙は小宮を睨んだ。
「……何言ってるのよ」
彼と小宮が、恋人だったことなど一度もない。
それなのに小宮は、秘密の関係があったかのように話している。
三浦は手帳を見つめた。
八年間。
毎年のように学校行事があり、何百枚もの写真が残されている。
同じ職場で、同じ学年を担当したこともある。
もし本当に親密な関係だったのなら、どこかにその痕跡が残っていてもおかしくない。
人は、いつでも同じ距離を保てるわけではない。
気が緩むこともある。
何気なく相手を見つめたり、無意識に近づいたりすることもあるだろう。
けれど、三浦が見た写真の中で、二人の距離が特別に近かったものは、たった一枚だけだった。
「……ただ」
三浦が顔を上げた。
「一枚だけ、気になる写真がありました」
小宮の目が輝いた。
「どんな写真?」
「着任三年目の文化祭です。あなたと柏木先生が、腕を組んで写っていました」
小宮の表情が変わった。
「ああ……!」
頬が赤く染まる。
まるで、宝物を見つけた少女のような顔だった。
「あのときの写真ね」
小宮はうっとりと目を細めた。
「覚えてるわ。あの年、私のクラスで中世社交界喫茶をやったの」
三浦は黙って聞いていた。
「生徒たちがね、先生たちにも衣装を着てほしいって言い出したのよ。柏木先生にはタキシード、私にはドレスを用意して」
小宮は楽しそうに笑った。
「看板に使う写真を撮りたいって。二人で並んでくださいって言われてね」
美沙は小宮を見つめた。
「……看板?」
「それで、生徒たちが腕を組んでくださいって言ったの。私、びっくりしちゃって」
小宮は胸の前で両手を重ねた。
「でも先生、断らなかったのよ」
三浦は手帳に視線を落とした。
「生徒たちに頼まれたんですね」
「そうよ」
小宮は嬉しそうに頷いた。
「そのときね、生徒の一人が言ったの。『先生たち、夫婦みたい!』って」
小宮は目を閉じた。
「あのとき、本当に幸せだったわ」
美沙は何も言わなかった。
「先生と腕を組んで、二人で並んで。みんなが私たちを夫婦みたいだって言ってくれたのよ」
小宮の声は、甘く弾んでいた。
「あの写真、大好きだった」
三浦は、アルバムの一ページを思い出していた。
タキシード姿の柏木。
ドレスを着た小宮。
二人の周りには、笑顔の生徒たちがいた。
確かに小宮は、柏木の腕に自分の腕を絡めていた。
そして満面の笑みを浮かべていた。
だが、柏木は違った。
笑ってはいた。
けれど、その表情はどこか困っていた。
生徒たちに頼まれ、断ることもできず、仕方なく写真に収まった。
そんな顔だった。
三浦は、その表情まで覚えていた。
「……柏木先生は、少し困ったようなお顔をされていましたね」
小宮は不思議そうに首を傾げた。
「そうだった?」
「ええ」
「緊張していたのよ」
小宮は微笑んだ。
「生徒たちの前で、私とあんなふうに並ぶんだもの。照れていたのね」
三浦は返事をしなかった。
小宮は続けた。
「先生、あのとき何も言わなかったの。私が腕を組んでも、振りほどかなかった」
そして、幸せそうに息をついた。
「……嬉しかったなあ」
美沙は、仕切りの向こうにいる女を見つめた。
小宮は本当に幸せそうだった。
彼がどんな顔をしていたかなど、どうでもいいのだ。
彼が困っていたことも。
生徒たちに頼まれたから、写真に収まっただけだということも。
小宮の記憶には残っていない。
残っているのは、彼の隣に立った自分。
彼の腕に触れた自分。
そして、夫婦みたいだと言われた自分だけだった。
三浦は手帳を閉じた。
八年間で、たった一枚。
それも、生徒たちが看板用に撮った写真だった。
ほかには何もない。
それでも小宮は、その一枚を何より大切にしている。
「……小宮さん」
三浦が静かに尋ねた。
「その写真以外に、柏木先生とお二人だけで撮られた写真はありますか?」
小宮は微笑んだまま答えた。
「ないわ」
「……そうですか」
「だって、必要なかったもの」
三浦が顔を上げた。
「必要なかった?」
「写真なんかなくたって、先生との思い出は全部、私の中にあるから」
小宮は胸に手を当てた。
「誰にも見せる必要なんてないでしょう?」
三浦は、もう何も言わなかった。
美沙は小宮を見つめていた。
八年間。
この女は、彼の何を見ていたのだろう。
彼の言葉を。
彼の表情を。
彼の気持ちを。
本当に、一度でも見ようとしたことがあったのだろうか。
小宮は今も、幸せそうに微笑んでいた。
あの一枚の写真の中に、まだいるかのように。




