第二章 国選弁護人
第二話 国選弁護人
小宮は、朝から機嫌がよかった。
久しぶりに柏木の夢を見たからだ。
夢の中の柏木は、以前より少し痩せていた。
眠っていたため言葉を交わすことはできなかったが、すぐそばで、好きなだけその顔を見ていられた。
頬へ触れようとしても、なぜか指がすり抜けた。
膝をつこうとすれば、床へ身体が沈んだ。
おかしなことばかり起きたが、夢なのだから当然だった。
何より、柏木は小宮を拒まなかった。
現実では、手紙も伝言も受け取ってもらえない。
面会を求めても、一度も来てはくれなかった。
だが夢の中では、小宮がどれだけ話しかけても、柏木は穏やかな顔でそばにいてくれた。
眠っていただけだとは、小宮は思わなかった。
きっと、何も言わずに自分の話を聞いてくれていたのだ。
「また来ますね」
そう約束して目を覚ました。
次に眠れば、また会えるかもしれない。
そう考えるだけで、殺風景な部屋の壁も、いつもより明るく見えた。
◇
午後、小宮は接見室へ連れていかれた。
仕切りの向こうで、三浦が待っていた。
机の上には厚いファイルが三冊積まれている。
三浦は小宮の姿を見ると、慌てて立ち上がった。その拍子に、膝が机の裏へぶつかる。
一番上のファイルが傾いた。
「あっ」
三浦は両手で押さえようとした。
今度は手にしていたペンが床へ落ちた。
「ご、ごめん。いや、別に謝ることではないんだけど」
落ちたペンを拾い、椅子へ座り直す。
眼鏡の位置を直す指が、わずかに震えていた。
「待たせたかな」
「いいえ」
小宮は微笑んだ。
三浦が国選弁護人として現れたのは、数日前だった。
接見室へ入ってきた三浦は、小宮を見るなり立ち止まった。
『……奈緒さん?』
驚いた顔で名前を呼んだあと、長いあいだ何も言えずにいた。
それほど自分との再会が嬉しかったのだろう。
小宮はそう思っていた。
昔から、三浦が自分へ好意を持っていたことは知っている。
学生の頃の三浦は、誰よりも成績がよかった。
一度読んだ文章を、ページのどこに書かれていたかまで正確に覚えていた。
司法試験にも、一度で合格したと聞いている。
頭のいい人だった。
その三浦が、今も自分を忘れていなかった。
この偶然には、意味がある。
小宮にはそう思えた。
「きょ、今日は、これからの方針について、もう少し詳しく話したくて」
三浦は一冊目のファイルを開いた。
違うページだったらしく、すぐに閉じた。
二冊目へ手を伸ばし、途中で迷って一冊目へ戻る。
「その前に、体調は……大丈夫?」
「ええ。よく眠れました」
「そう。それなら、よかった」
「柏木先生の夢を見たの」
三浦の手が止まった。
「柏木先生の?」
「ええ。先生の寝室にいたわ」
「寝室……」
「先生、眠っていたの。少し疲れているみたいだったけれど、相変わらず素敵だった」
三浦は何かを言いかけ、口を閉じた。
それから、開きかけたファイルへ視線を落とす。
「夢だから、会いに来てくれたのかもしれないわね」
「会いに……来た?」
「だって、私がいるところへ柏木先生が現れたんでしょう?」
小宮は当然のように答えた。
三浦の眉がわずかに動いた。
夢の中で小宮のほうが柏木の寝室へ行ったのではないか。
そう尋ねようとしたが、やめた。
「三浦君」
「な、何?」
「私、いつ頃ここから出られるの?」
三浦は、今度こそ目的のページを開いた。
紙へ目を落としたまま、すぐには答えない。
「そのことなんだけど……」
声が小さくなった。
「無罪を主張するのは、かなり難しい」
「難しいだけでしょう?」
「え?」
「できないわけではないんでしょう」
三浦は眼鏡を押し上げた。
「録音が残っている。柏木先生の家で、君が話したことも……その、佑君へ向けて言ったことも」
小宮は黙って聞いている。
「カッターナイフには君の指紋がある。睡眠薬も持っていた。警察官が到着したとき、君は刃物を持っていて、柏木先生と佑君の証言も一致している」
「それは、もう聞いたわ」
「う、うん」
「だから、三浦君がいるんでしょう?」
小宮が微笑む。
三浦は返事をしなかった。
三浦が司法試験に合格したのは事実だった。
法律も判例も、一度読めばほとんど忘れなかった。
だが、覚えていることと、それを使えることは別だった。
