第十章 見えないもの
第十章 見えないもの
翌朝。
佑が居間へ入ると、父はすでに食卓についていた。
「おはよう」
「おはよう、父さん」
いつもと変わらない声だった。
昨夜のことが嘘のように、父は穏やかな顔をしている。
ただ、目の下には少し疲れが残っていた。
「よく眠れた?」
佑が尋ねると、父は頷いた。
「うん。昨日よりは、少しね」
「そっか」
佑は椅子を引いた。
母は父の隣に立っていた。
昨夜、父に叱られてからというもの、母は妙におとなしい。
父の顔を覗き込んでは、何か言いたそうに口を開き、結局何も言わずに閉じている。
「……母さん」
「な、何?」
「座れば?」
「え?」
「ずっと立ってなくてもいいだろ」
「あ、そうね」
母は父の隣の椅子に腰を下ろした。
もちろん、父にはその姿が見えていない。
佑が椅子を見たことに気づいたのか、父が尋ねた。
「母さん、そこにいるの?」
「うん。父さんの隣」
「そう」
父は隣の椅子へ顔を向けた。
「おはよう、美沙」
「……おはよう」
母は小さな声で答えた。
佑は父に伝えた。
「母さんも、おはようって」
「うん」
父は微笑んだ。
たったそれだけのやり取りなのに、母は泣きそうな顔をしていた。
佑は気づかないふりをして、箸を取った。
しばらくして、父が口を開いた。
「昨日は、心配をかけたね」
「父さんが謝ることじゃないだろ」
「でも、ずいぶん怖い顔をしていたと思うから」
「怖かったよ」
佑は即答した。
「父さんがあんな怒り方するの、初めて見た」
「……そうか」
父は困ったように笑った。
「私も、あんなふうに怒ったのは久しぶりかもしれない」
母が隣で小さくなった。
「……ごめんなさい」
「父さん。母さんが謝ってる」
父は、母の座っている椅子へ顔を向けた。
「美沙。昨日は、言いすぎたかもしれない」
「ううん」
母は首を横に振った。
「お父さんの言うとおりだった。私、また勝手なことしたもの」
佑は、そのまま父に伝えた。
父は黙って聞いていた。
「……そう」
少し間を置いて、父は頷いた。
「帰ってきてくれて、よかったよ」
母が口元を押さえた。
佑は、今度こそ見ないふりをした。
◇
「それでね、昨日のことなんだけど」
食事がひと段落したところで、母が言った。
「小宮のこと?」
「うん。ちゃんと話しておこうと思って」
佑は父に向き直った。
「父さん。母さんが、昨日調べたことを話したいって」
「分かった。聞こう」
父は湯飲みを置いた。
母は、三浦の後を追ったところから順番に話し始めた。
学校で三浦が卒業アルバムを調べていたこと。
その後、小宮との接見についていったこと。
接見が終わってからも、小宮の様子を観察していたこと。
佑は、母の話を区切りながら父へ伝えた。
途中で聞き返したり、説明をまとめたりしているうちに、ずいぶん時間がかかった。
それでも父は、一度も急かさなかった。
「……で、どうだったの?」
母が話し終えると、佑は尋ねた。
「それがね」
母は腕を組んだ。
「何にも分からなかったのよ」
「何にも?」
「普通なの。あの女、普通に過ごしてたの。変なことをしたり、意識を失ったり、何か念じたりする様子もなかった」
「じゃあ、どうやって生霊になってるんだ?」
「それが分からないから困ってるのよ」
母はため息をついた。
「私ね、あの女が何か特別なことをすると、体から抜け出すんじゃないかと思ってたの」
「うん」
「でも、そんな様子はなかった。少なくとも、私が見ていた間はね」
佑は父へ説明した。
「母さん、小宮が何かすると生霊になるんじゃないかと思って見張ってたんだって。でも、特に変わったことはなかったらしい」
「そうなんだ……」
父は少し考え込んだ。
それから、何かを思い出したように顔を上げた。
「……そういえば」
「ん?」
「昨日、変なことがあったんだ」
「変なこと?」
「誰かに、肩を触られたような気がしてね」
佑は箸を置いた。
「ああ、あれか」
「覚えてる?」
「覚えてるよ。急に振り返って、母さんがいるかって聞いたじゃないか」
「うん」
父は自分の肩に手を置いた。
「確かに、誰かが触ったような気がしたんだ。肩から腕にかけて、手が動いたような……」
そのとき、母が立ち上がった。
「……いつ?」
佑は母を見た。
「何が?」
「何時頃だったの、それ」
