第七章 ついていく母ちゃん
第七章 ついていく母ちゃん
夕食の支度が整った頃だった。
「佑、お茶出してくれるか」
「はーい」
佑が冷蔵庫から麦茶を取り出した。
食卓には、彼が作った肉じゃがと焼き魚、それにほうれん草のおひたしが並んでいる。
「今日もおいしそうねえ」
美沙は食卓を覗き込んだ。
「母ちゃん、食べられないのに毎回言うよな」
「見れば分かるわよ。おいしいものは」
「じゃあ、俺の分も味わっといて」
「それは無理ね」
佑が笑った。
彼は椅子を引きながら尋ねた。
「今日は何の話だ?」
「母ちゃんが父ちゃんの料理を褒めてる」
「そうか。それは嬉しいな」
彼は、美沙がいるはずの方向へ微笑んだ。
いつもの夕食だった。
佑が大学での出来事を話し、彼が相槌を打つ。
美沙は二人の間を行ったり来たりしながら、時々口を挟む。
もちろん、彼には聞こえない。
佑が適当に通訳することもあれば、聞き流すこともある。
それでも、美沙は楽しかった。
八年前には当たり前だった光景が、今は何より大切だった。
だから。
食卓の向こうに女が立っていることに気づいたとき、美沙は一瞬、息を呑んだ。
「……小宮?」
彼の背後に、小宮がいた。
いつものように、ただ彼を見つめている。
けれど、何かがおかしかった。
姿が、あまりにもはっきりしていた。
髪の流れも、着ている服の皺も分かる。
以前のような、薄ぼんやりとした気配ではない。
そこに、生きた人間が立っているようだった。
「……ちょっと」
美沙は小宮に近づいた。
「今、何時だと思ってるの?」
小宮は答えない。
その視線は彼に向けられたままだ。
「まだ夕飯の時間よ。誰も寝てないじゃない」
これまでは夜だった。
彼も佑も眠っている時間に、小宮は現れていた。
だから美沙は、小宮自身が眠っている間だけ、生霊がこちらへ来るのかもしれないと思っていた。
だが、今は違う。
小宮が今、眠っているのか起きているのか、それさえ分からない。
少なくとも、彼は目の前で夕食を食べている。
それなのに、あの女はここにいる。
「……どういうこと?」
小宮が一歩、彼に近づいた。
「待ちなさい」
美沙はその前に立った。
「彼に近づかないで」
小宮の視線が、ようやく美沙に向いた。
以前なら、夢の中に現れた邪魔者を見るような、どこか現実味のない目をしていた。
だが、今は違った。
はっきりと、美沙を見ていた。
「……どいて」
美沙は眉をひそめた。
「嫌よ」
「先生のところへ行くの」
「行かせないわ」
小宮の顔から表情が消えた。
次の瞬間だった。
両手が、美沙の肩を強く押した。
「きゃっ!」
美沙の体が後ろへ飛ばされた。
床に尻もちをつく。
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
「……え?」
美沙は自分の肩を見た。
確かに、押された。
手のひらの感触があった。
それも、かなり強い力で。
「……嘘でしょう」
小宮は美沙を見下ろしていた。
その目にあるのは、怒りというよりも苛立ちだった。
邪魔なものをどかした。
ただ、それだけの顔だった。
「母ちゃん?」
佑が箸を止めた。
「どうした?」
美沙は慌てて顔を上げた。
「小宮よ!」
「えっ?」
「そこ! お父さんの後ろ!」
佑が彼の背後を見る。
もちろん、何も見えない。
「父ちゃん、ちょっと待って」
「どうした?」
「小宮が来てるって」
彼の手が止まった。
「……小宮さんが?」
佑は頷いた。
その間にも、小宮は彼に近づこうとしていた。
「駄目!」
美沙は立ち上がり、小宮の腕をつかもうとした。
今度は美沙の手が、確かに小宮の腕に触れた。
冷たいわけでも、温かいわけでもない。
ただ、そこに何かがある。
そうとしか言いようのない感触だった。
「……触れる」
美沙は呆然と呟いた。
小宮が振り向く。
「離して」
「離さないわよ!」
美沙は腕に力を込めた。
「ここは私たちの家なの! 勝手に入ってこないで!」
小宮は美沙を睨んだ。
そして、もう一度押しのけようとした。
美沙は踏ん張った。
「何度来たって同じよ! 彼には近づけさせない!」
そのとき、小宮の輪郭が揺れた。
水面に映った姿のように、顔が歪む。
「……あ」
美沙の手から、感触が消えた。
小宮の姿が薄くなっていく。
