第十一章 対生霊作戦
第十一章 対生霊作戦
朝食を終えたあと、柏木家では緊急家族会議が開かれた。
場所はリビング。
出席者は三名。
ただし、そのうち一名は幽霊である。
「で、どうする?」
佑が尋ねると、父は難しい顔をした。
「どうする、と言われてもね」
「昨日みたいに、また小宮が来るかもしれないんだぞ」
「それは分かっているよ」
父は湯飲みを両手で包み込んだ。
昨夜も、小宮の生霊は現れた。
母にしか見えないその姿は、以前よりもはっきりしていたという。
父の肩に触れ、腕をなぞった指。
父自身には何も見えない。それなのに、触れられた感覚だけが残った。
母は必死に追い払おうとしたが、小宮はなかなか離れようとしなかったらしい。
このままでは済まない。
それだけは、三人とも分かっていた。
「やっぱり、お祓いとか?」
佑が言った。
父が顔を上げる。
「お祓い?」
「神社とかでやってもらうやつ。悪いものを追い払うっていう」
「そうだね……」
父はそこで言葉を切った。
そして、母が座っている椅子に目を向けた。
正確には、母がいると佑から聞かされている場所へ。
「でも、それをすると……」
「ん?」
「母さんまで、いなくなったりしないだろうか」
佑は口を閉じた。
考えていなかった。
いや、考えたくなかったのかもしれない。
幽霊を追い払う。
その言葉だけを聞けば、小宮だけでなく母も対象になるのではないか。
「……それは困るな」
「困るよ」
父は即答した。
その声が思った以上に真剣だったので、佑は少し驚いた。
「ようやく帰ってきてくれたんだ。もし、それで母さんまでいなくなったら……」
父は言葉を続けなかった。
湯飲みの中で、冷めかけたお茶が小さく揺れた。
母は黙って父を見ていた。
「じゃあ、お札は?」
佑が別の案を出した。
「玄関とか、父さんの部屋とかに貼っておくんだよ。悪い霊が入れないように」
「それも同じじゃないかな」
「ああ……そうか」
また行き詰まった。
母を失いたくない。
でも、小宮を放っておくわけにもいかない。
佑は腕を組んだ。
「だったら、母さんに見張っててもらうしかないか」
「そうだね。小宮さんが来たら知らせてもらって……」
「ちょっと待ちなさい」
母が口を開いた。
佑は顔を向ける。
「何?」
「何じゃないわよ。あんたたち、さっきから何を言ってるの?」
「いや、だから対策を……」
「私が消えるかもしれないから、お祓いもお札もやめるって?」
「だって、母ちゃんまでいなくなったら困るだろ」
「困るのはこっちよ!」
母が立ち上がった。
勢いがよすぎて、椅子が倒れそうになった。
もちろん、倒れなかった。
幽霊なので。
「私のことを心配して、あんたたちに何かあったらどうするの!」
佑は思わず背筋を伸ばした。
「小宮が何をするか分からないんでしょう? お父さんに触れるようになったのよ。次は突き飛ばすかもしれない。首を絞めるかもしれない!」
「母ちゃん……」
「佑だってそうよ。あの女、あんたを殺そうとしたんでしょう!」
母の声が震えた。
怒っている。
けれど、それだけではなかった。
「私はもう死んでるの」
母は、はっきりと言った。
「でも、あんたたちは生きてるのよ」
佑は何も言えなかった。
「私が消えるかもしれないからって、二人が危ない目に遭うのを黙って見てろっていうの?」
母は父のほうを向いた。
「そんなの、絶対に嫌だからね」
父には聞こえない。
それでも母は、父に向かって言った。
「私のために、危ないことを我慢しないで」
佑はしばらく黙っていた。
それから、父に伝えた。
「……母さんがさ」
「うん」
「自分のことを心配して、俺たちが危ない目に遭うのは絶対に嫌だって」
父は静かに聞いていた。
「自分はもう死んでるけど、俺たちは生きてるんだから、ちゃんと守る方法を考えろって」
「……そうか」
「お祓いでもお札でも、できることはやれって」
父は目を伏せた。
長い沈黙のあと、小さく息を吐いた。
「母さんらしいね」
