第一章 夜の居場所
第一章 夜の居場所
「母ちゃん。そろそろ出ていってくれない?」
ベッドへ入った俺が言うと、母親は机の前で振り返った。
「どうして?」
「寝るから」
「寝ればいいじゃない」
「あんたがいると寝られないんだよ」
「別に騒いでないでしょ」
「さっきから、俺の教科書を勝手に読んでる」
「読めないわよ。字が小さいもの」
「じゃあ何で覗いてるんだよ」
「大学生が何を勉強してるのか、母親として知っておこうと思って」
「十分も見て、分かった?」
「全然」
母親は胸を張って答えた。
死んでからも、分からないことを堂々と言えるところは変わらない。
小宮が逮捕されてから、三か月が過ぎた。
佑への殺人未遂については起訴されたが、母親を殺した件については、今も捜査が続いている。
母親は、あれからずっと家にいる。
俺から離れられるようになったため、大学までついてくることはなくなった。昼間は家でテレビを見たり、父が帰ってくれば台所へついていったりしているらしい。
そして夜になると、俺の部屋へ来る。
毎晩だ。
「母ちゃんは、寝なくていいんだろ」
「多分ね」
「だったら、リビングでテレビでも見てろよ」
「夜中に一人でテレビなんて、寂しいじゃない」
「幽霊が寂しがるなよ」
「幽霊だって寂しいものは寂しいのよ」
母親は机から離れ、今度は俺のベッドの横へ来た。
「ちょっと詰めて」
「嫌だよ」
「座るだけじゃない」
「座ったら沈むだろ」
「今日はうまく座れるかもしれないでしょ」
母親は慎重に腰を下ろした。
尻が布団を突き抜け、身体が半分ほどベッドへ沈んだ。
「ほら」
「今日は調子が悪いみたい」
「毎日悪いだろ」
母親は何事もなかったように立ち上がった。
俺は布団を頭までかぶろうとした。
母親が、その端をつかもうとする。
透明な指が布団をすり抜けた。
「話の途中でしょう」
「何の話だよ」
「明日の夕飯」
「父さんに言えよ」
「お父さんには聞こえないもの」
「俺が伝えるから、今決めなくてもいいだろ」
「朝は忙しいじゃない」
「じゃあ、父さんの部屋へ行って、枕元で一晩考えてろよ」
母親の顔が、わずかに強張った。
「何で枕元なのよ」
「夫婦なんだから、父さんのところで寝ればいいだろ」
「私は寝ないもの」
「横にいればいい」
「嫌よ」
「何で」
母親は一度、閉じたドアのほうを見た。
廊下を挟んだ向こうに、父の部屋がある。
「だって、恥ずかしいじゃない」
「何が?」
「寝てるところを、ずっと見てるなんて」
「大学生の息子の寝顔を毎晩見るのはいいのかよ!」
「息子は別でしょう」
「何が違うんだよ」
「何かが違うのよ」
「説明できないんじゃないか」
「うるさいわね。母親が部屋にいるくらい、我慢しなさいよ」
「俺はもう二十歳だぞ」
「私の中では十二歳で止まってるの」
「それ、便利に使うなよ」
母親は笑った。
俺が十二歳のとき、母親はいなくなった。
その八年後、遺骨になって見つかった。
さらに幽霊になって戻ってきて、今は大学生の息子の部屋へ毎晩入り浸っている。
事情を知らない人間が聞けば、どこから突っ込めばいいのか分からない話だろう。
「とにかく、明日の夕飯は魚にしましょう」
「さっき肉って言ってなかった?」
「お昼の番組で焼き魚を見たのよ」
「三分前まで肉の話してたよな」
「人の気持ちは変わるものよ」
「早すぎるだろ」
廊下から、床の軋む音がした。
続いて、父の部屋のドアが閉まる。
「お父さんも寝たみたいね」
「母ちゃんも戻れよ」
「どこへ?」
「幽霊のいるところ」
「ここよ」
「じゃあ、せめて黙ってて」
「はいはい」
母親は返事だけは素直だった。
照明を消す。
部屋が暗くなった。
