第五章 食い違う証言
第五章 食い違う証言
三浦は、職員室の隅に用意された椅子に腰掛け、膝の上で鞄を開いた。
取り出したのは、一冊の手帳だった。
小宮の弁護を引き受けてから、何度も読み返している手帳である。
そこには、小宮自身が語った柏木との関係が、日付とともに細かく記されていた。
いつ頃から親しくなったのか。
どのような言葉を交わしたのか。
柏木がどれほど自分を必要としていたのか。
三浦は、それらを一言一句違わず覚えている。
ただし、覚えていることと、理解していることは別だった。
「お待たせしました」
声をかけてきたのは、教頭だった。
三浦は慌てて立ち上がる。
「あ、いえ。こちらこそ、お忙しいところ申し訳ありません」
「小宮さんの件、でしたね」
「はい。私は小宮さんの弁護を担当しております、三浦と申します」
名刺を差し出し、深く頭を下げる。
「本日は、小宮さんの勤務中の様子について、お話を伺えればと思いまして」
「勤務中の様子、ですか」
「はい。裁判に向けて、普段の人柄や勤務態度を知っておきたいんです。できれば、情状証人としてご協力いただける方がいらっしゃれば、と」
教頭は難しい顔をした。
「それは……なかなか難しいでしょうね」
「そう、ですか」
「事件が事件ですから」
三浦は小さく頷いた。
もちろん、簡単に引き受けてもらえるとは思っていない。
それでも、小宮は教師だった。
長年、生徒たちと接し、同僚と働いてきた人間である。
良い面を知る者が一人くらいはいるはずだった。
「勤務態度については、特に問題ありませんでしたよ」
教頭はそう言った。
「授業の準備もきちんとしていましたし、生徒への指導も熱心でした。提出物が遅れるようなことも、ほとんどありませんでしたね」
三浦は手帳に書き留めた。
「では、周囲からの評価も良かったのでしょうか」
「仕事に関しては、そうですね」
その答えに、三浦の手が止まった。
「仕事に関しては?」
教頭は少し考えてから答えた。
「他の先生方との付き合いは、あまり得意ではなかったようです」
「人間関係に問題が?」
「問題というほどではありません。ただ、少々思い込みの強いところがありましてね」
「思い込み……」
「例えば、何気ない言葉を、自分に向けられた特別な意味のある言葉として受け取ってしまうことがあったようです」
三浦は顔を上げた。
「具体的には?」
「私が直接見聞きしたことではありませんので、詳しくは他の先生方に聞いていただいた方がよろしいでしょう」
教頭はそこで一度言葉を切った。
「ただ、柏木先生のことになると、少し様子が違ったという話は聞いています」
三浦の指先が、手帳の上で止まった。
柏木。
今日、できれば話を聞きたいと思っていた人物だった。
小宮が何度も名前を口にした男。
彼女が、自分を愛していたと語る男。
「柏木先生とは、親しい間柄だったのでしょうか」
三浦が尋ねると、教頭は首を傾げた。
「親しい……ですか」
「はい」
「少なくとも、私にはそうは見えませんでしたが」
三浦は手帳に視線を落とした。
小宮の言葉が、頭の中によみがえる。
『あの人は、私がいないと駄目なんです』
『奥さんがいなくなってから、ずっと私が支えてきたんです』
『誰にも言えないだけで、私たちはずっと想い合っていたんですよ』
三浦は顔を上げた。
「他の先生方にも、お話を伺えますか」
「ええ。授業の合間になりますが、それでよろしければ」
「ありがとうございます」
三浦は再び頭を下げた。
最初の証言から、すでに小宮の話とは食い違っていた。
だが、まだ一人目である。
判断するには早すぎる。
そう自分に言い聞かせた。
*
二人目に話を聞いたのは、小宮と同じ学年を担当していた女性教師だった。
「小宮先生ですか。授業は丁寧でしたよ」
彼女はそう言った。
「生徒の成績にも熱心でしたし、保護者への対応もきちんとしていました」
三浦は少し安心した。
「では、人柄についてはいかがでしょう」
「人柄……」
女性教師は困ったように笑った。
「悪い方ではなかったと思います。ただ、少し付き合いにくいところはありましたね」
「と、いいますと?」
「自分の考えが正しいと思うと、なかなか譲らないんです」
「なるほど」
「それと……」
女性教師は言いかけて、口を閉じた。
三浦は待った。
急かすつもりはなかった。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「柏木先生のことになると、特にそうでした」