母が腕を組んだ。
「当たり前でしょ」
父は少しだけ笑った。
「分かった。じゃあ、やってみよう」
「いいの?」
「怖くないと言えば嘘になるけどね」
父は、母のいる場所に向き直った。
「君の言うとおりにするよ」
母は一瞬、泣きそうな顔になった。
けれど、すぐに胸を張った。
「よろしい」
佑はそれを父に伝えるべきか少し迷い、やめておいた。
*
こうして、柏木家の対生霊作戦が始まった。
父の担当は、お祓い。
佑の担当は、お札の調達。
母の担当は、留守番である。
「なんで私だけ留守番なのよ」
「母ちゃん、神社に行って大丈夫なのか分かんないだろ」
「それはそうだけど」
「お祓いの途中で消えたら大変だし」
「……それはちょっと嫌ね」
母は渋々納得した。
父は事前に問い合わせた神社へ向かい、佑は別の神社へ足を運んだ。
境内には、七五三らしい親子連れがいた。
小さな子供が晴れ着姿で走り回り、母親に注意されている。
平和だ。
佑はしみじみ思った。
世の中には、生霊に悩まされていない家庭のほうが圧倒的に多いのだろう。
授与所の前に立ち、お札を選ぶ。
家内安全。
厄除け。
災難除け。
どれが生霊に効くのだろう。
佑はしばらく悩んだ末、厄除けのお札を受けた。
小宮の生霊が厄に分類されるのかどうかは知らない。
ただ、今の柏木家にとっては、間違いなく厄介な存在だった。
帰宅すると、母が玄関まで迎えに来た。
「おかえり。買えた?」
「買ってきたよ」
佑は袋からお札を取り出した。
「これ」
「ひゃっ!」
母が飛び退いた。
佑は固まった。
母も固まった。
しばらく、二人で顔を見合わせた。
「……母ちゃん?」
「な、何よ」
「今、逃げた?」
「逃げてないわよ」
「いや、明らかに飛び退いたよね」
「急に出すからびっくりしただけ!」
佑はお札を少し持ち上げた。
母が半歩下がる。
「……怖いの?」
「怖くない!」
「じゃあ、近づけてもいい?」
「ちょっと待ちなさい」
「怖いんじゃん」
「違うわよ!」
母は深呼吸するように胸を上下させた。
幽霊に呼吸が必要なのかは分からない。
「そもそも私、悪霊じゃないんだからね!」
「うん。それは知ってる」
「だったら平気に決まってるでしょ!」
母は意を決したように、お札の前に立った。
佑がそっと近づける。
母は目をぎゅっと閉じた。
一秒。
二秒。
三秒。
「……どう?」
佑が尋ねた。
母は片目を開けた。
「……何ともない」
「だね」
佑はお札を見た。
母もお札を見た。
「効いてないってこと?」
「母ちゃんにはね」
「そうよね。私、悪霊じゃないもの」
母は急に得意げになった。
「ほらね!」
「いや、さっきまでめちゃくちゃ怖がってたじゃん」
「怖がってません!」
母はぷいと横を向いた。
佑は笑いながら、お札を父の部屋へ持っていった。
*
夕方、父が帰宅した。
玄関の扉が開くなり、佑と母はそろって出迎えた。
「父さん、おかえり」
「おかえりなさい!」
「ただいま」
父は靴を脱ぎながら、少し緊張した様子で佑を見た。
「……母さんは?」
「いるよ。ここ」
佑が隣を指さす。
父の肩から、目に見えて力が抜けた。
「そうか」
「おかえりなさいって言ってる」
「うん。ただいま」
父は母のいる場所へ、穏やかに笑いかけた。
母も笑った。
その顔を見て、佑もようやく安心した。
「お祓い、どうだった?」
「きちんとしていただいたよ」
「何か変わった?」
「特には」
「体が軽くなったとか」
「……気持ちは少し落ち着いたかな」
父は考えながら答えた。
「それより、母さんが無事でよかった」
佑は母を見た。
母は、何とも言えない顔をしていた。
「……本当に、心配性なんだから」
その声は少しだけ嬉しそうだった。
夕食のあと、三人で父の部屋を確認した。
お札は部屋の入口近くに置いてある。
佑は腕を組んだ。
「これで小宮が入ってこられなければいいんだけど」
「そうだね」
「母ちゃんは何ともないし」
「それが何よりだよ」