証人が想定と違う答えを返すと、次の質問が出てこない。
不利な証言をされても、準備した順番どおりに尋ねることしかできない。
依頼人から聞いた話を前提にして組み立てるため、その前提が崩れると、何を立証しようとしていたのかさえ見失う。
負けた裁判は、一つや二つではなかった。
所属する事務所でも、大きな事件を任されることはほとんどない。
ほかの弁護士が積極的には引き受けたがらない国選事件を担当しても、誰も止めなかった。
三浦自身が、それを一番よく分かっていた。
小宮だけが、知らなかった。
「どうすれば勝てる?」
小宮が尋ねた。
「か、勝つというのは……」
「無罪になることよ」
「それは、今ある証拠を見る限り、本当に難しい。僕は、期待させるようなことは言えない」
「三浦君でも?」
小宮の声に、初めて不安が混じった。
三浦は唇を引き結んだ。
小宮の期待に応えられないことが、苦しかった。
「殺すつもりはなかったの」
小宮が言った。
「私は、柏木先生と話をしたかっただけ」
「でも、録音では、佑君へ『今度はあんたの番』と……」
「あの子が、先生におかしなことを吹き込んだからよ」
「それに、カッターナイフを持って追いかけている」
「興奮していたの。自分でも何をしているのか分からなかった」
「睡眠薬は?」
「眠れなかったから持っていただけ」
三浦はファイルへ目を落とした。
一つずつ切り離せば、説明がつかないわけではない。
だが、すべてが同じ場所に揃っている。
偶然で片づけるには無理があった。
「柏木先生は、私を頼っていたの」
小宮の声が静かになった。
「奥様がいなくなってから、ずっと私が支えてきた。授業を代わって、学校の仕事を手伝って、食事も届けた。先生も、私がそばにいることを受け入れてくれていたわ」
「柏木先生から、何か言われたの?」
「言葉にしなくても分かることはあるでしょう」
三浦は小宮を見た。
「先生は、優しい人だから」
小宮は目を伏せた。
「私とのことを息子さんに反対されて、困っていたのよ。だから私が直接話せば分かってもらえると思った。私だって、あんなことになるとは思っていなかった」
「佑君が、反対していると聞いたの?」
「聞かなくても、態度を見れば分かるわ」
「柏木先生が、君との関係について話したことは?」
小宮は顔を上げた。
「三浦君まで、私を疑うの?」
「ち、違う。僕はただ、裁判で説明できる事実が必要で」
「事実よ」
小宮の目に涙が浮かんだ。
「私は八年間、先生を支えてきた。それなのに、奥様の遺体が見つかった途端、先生は私を遠ざけた。佑君も、私を人殺しみたいに見た」
三浦の表情が曇った。
「私はただ、先生のために何かしたかっただけなのに」
「ご、ごめん。疑っているわけじゃないんだ」
「本当に?」
「もちろん」
三浦は慌てて答えた。
それから、ファイルの中から白紙のメモを取り出す。
「柏木先生との関係や、事件までに何があったのかは、もう一度きちんと調べる。もし、先生の言動が君に期待を持たせたことを客観的に示せれば……」
三浦は言葉を選んだ。
「無罪にできる、とは言えない。でも、君が追い詰められていた事情として、裁判所へ伝えられる可能性はある」
「早く出られる?」
「それも、今は約束できない」
「でも、調べてくれるのね」
「うん」
「私と柏木先生のことを、みんなに聞いてくれる?」
「必要な範囲で」
「先生が、どれだけ私を頼っていたか分かるわ」
三浦はペンを握った。
今度は落とさなかった。
「僕にできることは、やってみる」
小宮は涙を拭い、ほっとしたように微笑んだ。
「やっぱり、三浦君でよかった」
三浦の手が止まった。
「昔から、三浦君だけは私のことを分かってくれたものね」
「……うん」
「早くここから出してね」
小宮は仕切り越しに三浦を見つめた。
「柏木先生が、私を待っているから」
三浦は、すぐには答えなかった。
柏木が小宮を待っているとは思えなかった。
それでも、そう言うことはできなかった。
「……できる限りのことはするよ」
小宮は満足そうに頷いた。
三浦が約束したのは、できる限りのことだった。
だが小宮の中では、その言葉はすでに、必ず自分を無罪にしてくれるという約束へ変わっていた。