最後まで彼のほうを見つめたまま、小宮は消えた。
美沙は、その場に立ち尽くした。
「……消えた」
佑がすぐに尋ねた。
「母ちゃん、大丈夫?」
「……うん」
「何があった?」
「突き飛ばされたの」
「は?」
佑が目を見開いた。
「小宮に?」
「そう。肩を、思いっきり」
彼が静かに箸を置いた。
「佑。何があった?」
「母ちゃんが、小宮に突き飛ばされたって」
彼の顔色が変わった。
「……美沙は?」
「今は立ってる。大丈夫そうだけど」
美沙は二人を見た。
「大丈夫よ。ちょっとびっくりしただけ」
佑がその言葉を伝える。
彼はしばらく黙っていた。
そして、何もない空間へ向かって言った。
「美沙、無理はしないでくれ」
美沙は彼を見つめた。
「……うん」
けれど、無理をしないわけにはいかなかった。
あの女は、もう夜だけに現れるのではない。
しかも、触れる。
押しのけることができる。
美沙は、自分の肩に手を当てた。
これから、あの女はどこまで強くなるのだろう。
*
翌朝。
「私、今日から学校についていくわ」
美沙は宣言した。
佑はトーストを持ったまま、母を見た。
「……学校?」
「そう」
「父ちゃんの?」
「ほかに誰の学校があるのよ」
「いや、そうだけど」
美沙は腕を組んだ。
「昨日みたいに、いつ現れるか分からないでしょう。お父さんが学校にいる間に来たらどうするの」
佑は少し考えた。
「確かに」
「だから私がついていく」
「授業中も?」
「もちろん」
「職員室も?」
「当然」
「トイレも?」
「ついていかないわよ!」
美沙が即答した。
「母ちゃんを何だと思ってるの!」
「いや、ずっと護衛するって言うからさ」
佑は笑った。
彼が顔を上げる。
「何の話だ?」
「母ちゃん、今日から父ちゃんについて学校行くって」
「……学校に?」
「護衛だって」
彼はしばらく考えた。
「そうか」
そして、少し困ったように笑った。
「授業中は静かにしててくれよ」
「当たり前でしょう!」
美沙は胸を張った。
「私はお父さんを守りに行くんだから!」
佑がその言葉を伝えると、彼は穏やかに頷いた。
「ありがとう、美沙」
美沙は満足そうに微笑んだ。
*
美沙が彼の勤める学校へ来るのは、初めてだった。
校門をくぐると、生徒たちが次々に挨拶してきた。
「柏木先生、おはようございます!」
「おはよう」
「先生、今日の小テストってあります?」
「あるよ。昨日も言っただろう?」
「えー!」
「えー、じゃない。ちゃんと勉強してきたか?」
彼は笑いながら答えていた。
美沙はその横顔を見上げた。
「……へえ」
家にいるときとは、少し違う。
背筋を伸ばし、穏やかな声で生徒たちに話しかける。
その姿が何だか新鮮だった。
「……かっこいいじゃない」
美沙は思わず呟いた。
もちろん、誰にも聞こえない。
職員室へ入ると、今度は同僚の教師たちが彼に声をかけてきた。
「柏木先生、昨日の資料ありがとうございました」
「いえ。役に立ったならよかったです」
「三年生の進路相談、あとでお願いできますか」
「ええ。放課後なら時間がありますよ」
美沙は腕を組んで頷いた。
「頼りにされてるのねえ」
少し誇らしかった。
彼が席につくと、美沙は後ろから机を覗き込んだ。
整然と並べられた書類。
丁寧に書き込まれた授業計画。
赤ペンで添削された生徒の作文。
「相変わらず几帳面ねえ」
昔からそうだった。
何でもきちんと整理する。
美沙が適当に置いたものまで、いつの間にか片づけてしまう。
そのたびに、
『美沙、使ったものは元の場所に戻してくれよ』
と、穏やかに注意されたものだった。
「……懐かしいわね」
美沙は小さく笑った。
*
一時間目。
美沙は教室の一番後ろに立っていた。
黒板の前には彼がいる。
「では、この場面で、主人公は何を後悔しているんだろう」
一人の男子生徒が手を挙げた。
「言いたいことを言わなかったことですか?」
「そうだね。じゃあ、なぜ言わなかったんだと思う?」
「……言ったら、嫌われると思ったから?」
「いいね。そこからもう少し考えてみようか」
彼は黒板に文字を書いた。
白いチョークが迷いなく動く。
美沙は、その姿をじっと見つめていた。
「……へえ」
家では、あまり見せない顔だった。
落ち着いていて、穏やかで。
生徒の答えをすぐに否定せず、考えを引き出そうとする。