「柏木先生、ですか」
「ええ。小宮先生は、柏木先生ととても親しいとおっしゃっていました」
三浦は身を乗り出した。
「実際に、そうだったのでしょうか」
「いえ……」
女性教師は首を横に振った。
「少なくとも、私にはそう見えませんでした」
「ですが、小宮さんは、お二人が特別な関係だったと……」
「それは小宮先生がそうおっしゃっていた、ということですよね?」
「はい」
「柏木先生ご本人から、そのようなお話を聞いたことはありません」
三浦は黙った。
「むしろ、柏木先生は困っていらしたように思います」
「困っていた?」
「小宮先生が何かと声をかけていらしたので。最初のうちは普通に応じていましたけれど、だんだん距離を置くようになったというか……」
三浦は手帳を開いた。
そこには、まったく逆のことが書かれている。
『彼の方から、いつも私を頼ってくるんです』
『職員室では周囲の目があるから、あまり親しくできないだけなんですよ』
「その……周囲に知られないように、親しい関係を隠していた可能性はありませんか」
女性教師は驚いたように三浦を見た。
「それは、私には分かりません」
「そう、ですよね」
「ただ、柏木先生は奥様を亡くされてから、ずいぶんお辛そうでした」
三浦は顔を上げた。
「小宮さんが支えていたのでは?」
「小宮先生はそうおっしゃっていましたけれど……」
女性教師は言葉を選ぶように続けた。
「柏木先生が、小宮先生を頼りにしているようには見えませんでした」
三浦は手帳に目を落とした。
書き込むべき言葉は分かっている。
だが、その意味をどう整理すればよいのか分からなかった。
*
三人目の男性教師も、似たような話をした。
「小宮先生は、柏木先生のことをよく話していましたよ」
「どのようなことを?」
「自分がいないと、あの人は生活できないとか。奥さんがいなくなって、ずいぶん頼られているとか」
三浦は頷いた。
小宮から聞いていた話と一致する。
「実際はどうだったんでしょう」
「さあ。少なくとも、柏木先生がそう言っているところは聞いたことがありませんね」
「では、小宮さんの一方的な話だったと?」
「そこまでは分かりません。ただ……」
「ただ?」
「柏木先生は、奥様のことを大切にしていた方ですから」
三浦は顔を上げた。
「奥様は、もう亡くなられているんですよね」
「ええ」
「でしたら、その後に小宮さんと親しくなったとしても、不自然ではないのでは?」
男性教師は少し考えた。
「それはそうでしょうけどね。ただ、柏木先生は奥様が亡くなったあとも、ずっと奥様の話をされていましたよ」
「奥様の話を?」
「ええ。何かの折に、妻ならこう言ったでしょうね、とか。家では息子さんと奥様の思い出話をしているとか」
三浦は黙った。
「亡くなった方を忘れられないんだろうなと思っていました」
「……そうですか」
「小宮先生とは、少なくとも職場では必要以上に関わらないようにされていたと思います」
三浦は手帳を閉じた。
証言は増えた。
しかし、増えれば増えるほど、小宮から聞いた話との隔たりが大きくなっていく。
誰かが嘘をついているのだろうか。
それとも、誰も本当のことを知らないのだろうか。
小宮は、二人の関係を隠していたと言っていた。
だとすれば、周囲の教師たちが知らないのも当然ではないか。
だが、それならなぜ、小宮だけが職場で二人の親密さを話していたのだろう。
三浦は眉間を押さえた。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
*
「三浦先生」
職員室の入口から、教頭が声をかけた。
「柏木先生が、お話ししてもよいとおっしゃっています」
三浦は顔を上げた。
「本当ですか」
「ええ。ちょうど授業が終わったところですので」
「ありがとうございます」
三浦は慌てて立ち上がった。
柏木本人から話が聞ける。
これまでの証言が正しいのか、それとも小宮の言葉が正しいのか。
少しは確かめられるかもしれない。
案内された小さな応接室で待っていると、やがて扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、落ち着いた雰囲気の男性だった。
疲れの色は見えるものの、身なりは整っている。
「柏木です」
三浦は立ち上がった。