「父さん、何時頃だった?」
「七時くらいだったかな」
母の顔色が変わった。
「七時……」
「どうした?」
「……私じゃないわ」
佑は母を見つめた。
「え?」
「私、その時間は小宮のところにいたもの」
佑の背筋が冷たくなった。
昨夜、父が肩を触られたと言ったとき、佑は母が帰ってきたのかもしれないと思った。
けれど、母はその場にいなかった。
ならば。
「……父さん」
「どうした?」
「母さん、七時には小宮のところにいたって」
父の手が止まった。
「……そうか」
母は父の肩をじっと見つめていた。
「それ、小宮よ」
佑は母を見た。
「……小宮?」
「十中八九、あの女だと思う」
佑は父に向き直った。
「父さん。母さん、小宮だった可能性が高いって」
父はしばらく黙っていた。
やがて、肩に置いていた手をゆっくり下ろした。
「……小宮さんが?」
「うん」
「でも、小宮さんは拘束されているんだろう?」
「だから、生霊なんだよ」
佑は答えた。
「体はそこにいても、別の場所に現れるんだろ」
「……そうだったね」
父は、もう一度自分の肩を見た。
佑も、そこへ目を向けた。
昨夜、父の肩に何かが触れた。
母ではない。
生霊の小宮が、父に触れたのだとしたら。
佑は無意識に両手を握りしめていた。
「……まずいわね」
母が呟いた。
「何が?」
佑が尋ねる。
「前にも話したでしょう。小宮の姿が、だんだんはっきりしてきてるって」
「うん」
「最初は、ぼんやりしてたのよ。顔もよく見えなかった」
母は指を折りながら続けた。
「それが、だんだん普通の人間みたいに見えるようになって。声もはっきり聞こえるようになって」
そして、手を止めた。
「この前なんて、私を突き飛ばしたの」
佑は父を見た。
「父さん。母さん、小宮の生霊がどんどんはっきりしてきてるって。それに、前に母さんを突き飛ばしただろ」
「ああ……そうだったね」
「私も、あの女の腕をつかめた。前は触ろうとしても、すり抜けてたのに」
佑はそれも伝えた。
「母さんも、小宮の腕をつかめたんだって。前は触れなかったのに」
父はしばらく考え込んだ。
「……つまり、小宮さんの生霊は、以前よりも強くなっているということかな」
佑は母を見た。
「そういうこと?」
「そう。たぶん、どんどん強くなってる」
「父さん、母さんもそう思うって」
父は頷いた。
佑は腕を組んだ。
「でも、何でだ?」
「分からない」
「本人が何かしてるわけでもないんだろ?」
「少なくとも、昨日はね」
「じゃあ、勝手に強くなってるってこと?」
母は答えなかった。
佑も、それ以上は聞けなかった。
今まで、小宮の生霊は母にしか見えなかった。
父にも、佑にも、その姿は見えない。
それなのに、父には触れられるようになっている。
母がいない間に、また現れたら。
そのとき、何が起こるのだろう。
「……これ、どうすりゃいいんだ?」
佑が呟くと、父は食卓の上で手を組んだ。
「警察に相談する、というわけにもいかないね」
「生霊が出ますって?」
佑は苦笑した。
「信じてもらえないだろうな」
「そもそも、私には見えないしね」
父も困ったように笑った。
母は、その顔を見つめていた。
「私が、ずっとお父さんについてれば……」
佑は母を見た。
「母さんが、ずっと父さんについてればいいんじゃないかって」
父は小さく息を吐いた。
「佑。母さんに伝えてくれるか」
「何?」
「昨日の話を、もう一度しなければならないかな、と」
佑は母を見た。
「……だってさ」
「う……」
「母さん、また怒られるぞ」
「分かってるわよ」
母は頬を膨らませた。
佑は思わず笑った。
その笑い声を聞いて、父も少し表情を緩めた。
けれど、その笑みは長く続かなかった。
「……本当に、どうしたらいいんだろうね」
父が呟いた。
佑は母を見た。
母は首を横に振った。
「……私にも分からない」
佑は、その言葉を父に伝えた。
小宮の生霊は、少しずつ強くなっている。
その理由も、止め方も分からない。
そして、次に何ができるようになるのかも。
三人は、冷めかけた朝食を前に、しばらく黙っていた。
◇
三浦は、机の上に並べた資料を見つめていた。
学校関係者から聞き取った内容。
卒業アルバムの記録。
小宮の供述。
佑への殺人未遂事件に関する捜査資料。