母親は窓の前へ移動し、カーテンの隙間から外を見ている。
黙っていれば、半透明の女が夜の窓辺に立つ姿はかなり怖い。
けれど正体を知っていると、明日の夕飯を魚にするか肉にするか迷っているだけの母親だった。
「母ちゃん」
「何?」
「黙ってろって言っただろ」
「まだ何も言ってないじゃない!」
「返事もしなくていい」
「勝手ねえ」
目を閉じた。
しばらくして、母親が小さな声で言った。
「魚なら、味噌汁は豆腐でいいわよね」
「出てけ!」
◇
同じ頃。
父は一人で眠っていた。
枕元の時計が、午前零時を過ぎた時刻を示している。
閉じられたカーテンの隙間から、街灯の光が細く差し込んでいた。
その光の中に、女が立っていた。
小宮奈緒だった。
白い壁が、身体の向こうに透けて見える。
小宮は自分が半透明になっていることに気づかないまま、眠っている父を見下ろしていた。
「柏木先生」
呼びかけても、父は目を開けなかった。
「眠っていらっしゃるんですね」
小宮はベッドの脇へ膝をつこうとした。
膝が床へ沈み、身体が傾く。
慌てて立ち上がったが、不思議そうに床を見ることはなかった。
夢なのだから、おかしなことが起きても不思議ではない。
小宮は、そう思っていた。
「今日は、学校へ行かれたんですか」
返事はない。
「お身体は、もう大丈夫ですか。あのとき、背中を強くぶつけていましたよね」
父は静かな寝息を立てている。
小宮は、その顔へ手を伸ばした。
指先が頬をすり抜ける。
触れられないことにも、小宮は疑問を持たなかった。
夢の中なのだ。
現実では、柏木に会うことを拒まれた。
手紙も、伝言も受け取ってもらえない。
けれど夢の中なら、こうしてそばにいられる。
「私、ちゃんと帰りますから」
小宮は、眠っている父へ微笑んだ。
「三浦君が弁護をしてくれるんです。とても頭のいい人なんですよ。昔から、何でも一度で覚えてしまう人で」
父の眉が、わずかに寄った。
小宮は気づかない。
「あの人なら、きっと分かってくれます。私がどうして、あんなことをしてしまったのか」
父の呼吸が、少し浅くなった。
「だから、もう少しだけ待っていてください」
小宮はベッドのそばに立ち続けた。
父は眠ったまま、苦しそうに一度だけ寝返りを打った。
やがて窓から差し込む光が薄くなると、小宮の姿も少しずつ透けていった。
「また来ますね、柏木先生」
最後にそう言って、小宮は消えた。
◇
翌朝。
台所へ降りると、父が食卓に座っていた。
コーヒーは淹れてある。
トーストも皿に載っている。
けれど、父は何も口にせず、片手で額を押さえていた。
「父さん?」
声をかけると、父がゆっくり顔を上げた。
目の下に、薄い影ができている。
「おはよう」
「どうしたんだよ、その顔」
「そんなにひどいか?」
「寝てないの?」
「いや」
父は壁の時計を見た。
「七時間は寝たはずなんだが」
母親が俺の隣へ来て、父の顔を覗き込んだ。
「顔色、悪いわよ」
「母ちゃんも、顔色悪いって」
「母さんが?」
父は母親がいる辺りへ顔を向けた。
少し位置がずれている。
「心配しなくても大丈夫だ。ただ、何だか身体が重くてな」
「風邪じゃないのか」
「熱はない」
「学校、休んだら?」
「そこまでではないよ」
父はコーヒーカップを持ち上げた。
口をつける前に、一度だけ大きく息を吐く。
「眠ったはずなのに、まったく寝た気がしないんだ」
母親と俺は、顔を見合わせた。
「疲れてるんじゃない?」
母親が言った。
「最近、学校も忙しいのかもな」
俺は、その言葉を父へ伝えた。
父は「そうかもしれない」と頷いた。
このときの俺たちは、仕事の疲れだと思っていた。
父が眠っている間に、誰かがその枕元へ立っていたことなど、知るはずもなかった。