「小宮さんの弁護を担当しております、三浦と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
柏木は静かに頭を下げた。
「こちらこそ」
二人は向かい合って座った。
三浦は手帳を開く。
「本日は、小宮さんの学校での様子について、お話を伺いに来ました」
「そうですか」
「小宮さんとは、長く一緒にお仕事をされていたんですよね」
「ええ。同じ学校に勤めていましたから」
「その……小宮さんからは、柏木先生と親しい関係にあったと伺っています」
柏木の表情が、わずかに変わった。
「親しい関係、ですか」
「はい」
「それは、どういう意味でしょうか」
三浦は言葉に詰まった。
「ええと……互いに支え合うような、特別な関係だったと」
柏木はしばらく黙っていた。
そして、静かに首を横に振った。
「私には、そのような認識はありません」
三浦は手帳に目を落とした。
「ですが、小宮さんは……」
「小宮さんが何を話しているのかは分かりません。ただ、私は同僚以上の関係だったとは思っていません」
きっぱりとした答えだった。
三浦は頷いた。
「分かりました」
分かった、と口にしたものの、実際には何も分かっていなかった。
小宮は二人が想い合っていたと言う。
柏木は否定する。
学校の教師たちも、親密な関係だったとは思っていない。
ここまで揃えば、小宮の話を疑うべきなのだろう。
だが、三浦はまだ結論を出せずにいた。
「ほかに何か、お聞きになりたいことはありますか」
柏木に尋ねられ、三浦は顔を上げた。
「あ、いえ。ひとまずは……」
「では、私から一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「はい?」
柏木は、少しだけ姿勢を正した。
「小宮さんは、今、どうされているんでしょうか」
三浦は瞬きをした。
「今、ですか?」
「ええ」
「現在も身柄を拘束されています。私は弁護人として面会しておりますが……」
「そうですか」
柏木は小さく頷いた。
「最近、何か変わったことはありませんか」
「変わったこと、ですか」
「例えば、体調を崩されたとか」
三浦は首を傾げた。
「いえ、私が把握している範囲では、特にそのようなことはありませんが」
「……そうですか」
柏木の肩から、わずかに力が抜けたように見えた。
三浦はその様子を見つめた。
「小宮さんのことを、心配されているんですか?」
柏木はすぐには答えなかった。
「確認したかっただけです」
「確認、ですか」
「ええ」
柏木はそれ以上、説明しなかった。
三浦も、深く追及することはできなかった。
ただ、柏木がわざわざ自分から面会を申し出たこと。
小宮の現在の様子を尋ねたこと。
そして、体調に異変がないと聞いて、安堵したように見えたこと。
その三つが、三浦の頭から離れなかった。
*
学校を出た三浦は、門の前で立ち止まった。
手帳を開く。
今日聞いた証言は、すべて覚えている。
誰が、どの順番で、どんな言葉を使ったのか。
質問に答えるまで、何秒ほど間があったのか。
表情がどう変わったのか。
細かなことまで思い出せる。
小宮は、柏木と想い合っていたと言った。
教頭は、親しい関係には見えなかったと言った。
女性教師は、柏木が小宮を避けていたように見えたと言った。
男性教師は、柏木が亡くなった妻を大切に思い続けていたと言った。
そして柏木本人は、同僚以上の関係を否定した。
それなのに。
『小宮さんは、今、どうされているんでしょうか』
柏木の声がよみがえる。
『体調を崩されたとか』
三浦は眉を寄せた。
もし本当に何の関係もなかったのなら。
自分の妻を殺したとされる女性の近況など、聞きたいものだろうか。
しかも、自ら弁護士に会いに来てまで。
学校の教師たちは、二人の関係を知らなかっただけなのではないか。
柏木は、周囲に知られたくない何かを隠しているのではないか。
小宮の話は、すべてが嘘というわけではないのかもしれない。
三浦は手帳を閉じた。
今日一日で、ずいぶん多くの話を聞いた。
それなのに、来る前よりも分からなくなっていた。
ただ一つ、確かなことがある。
柏木は、小宮の今の様子を知りたがっていた。
その理由が分からない。
三浦は鞄を抱え直し、歩き始めた。
小宮に、もう一度話を聞かなければならない。
しかし、何をどう尋ねればいいのか。
その答えさえ、まだ見つからなかった。