「ちょっと、いい先生じゃないの」
美沙は嬉しくなった。
生徒が答えるたびに頷き、彼が説明するたびに感心した。
「そうそう、そういうことよね」
もっとも、国語の授業内容をすべて理解しているわけではない。
途中で難しい話になると、
「……なるほどねえ」
と、分かったふりをした。
誰にも見えていないのだから、問題はない。
授業が終わる頃には、美沙はすっかり満足していた。
「いやあ、いいもの見せてもらったわ」
彼が教室を出ると、美沙もいそいそと後を追った。
廊下では、女子生徒が二人、彼に声をかけていた。
「柏木先生!」
「ん? どうした?」
「先生って、若い頃モテたでしょう?」
美沙の足が止まった。
「……あら?」
彼は困ったように笑った。
「どうだろうなあ」
「絶対モテたって!」
「先生、優しいし!」
「ありがとう。でも、次の授業に遅れるぞ」
「はーい!」
女子生徒たちは笑いながら走っていった。
美沙は腕を組んだ。
「……ふうん」
そして、彼の横顔を見上げる。
「まあ、かっこいいのは認めるけど」
少しだけ唇を尖らせた。
「女子高生にまで褒められなくてもいいじゃない」
もちろん、彼には聞こえない。
美沙はそのまま彼の後を追った。
*
「佑! 聞いて!」
その日の夕方。
帰宅した佑を、美沙は玄関で待ち構えていた。
「うわっ、何だよ」
「お父さん、すっごくかっこよかったの!」
「……は?」
「学校で!」
佑は靴を脱ぎながら母を見た。
「母ちゃん、護衛に行ったんじゃなかったの?」
「行ったわよ!」
「じゃあ、何で父ちゃんの自慢になってんだよ」
「だって、かっこよかったんだもの!」
美沙は嬉しそうに話し始めた。
授業中の様子。
生徒への接し方。
職員室で頼りにされていたこと。
そして、女子生徒から褒められていたことまで。
「……でね、若い頃モテたでしょうって聞かれてたのよ」
「へえ」
「そしたら、お父さん、どうだろうなあ、ですって!」
佑は吹き出した。
「父ちゃんらしいな」
「でしょう!」
「で、母ちゃんは何て?」
「何も言ってないわよ」
「ほんとに?」
「……ちょっとだけ、面白くなかったけど」
「嫉妬してんじゃん!」
「してないわよ!」
美沙は頬を膨らませた。
佑は笑いながら居間へ向かった。
そこでは彼が夕食の支度をしていた。
「父ちゃん」
「何だ?」
「母ちゃん、今日すっげえ楽しそうだったらしいよ」
「そうか」
「授業がかっこよかったって」
彼の手が止まった。
「……そう言ってたのか?」
「うん。女子生徒にモテてたのが気に入らなかったみたいだけど」
「ちょっと佑!」
美沙が慌てる。
彼は目を丸くしたあと、小さく笑った。
「そうか」
その笑顔が、どこか照れくさそうだった。
美沙はますます嬉しくなった。
八年間。
美沙は、彼がどんなふうに仕事をしているのか知らなかった。
生徒たちと笑う姿も。
教壇に立つ姿も。
同僚から頼りにされる姿も。
今日、初めて見た。
自分がいなくなってからも、彼はこうして毎日を生きてきたのだ。
そう思うと、少し胸が苦しくなった。
けれど、それ以上に嬉しかった。
「……明日も行こうかしら」
美沙が呟いた。
「護衛だろ?」
佑が言った。
「もちろんよ!」
美沙は胸を張った。
*
翌日も、美沙は彼について学校へ向かった。
昨日と同じように校門をくぐり、職員室へ入り、授業を見守った。
昨日よりも少し慣れた。
教室のどこに立てば黒板がよく見えるかも分かった。
職員室で彼がどの席に座るのかも覚えた。
何だか、自分まで学校の一員になったような気分だった。
「今日は何の授業かしらねえ」
美沙は楽しそうに彼の後をついていった。
だが、その日の午後。
空気が変わった。
彼が授業を終え、職員室へ戻ろうとしていたときだった。
廊下の向こう。
窓際に、一人の女が立っていた。
美沙は足を止めた。
「……嘘」
小宮だった。
学校にまで来た。
あの女が。
美沙は、一昨日のことを思い出した。
肩を突き飛ばされた感触。
あの、はっきりとした敵意。
小宮は廊下の向こうから、彼を見つめていた。
そして、ゆっくりと歩き始めた。
「……待ちなさい」
美沙は彼と小宮の間に入った。
「ここまで来るなんて、どういうつもり?」
小宮は美沙を見た。
あの夜と同じ目だった。