どれも、何度も読み返していた。
いや、正確には、読み返す必要などなかった。
三浦は、一度見たものをほとんど忘れない。
卒業アルバムに写っていた生徒の顔も、教員の立ち位置も、文化祭の看板に書かれた文字も。
尋ねた相手が、どんな言葉を使って答えたかも。
すべて、頭の中に残っていた。
それなのに。
「……おかしいな」
三浦は小さく呟いた。
調べれば調べるほど、分からなくなっていた。
小宮は言った。
柏木先生は、自分を頼っていた。
奥様がいなくなってから、ずっと自分が支えてきた。
そして、二人の関係を佑が反対していた。
だから、柏木先生は困っていたのだと。
三浦は、その話を信じた。
小宮は昔から、成績がよく、真面目で、面倒見のいい人だった。
少なくとも、三浦が知っている小宮はそうだった。
そんな彼女が、何の理由もなく人を襲うはずがない。
きっと、何か事情があったのだ。
そう考えて、調べ始めた。
けれど。
「……普通の同僚、か」
三浦は、聞き取った言葉を思い返した。
◇
「柏木先生と小宮先生ですか?」
かつて同じ学校に勤めていた教員は、少し考えてから答えた。
「普通の同僚でしたよ」
「そ、その……特別に親しかったとか、そういうことは?」
「特別?」
「は、はい。たとえば、交際していたとか……」
相手は目を丸くした。
「えっ、あの二人が?」
三浦は慌てて手を振った。
「あ、いえ! そういう話を聞いたというわけではなくて、確認を……」
「いやあ、聞いたことないですね」
教員は首を横に振った。
「小宮先生が柏木先生を慕っていたのは、知ってますけど」
「……慕っていた?」
「ええ。仕事熱心な先生でしたからね。柏木先生の仕事も、よく手伝っていましたよ」
三浦はメモを取った。
「柏木先生のほうは、どうでしたか?」
「どう、というと?」
「小宮先生に対して、特別な感情があったようには……」
「さあ。少なくとも、そういう話は聞いたことがありません」
相手は少し笑った。
「柏木先生、誰にでも丁寧な方ですから」
◇
別の教員も、似たようなことを言った。
「小宮先生は、柏木先生の授業の準備なんかも手伝ってましたね」
「そ、それは柏木先生から頼まれて?」
「いや、どうだったかな。小宮先生のほうから声をかけていたような気がしますけど」
「柏木先生は、喜んでいましたか?」
「助かるとは言ってましたよ」
三浦は顔を上げた。
「……そうですか」
「でも、ほかの先生に手伝ってもらったときも同じことを言ってましたね」
「……あ」
教員は不思議そうに三浦を見た。
「それが何か?」
「い、いえ。ありがとうございます」
◇
三浦は机に肘をついた。
誰に聞いても、似たような答えだった。
小宮が柏木を慕っていた。
小宮が柏木の仕事を手伝っていた。
柏木はそれに礼を言っていた。
けれど、それ以上の話が出てこない。
小宮の言う、特別な関係。
その存在を示すものが、どこにもなかった。
卒業アルバムも同じだった。
八年分。
何百枚もの写真。
同じ教員として、二人が写っている写真は何枚もあった。
けれど、二人が親密に見える写真は、あの一枚だけだった。
文化祭の出し物で、生徒たちに頼まれて撮った写真。
タキシード姿の柏木と、ドレス姿の小宮。
小宮は、あの写真を嬉しそうに語っていた。
まるで、二人の結婚写真でもあるかのように。
けれど、三浦の記憶に残っている柏木の顔は、少し違っていた。
笑ってはいた。
しかし、どこか困ったような表情だった。
周囲の生徒に促され、断りきれずに立っているようにも見えた。
「……いや」
三浦は首を横に振った。
写真一枚で、人の気持ちは決められない。
たまたま緊張していたのかもしれない。
人前で親密に振る舞うのが苦手だったのかもしれない。
そう考えることもできた。
だが。
「……それなら」
三浦は呟いた。
「ほかの写真は、どうしてないんだろう」
八年間。
長い時間だ。
その間、本当に二人が交際していたのなら。
仕事以外で会ったこともあるだろう。
一緒に出かけたこともあるだろう。
少なくとも、何かひとつくらいは、二人の関係を示すものが残っていてもおかしくない。
けれど、小宮は何も出せなかった。
個人的な写真もない。
手紙もない。
親密なやり取りを示す記録もない。
交際していたと証言する人もいない。
