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続・母ちゃんが、いる。  作者: もちむぎ


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第十二章 残された痕跡

第十二章 残された痕跡


 小宮奈緒の初公判の日程が決まった。


 罪名は、柏木佑に対する殺人未遂。


 八年前に失踪し、白骨遺体となって発見された柏木美沙の殺害については、起訴が見送られている。


 捜査が終わったわけではない。


 ただ、犯人を法廷へ連れていくための証拠が、まだ足りなかった。


 岡崎は机に広げた資料を見下ろし、小さく息を吐いた。


「……また振り出しか」


 向かいの席で書類を整理していた野上が顔を上げる。


「離婚届の件ですか」


「ああ」


 岡崎は鑑定結果の報告書を指先で叩いた。


 六年前、柏木の自宅に郵送されてきた離婚届。


 差出人の名前はなかった。


 妻が突然姿を消して二年。生死さえ分からない夫のもとへ、唐突に届けられた書類だった。


 美沙の遺体が発見されたあと、警察はその筆跡を調べた。


 結果は、美沙本人の筆跡とは一致しないというものだった。


 さらに、小宮の筆跡と共通する特徴が複数認められた。美沙の文字に似せて書かれた可能性も指摘されている。


 だが、小宮が書いたと断定するには至らなかった。


 そこで岡崎たちは、保管されていた離婚届と封筒について、指紋の検出を改めて依頼した。


 その結果が届いたのは、今朝のことだった。


「小宮の指紋は出なかった」


「はい」


「美沙さんの指紋も出なかった」


「ええ」


「六年前の紙だからな。検出できなかったからといって、誰も触っていないことにはならん」


 岡崎は椅子の背にもたれた。


「なあ、野上」


「はい」


「手袋して離婚届を書くか?」


 野上は一瞬、考えるような顔をした。


「私、離婚届を書いたことありませんけど」


「そうか。婚姻届もまだだったな。ははは」


「それ、セクハラですよ」


「……すまん」


「いいです」


 野上はあっさり答え、報告書へ視線を戻した。


「手袋をして書くとしたら、外で寒くて仕方がなかった場合でしょうか」


「外で離婚届を書くのか?」


「例えば、です。それに、書いた人物を知られたくなかった可能性もあります」


「なるほどな」


「ただ、指紋が出なかった理由が手袋とは限りません。時間も経っていますし、紙の保管状態にも左右されます」


「そうだな」


 岡崎は腕を組んだ。


 野上は続けた。


「それより、重要なのは筆跡のほうです。少なくとも、美沙さん本人が書いたという説明には無理があります」


「ああ」


 岡崎は机の上の写真へ目を落とした。


 そこには、発見された当時の白骨遺体の状況が記録されていた。


「……奴さんは、その頃には冷たい土の中だった」


 野上は何も言わなかった。


 六年前、美沙はすでに亡くなっていた。


 夫に離婚届を送ることなど、できるはずがなかった。


 誰かが美沙の名前を使い、夫との関係を終わらせようとした。


 それだけは確かだった。


「小宮が書いたとして、目的は何でしょう」


 野上が尋ねた。


「柏木さんに、美沙さんを諦めさせるためか」


「そう考えるのが自然ですが、妙ですよね」


「何がだ」


「失踪して二年も経ってから送っているんです。もっと早くてもよかったはずです」


「……確かにな」


「それに、離婚届が届いたところで、柏木さんが署名して提出するとは限りません」


「実際、提出しなかった」


「はい」


 岡崎はしばらく黙った。


 小宮の行動には、理解しがたい部分が多い。


 柏木への執着。


 妻の失踪後、同僚という立場で近づき続けたこと。


 そして、佑に刃物を向けたこと。


 すべてが一本の線でつながっているように思える。


 だが、思えるだけでは足りない。


「車のほうは?」


 岡崎が尋ねると、野上は別の資料を取り出した。


「当時の所有状況について、確認できた範囲をまとめました」


 八年前、美沙が失踪した夜。


 酒を飲んで帰宅途中だった会社員が、女性が車に乗り込むところを目撃していた。


 しかし、車のナンバーは覚えていない。


 運転手の顔も見ていない。


 その女性が美沙だったと断定できるほど、鮮明な目撃証言でもなかった。


 一方、小宮は事件後、所有していた車を早い時期に処分していた。


 その事実は確認できた。


 だが、車そのものは残っていない。


 廃車に関する古い記録も、すべてが揃っているわけではなかった。


「処分した時期は気になるな」


「ええ。ただ、本人は車の買い替えだったと説明しています」


「それだけじゃ追及できん」


「目撃者の話とも、直接は結びつきません」


「車の色や形は?」


「当時の証言からは、そこまで絞れません」


 岡崎は鼻から長く息を吐いた。


「怪しいことばかり増えるな」


「そうですね」


「だが、怪しいだけじゃ人は裁けん」


「はい」


 野上は静かにうなずいた。


 以前の彼女なら、何か答えを出そうと焦っていたかもしれない。


 自分が女だから軽く見られるのではないか。


 人一倍成果を出さなければ認められないのではないか。


 そんな思いに駆られて、判断を誤ったことがある。


 岡崎に叱られた。


 いや、叱られたというより、突き放された。


 自分で考えろ。


 あの言葉は、今でも覚えている。


 だからこそ、野上は安易に結論を急がなくなった。


「岡崎さん」


「ん?」


「離婚届の件、もう一度、送られた時期を中心に調べてみませんか」


「時期?」


「はい。なぜ失踪直後ではなく、二年後だったのか。そこに何か事情があったのかもしれません」


 岡崎は野上を見た。