「どいて」
「嫌よ」
「先生のところへ行くの」
「行かせないわ」
小宮は美沙の肩に手を伸ばした。
美沙は素早くその腕をつかんだ。
「あの夜みたいにはいかないわよ!」
小宮が顔をしかめた。
美沙を押しのけようとする。
美沙も負けずに押し返した。
その横を、彼が通り過ぎていく。
彼には、何も見えていない。
何も聞こえていない。
小宮は彼を追おうとした。
美沙は必死に腕を引いた。
「行かせないって言ってるでしょう!」
小宮の顔が歪んだ。
「……邪魔しないで」
「邪魔してるのは、あなたのほうよ!」
小宮は美沙を睨みつけた。
そして、力任せに腕を振り払った。
美沙がよろめく。
その隙に、小宮は彼の後を追おうとした。
「駄目!」
美沙が再び立ちはだかる。
そのときだった。
小宮の輪郭が、ふっと揺らいだ。
美沙は息を呑んだ。
「……あ」
小宮の姿が薄くなっていく。
その目は、最後まで彼の背中を追っていた。
やがて、完全に消えた。
美沙は廊下に立ち尽くした。
生徒たちが、何も知らずに通り過ぎていく。
窓から差し込む午後の日差し。
遠くで聞こえる笑い声。
いつもどおりの学校だった。
けれど、美沙の胸はざわついていた。
「……学校にまで」
小さく呟く。
家だけではない。
あの女は、彼のいる場所ならどこへでも現れるのかもしれない。
しかも、触れる。
押しのける。
このまま強くなり続けたら、どうなるのだろう。
美沙は廊下の先を見た。
彼の姿は、もう見えなかった。
「……何とかしなくちゃ」
*
放課後。
美沙は彼と一緒に昇降口へ向かっていた。
彼はいつもどおり、穏やかな顔をしている。
今日、廊下で何が起きたのかなど、知るはずもない。
美沙はその横顔を見つめた。
「……本当に、何にも分からないのね」
彼には美沙の声も聞こえない。
小宮の姿も見えない。
あの女がすぐそばにいても、気づくことすらできないのだ。
美沙は胸が苦しくなった。
自分がそばにいなければ、誰が彼を守るのだろう。
そんなことを考えながら校舎を出たときだった。
「あ……」
向こうから歩いてきた男性が、彼を見て足を止めた。
鞄を抱えた、少し猫背の男性だった。
男性は何か言いかけて、口を閉じる。
彼も足を止めた。
「……三浦さん?」
「は、はい。柏木先生。ど、どうも」
男性は慌てて頭を下げた。
「す、すみません。きょ、今日はその、学校に小宮さんの書類を受け取りに……。あ、あの、すぐ帰りますから」
彼は少し驚いたようだったが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「ああ、いえ。三浦さんもお仕事ですから。何も謝らなくても」
「そ、そうですか……」
「それでは、失礼します」
「あ、失礼します……?」
男性はもう一度頭を下げた。
彼は軽く会釈して、そのまま歩き始めた。
美沙は、その場に立ち止まっていた。
「……三浦?」
小宮の書類。
柏木先生。
そして、彼が呼んだ名前。
「……もしかして、小宮の弁護士?」
美沙は振り返った。
三浦と呼ばれた男性は、校舎へ向かって歩いている。
小宮の弁護士なら、あの女の今の様子を知っているはずだ。
美沙は考えた。
小宮の生霊は、学校にまで現れた。
しかも、以前よりずっと強い姿で。
では、本物の小宮はどうしているのだろう。
今も拘束されているはずだ。
生きている人間から、あれほどはっきりした生霊が離れている。
本人が眠っている間だけなのか。
それとも、起きていても現れるのか。
美沙には、何も分からなかった。
「……確かめたいわね」
彼の背中が遠ざかっていく。
三浦は校舎の中へ消えた。
美沙は、二人が向かった方向を交互に見た。
彼について帰るべきだ。
それは分かっている。
けれど、今ここで三浦を見失えば、次にいつ会えるか分からない。
「……ちょっとだけよ」
美沙は呟いた。
小宮が今、どうしているのか。
それを確かめるだけ。
分かったら、すぐに帰ればいい。
美沙はもう一度、彼の背中を見つめた。
「ごめんね。すぐ帰るから」
そして、三浦が消えた校舎の入り口へ向かった。
彼は振り返らなかった。
振り返ったところで、美沙の姿は見えない。
夕暮れの道を、彼は一人で歩いていく。
その背後から、美沙の気配が消えたことにも気づかないまま。