父は本当に嬉しそうだった。
母が照れくさそうに笑う。
「大げさなんだから」
佑はその言葉を父に伝えた。
父は微笑んだ。
「大げさでもいいよ」
それから、少し真面目な顔になった。
「今夜も、三人でここにいようか」
「うん」
佑は頷いた。
母も頷いた。
その夜、父の寝室には、再び家族三人が揃った。
*
夜が更けた。
父はベッドで眠り、佑は床に敷いた布団に横になっていた。
母は窓際に立っている。
眠る必要がない母は、今夜も見張り役だった。
「母ちゃん」
佑は小声で呼びかけた。
「何?」
「何かあったら、すぐ起こしてよ」
「分かってるわよ」
「無理して一人で何とかしようとしないで」
「はいはい」
「本当に」
「分かってるってば」
母は笑った。
「ほら、あんたは寝なさい」
佑は目を閉じた。
お祓いも済んだ。
お札もある。
母も無事だった。
これで少しは安心できる。
そう思いたかった。
どれくらい時間が経っただろう。
「……佑」
母の声がした。
佑は目を開けた。
母が窓際から動かず、部屋の入口を見つめている。
「母ちゃん?」
「来た」
佑の眠気が一瞬で消えた。
「小宮?」
母は頷いた。
佑には何も見えない。
けれど、母の視線は確かに何かを追っていた。
入口から、部屋の中へ。
そして、父のベッドへ。
「……入ってきたの?」
「うん」
佑は入口に置いたお札を見た。
何も変わっていない。
「お札は?」
「知らないわよ。普通に入ってきたわ」
「ええ……」
母の表情が険しくなる。
「また、お父さんのところへ行こうとしてる」
「父さん!」
佑は慌てて立ち上がり、父の肩を揺すった。
「父さん、起きて!」
「……ん、どうした?」
「小宮が来た!」
父はすぐに身を起こした。
母はベッドの反対側へ回り込んだ。
「近づかないで!」
その声は小宮に向けられている。
佑には、母が誰もいない空間を睨みつけているようにしか見えなかった。
「母さん、どうなってる?」
「……いる」
「どこ?」
「お父さんのすぐそば」
佑は父の腕を引いた。
「父さん、こっち!」
父がベッドから離れる。
母の視線が動いた。
「……追ってくる」
「お祓いしたのに?」
「してもらったよ」
父が困惑した声で答える。
「お札もあるのに?」
「あるね」
母は小宮を睨んだまま言った。
「……全然、効いてないじゃない」
佑は父を見た。
父も佑を見た。
それから二人で、お札を見た。
佑は小さく呟いた。
「……何だったんだ、今日の努力」
母が振り返った。
「ちょっと!」
「何?」
「お祓いって、お金払ったんでしょう?」
「うん」
「お札も?」
「うん」
母は少し考えた。
そして、真剣な顔で言った。
「……返金してもらえないかしら」
佑は思わず吹き出した。
「母ちゃん、今それ言う?」
「だって、効いてないじゃない!」
「いや、神社にそんなこと言えないだろ!」
「何よ、安くないんでしょう!」
父が不思議そうに尋ねた。
「母さん、何て?」
「……お金返してもらえないかって」
父は一瞬、ぽかんとした。
それから、堪えきれずに笑った。
「はは……母さんらしいな」
「笑い事じゃないわよ!」
母は頬を膨らませた。
だが、すぐに表情を引き締めた。
その視線が、再び父の背後へ向く。
「……まだいる」
佑の笑いが止まった。
父も口を閉じた。
母はゆっくりと二人の前に立った。
「お祓いが効かないなら、仕方ないわね」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
「私が見てるしかない」
「母ちゃん……」
「大丈夫」
母は振り返らなかった。
「今度こそ、絶対に近づけないから」
佑には、小宮の姿が見えない。
父にも見えない。
ただ、母だけがその姿を見据えている。
お祓いも、お札も役には立たなかった。
それでも、佑は思った。
何も見えないこの部屋で、父と自分の前に立っている母の背中だけは、確かに見えている。
そして今夜も、母はそこにいた。




