第三章 幽霊みたいな顔
第三章 幽霊みたいな顔
それから二日後の朝。
「おはよう」
父が台所へ入ってきた。
いつもどおり髪は整えられ、シャツにも皺一つない。
けれど、顔だけはいつもどおりではなかった。
目の下に濃い影ができ、頬も少し痩せたように見える。
椅子へ座る動きまで、ひどく重かった。
「父さん、大丈夫?」
「何が?」
父は何でもないように答えた。
母親が、父の顔を覗き込む。
「ちょっと、お父さん。大丈夫?」
もちろん、父には聞こえない。
「母ちゃんも大丈夫かって」
俺が伝えると、父は母親がいる辺りへ顔を向けた。
「ははは。大丈夫だよ」
笑ってはいるが、その笑顔にも力がない。
「大丈夫には見えないけど」
「少し疲れているだけだ」
「母ちゃんより顔色悪いよ」
俺が言うと、母親が大きく頷いた。
「私のほうが、お父さんより若いからねえ」
「そういう意味じゃない」
「八年も違うのよ。そりゃ私のほうが若く見えるわよ」
母親は得意げに、髪を耳へかける仕草をした。
幽霊になった母親の姿は、死んだ頃から変わっていない。
「幽霊の母ちゃんより、幽霊みたいな顔してるって意味だよ」
「ちょっと!」
母親が俺を睨んだ。
「女性に向かって、言い方ってものがあるでしょう!」
俺は母親を無視して、父を見た。
父は自分の頬へ手を当てた。
「そんなにか?」
「そんなに」
「私の抗議を無視しないで!」
「今日、仕事休んだら?」
「講義がある」
「代わってもらえばいいだろ」
「急には頼めないよ」
父は立ち上がり、コーヒーを淹れ始めた。
いつもなら先にトーストを焼くのに、今朝はそのことを忘れているらしい。
カップへ湯を注ぎ終えてから、何も載っていない皿を見て、ようやくパンを取り出した。
「ほら。ぼんやりしてるじゃない」
母親が心配そうに言った。
「母ちゃんが、ぼんやりしてるって」
「それは、母さんにだけは言われたくないな」
父が少し笑う。
「どういう意味よ」
「母ちゃんが怒ってる」
「元気そうで何よりだ」
「お父さんの話でしょう!」
母親は父の肩を叩こうとした。
半透明の手が、その身体をすり抜ける。
母親は自分の手を見て、口を閉じた。
父は母親が触れようとしたことにも気づかず、焼けたパンを皿へ載せる。
「本当に大丈夫だよ。今夜は早く休むから」
「昨日も早く寝ただろ」
「眠れてはいるんだ。ただ、疲れが抜けないだけで」
「それを大丈夫じゃないって言うんだよ」
「今日一日様子を見て、それでも駄目なら病院へ行く」
父はそう言って、俺と母親を納得させようとした。
だが、ほとんど手をつけていないトーストを残し、いつもより五分遅れて家を出ていった。
玄関のドアが閉まる。
母親はその前に立ち、しばらく動かなかった。
「お父さん、あんなに疲れてたかしら」
「昨日よりひどいな」
「学校で何かあるのかな」
「帰ってきたら聞いてみる」
「私が聞くわ」
「聞こえないだろ」
「あんたが伝えればいいでしょ」
「それ、俺が聞くのと同じじゃないか」
「気持ちが違うのよ」
その違いは、俺には分からなかった。
◇
父が帰ってきたのは、午後七時を過ぎた頃だった。
朝よりもさらに疲れた顔をしていた。
夕食の魚には半分ほどしか箸をつけず、風呂から上がると、すぐに自分の部屋へ入った。
「病院、行くって言ってたのに」
母親が閉じたドアを睨んでいる。
「今日一日様子を見るって言っただけだよ」
「今日一日見て、駄目だったじゃない」
「明日も同じなら、無理にでも行かせる」
「今から行かせなさいよ」
「もう寝たんだから、今日は寝かせてやれよ」
俺が自分の部屋へ戻ろうとすると、母親はついてこなかった。
父の部屋の前に立ったまま、閉じたドアを見ている。
「来ないの?」
「今日は、ここにいる」
「父さんの寝顔を見るのは恥ずかしいんじゃなかった?」
「見ないわよ」
「じゃあ、何してるんだ」
「見守るの」
「ドアの外から?」
「何かあったら分かるでしょう」
「幽霊が廊下に立ってるほうが怖いけどな」
「早く寝なさい」
追い払うように手を振られた。
俺は自分の部屋へ戻った。
母親は、父の部屋へ入ろうとはしなかった。
夫婦とはいえ、八年ぶりなのだ。
眠っている父のそばにいるのは、やはり恥ずかしいらしい。
それでも心配なのだろう。
ドアの前を行ったり来たりする母親の足音は聞こえない。
だが、時々、廊下から独り言だけが聞こえてきた。
「大丈夫よね」
「明日は絶対、病院に行かせないと」
「何で男の人って、大丈夫じゃないときに大丈夫って言うのかしら」
眠れない。
「母ちゃん、静かにして!」
「ごめんごめん」
静かになったのは、ほんの数分だった。
「佑、起きて!」
突然、母親の声が響いた。
目を開ける。
いつの間にか眠っていたらしい。
枕元の時計は、午前零時を少し過ぎていた。
「佑!」
母親が閉じたドアから顔だけを突き出している。
「怖いからやめろ!」
「それどころじゃないの! お父さんが変なのよ!」
布団を跳ねのけ、ドアを開ける。
母親が慌てて顔を引っ込めた。
「何があった」
「うなされてるの。さっきから、苦しそうな声が聞こえる」
廊下へ出る。
父の部屋から、低い呻き声が聞こえた。
「父さん?」
呼びかけても返事はない。
ドアを開けた。
部屋の中は暗かった。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、ベッドの端だけを照らしている。
父は布団の中で、苦しそうに眉を寄せていた。
額には汗が浮かび、浅い呼吸を繰り返している。
「父さん」
ベッドへ近づこうとした俺の横で、母親が足を止めた。
暗闇の中を見つめたまま、動かない。
「どうした」
母親は答えなかった。
視線は、父の枕元へ向けられている。
俺には、そこに何も見えない。
見えるのは、眠っている父と、空いた枕元だけだ。
けれど母親は、そこに誰かが立っているかのように、一点を見つめていた。
何かを聞いているのか、わずかに眉が動く。
母親の顔から、心配そうな表情が消えた。
代わりに、信じられないものを見たように目が見開かれる。
そして、すぐに怒りへ変わった。
「あんた、何やってんのよ!」
母親が叫んだ。
母親の目が、何かの動きを追うようにわずかに横へ動いた。
次の瞬間、怒りの向け先を見失ったように、その表情が変わった。
父が大きく息を吐く。
浅かった呼吸が、少しずつ穏やかになっていった。
「母ちゃん?」
母親は、誰もいなくなった枕元を睨み続けている。
「今、誰に言ったんだ」
返事はない。
「誰がいたんだよ」
母親は、ようやく俺を見た。
「小宮よ」