三浦は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
「……どういうことなんだ」
もちろん、証拠が見つからないからといって、交際していなかったと断定できるわけではない。
秘密の関係だった可能性はある。
小宮も、そう説明していた。
だが、秘密だったのなら。
なぜ小宮は、柏木が息子の反対に困っていたと言ったのだろう。
佑は、何を知っていたのだろう。
三浦は、小宮との接見を思い返した。
『私とのことを息子さんに反対されて、困っていたのよ』
『佑君が、反対していると聞いたの?』
『聞かなくても、態度を見れば分かるわ』
あのときは、深く考えなかった。
小宮がそう感じていたのなら、何か理由があるのだろうと思った。
だが今は、その言葉が気になった。
「……聞いていない?」
三浦は呟いた。
佑が反対していると、誰かから聞いたわけではない。
柏木から相談されたわけでもない。
ただ、態度を見て分かったという。
それは、小宮自身の判断だ。
では、柏木が困っていたというのは。
何を根拠に、そう言っていたのだろう。
三浦は手元の資料を見た。
佑への殺人未遂事件。
小宮は、殺すつもりはなかったと言っている。
柏木先生と話をしたかっただけだと。
けれど、録音には残っていた。
『今度はあんたの番』
そして、カッターナイフを持って佑を追いかけた事実もある。
三浦は、その言葉を何度も思い返した。
小宮は、佑が柏木におかしなことを吹き込んだからだと言った。
しかし、何を吹き込んだというのだろう。
それを聞いた柏木は、どうしたのだろう。
小宮は、柏木が自分との関係に困っていたと言う。
けれど、その関係自体を示すものが見つからない。
「……待ってください」
三浦は、誰もいない事務所で呟いた。
自分は、何を前提に調べていたのだろう。
柏木と小宮は、互いに想い合っていた。
佑が、その仲を認めなかった。
だから小宮は追い詰められた。
そういう順番で、考えていた。
だが。
最初の一つが違っていたら。
柏木と小宮が、ただの同僚だったとしたら。
佑が反対していたという話も、まったく違った意味になる。
三浦は、机の上の資料を見つめた。
どれだけ読み返しても、そこに答えはなかった。
小宮の言葉は、はっきり覚えている。
関係者の証言も、一言一句思い出せる。
卒業アルバムの写真も、頭の中に並べられる。
なのに、それらをどう結びつければいいのか分からない。
記憶することは、得意だった。
人の言葉を疑うことは、苦手だった。
そして、何より。
小宮を疑わなければならないことが、つらかった。
「……小宮さん」
三浦は小さく名前を呼んだ。
昔、自分に優しくしてくれた人。
困っているとき、何度も助けてくれた人。
その人が今、自分を頼っている。
助けたい。
それは変わらなかった。
けれど、助けるためには、事実を知らなければならない。
小宮が語ったことだけでは、裁判で通用しない。
まして、事実と違う話を前提に弁護を組み立てれば、かえって小宮を不利にするかもしれない。
三浦は眼鏡をかけ直した。
机の上には、まだ調べるべきことが山ほど残っていた。
柏木が小宮をどう思っていたのか。
佑が何を知り、何を言ったのか。
事件の直前、何があったのか。
そして、小宮が佑を狙った本当の理由は何なのか。
三浦は、深く息を吐いた。
「……どうすれば、いいんだろう」
◇
その頃。
柏木家では、佑が携帯電話を眺めていた。
生霊。
幽体離脱。
除霊。
思いつく言葉を検索してみたものの、どれも今の状況に当てはまるのか分からなかった。
父は向かいの席で、考え込んでいる。
母はその隣で、父の肩をじっと見つめていた。
そこには何も見えない。
けれど、昨夜は確かに何かが触れたのだ。
佑は携帯電話を伏せた。
「……分かんないな」
「何か見つかった?」
父が尋ねた。
「いや、全然」
母も首を横に振った。
三人の誰にも、答えはなかった。
小宮の生霊を、どうすれば止められるのか。
その頃、三浦もまた、小宮と柏木の関係を裏づける証拠を見つけられずにいた。
見えない生霊。
見つからない証拠。
そして、誰にも分からない小宮の本心。
それぞれ別の場所で、同じ問いを抱えていた。
どうすればいいのだろう、と。