「何か心当たりがあるのか」


「いいえ。まだありません」


「ないのか」


「ありません。でも、理由がないと決めつけるのも早いと思います」


 岡崎は少しだけ口元を緩めた。


「そうだな」


 野上は資料を閉じた。


「柏木さんにも、当時のことをもう一度聞いてみます」


「ああ。ただし、無理はさせるなよ」


「分かっています」


 岡崎は机の上の写真を一枚手に取った。


 生前の美沙が写っている。


 ごく普通の、穏やかな笑顔だった。


 この女性は、八年前の夜に何が起きたのか。


 誰と会い、どこへ向かい、なぜ帰ってこなかったのか。


 答えを知っている人間は、いるはずだった。


 岡崎は写真を手帳の間に挟んだ。


「……まだ終わらせんぞ」


「はい」


 野上の返事に、迷いはなかった。


     *


 三浦は接見室の椅子に座り、膝の上の資料を揃えた。


 向かい側の扉が開き、小宮奈緒が入ってくる。


「先生。今日は何のお話ですか」


「こ、公判の日程が決まりましたので、そのご説明と……もう一つ、確認したいことがありまして」


「また確認ですか」


 小宮は椅子に腰を下ろした。


「何度もお話ししていると思いますけど」


「す、すみません。ただ、裁判に向けて、どうしても必要なことなんです」


 三浦は資料を開いた。


「柏木さんとの関係を裏づけるものが、何か残っていませんか」


「裏づけるもの?」


「はい。手紙や、写真、贈り物などです」


 小宮は眉を寄せた。


「写真なら、学校のアルバムにあるでしょう」


「学校行事の写真は確認しました。ただ、お二人が特別な関係にあったと示せるものは見つかっていません」


「だから、そういう関係だったんですってば」


「そ、それを裁判で説明するためにも、客観的な資料が必要なんです」


「私の話じゃ駄目なんですか?」


「駄目ということではありません。ただ、相手の方が関係を否定している以上、言葉だけでは――」


「柏木先生は、そういう人なんです!」


 小宮の声が強くなった。


 三浦は口を閉じた。


「何度も言ってますよね。あの人は、自分の気持ちを簡単に表に出す人じゃないんです」


「……はい」


「だから、手紙なんて書かないし、写真だってわざわざ二人で撮ったりしません」


 三浦は慎重に言葉を選んだ。


「で、では、何か贈られたものはありませんか。小さなものでも構いません」


「もう!」


 小宮は苛立ったように息を吐いた。


「物とか、そういうのを贈る人じゃないんです!」


 そう言って、胸元をぎゅっと握った。


 三浦の視線が止まった。


 小宮はすぐに手を離したが、その動きは三浦の目に鮮明に残った。


 胸元を握る。


 何かを押さえるように。


 何かを守るように。


 その瞬間、三浦の頭の中を、八年分の学校のアルバムが駆け巡った。


 文化祭。


 体育祭。


 入学式。


 卒業式。


 教職員と生徒たちが並ぶ集合写真。


 ページをめくるたびに目にしていた光景が、まるでスライドを映すように、次々と浮かび上がる。


 その中に、小宮がいた。


 笑っている写真。


 生徒の隣に立っている写真。


 何気なくカメラのほうを向いている写真。


 そして、何枚もの写真で、小宮は胸元に手を添えていた。


 今と同じ仕草だった。


 三浦は記憶の中で、その写真を一枚ずつ確かめた。


 小宮と柏木が二人きりで写っている写真は、一枚もない。


 だが。


 小宮が胸元に手を添えている写真には、必ず柏木も写っていた。


 すぐ隣にいることもあれば、何人もの生徒を挟んで離れていることもある。


 画面の端に、ほんの小さく姿が見えるだけの写真もあった。


 それでも、同じ画角の中に柏木がいる。


 反対に、柏木が写っていない写真では、あの仕草をしていなかった。


 少なくとも、三浦が思い出せる限りでは。


「先生?」


 小宮の声で、三浦は我に返った。


「あ……す、すみません」


「ちゃんと聞いてました?」


「はい。もちろんです」


 三浦は手元の資料に目を落とした。


 胸元に手を添える仕草。


 柏木が写っている写真。


 その二つに、何か関係があるのだろうか。


 偶然かもしれない。


 単なる癖かもしれない。


 今ここで尋ねても、小宮が素直に答えるとは限らなかった。


「小宮さん」


「何ですか」


「今日は、ありがとうございました。お話しいただいたことを整理して、またご相談します」


「……先生、本当に分かってくれてるんですか?」


 三浦は顔を上げた。


「何を、でしょうか」


「私と柏木先生のことです」


 三浦はすぐには答えられなかった。


 小宮は不満そうに唇を結んだ。


「みんな、何も分かってないんです」


「……そうですか」


「柏木先生だって、きっと困ってるんです。周りが余計なことばかり言うから」


 三浦はその言葉を聞きながら、もう一度、記憶の中の写真を思い浮かべていた。


 胸元に手を添えた小宮。


 その向こうに写る柏木。


 何枚も。


 何年にもわたって。


 やがて接見時間が終わった。


 小宮が職員に促されて部屋を出ていく。


 三浦は一人、椅子に座ったまま手帳を開いた。


 そして、短く書き込んだ。


 ――胸元に手を添える仕草。


 ――柏木と同じ写真に写っているとき。


 ペンを置く。


 何かがある。


 そう思った。


 けれど、何があるのかは分からない。


 三浦は手帳を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。


 もう一度、アルバムを確認しなければならない。


 今度は、写真の中の小宮をよく見るために。

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