第二十六章 変化
第二十六章 変化
夕飯は、いつもと変わらないものだった。
炊きたてのご飯に、味噌汁。焼き魚と、冷蔵庫に残っていた野菜のおひたし。
父さんは普段どおりに箸を持ち、俺も普段どおりに食べた。
母ちゃんは向かいの席に座って、俺たちの食事を眺めている。
「……味、薄くなかったか?」
父さんが尋ねた。
「いや、ちょうどいいよ」
「そうか。よかった」
父さんが小さく笑った。
それきり、会話が途切れた。
テレビはついていた。
誰かが笑っている。
けれど、何がそんなに面白いのか、ちっとも頭に入ってこなかった。
今日、法廷で起きたこと。
父さんの証言。
小宮の叫び声。
そして、母ちゃんの名前。
考えないようにしても、ふとした拍子に思い出してしまう。
「佑、もう食べないの?」
母ちゃんが俺の茶碗を覗き込んだ。
「うん。なんか腹いっぱい」
「そう……」
いつもなら、もう少し食べなさいと口を出す母ちゃんも、今日はそれ以上何も言わなかった。
父さんは湯呑みに手を伸ばし、俺は残っていた味噌汁を飲み干した。
誰も、今日の裁判の話をしなかった。
*
風呂から上がると、父さんは居間で新聞を広げていた。
ただ、同じところをずっと見ている。
俺がソファに座ると、父さんは新聞を畳んだ。
「疲れたね」
「うん」
「今日は、いろいろあったからね」
「……そうだね」
父さんは湯呑みを持ち上げた。
もう冷めているはずのお茶を、一口飲む。
母ちゃんは窓際に立っていた。
いつもなら、テレビに文句を言ったり、父さんの新聞を覗き込んだりしている。
けれど今日は、黙って外を眺めている。
父さんも、俺も、母ちゃんも。
顔に疲れたと書いてあるような夜だった。
「……あ?」
母ちゃんが呟いた。
何かを見つけたらしい。
少し身を乗り出して、窓の外を覗く。
次の瞬間。
「はあ!?」
声が跳ね上がった。
「何なのよ、あの女!」
「母ちゃん?」
「性懲りもなく!!」
母ちゃんは窓から離れると、玄関へ向かって飛び出した。
「ちょ、母ちゃん!?」
俺は慌てて立ち上がった。
「どうした?」
父さんが新聞を置く。
「母ちゃんが、誰か見つけたみたい」
「誰か?」
「……たぶん、小宮」
父さんの表情が変わった。
俺は急いで玄関へ向かった。
けれど、靴を履いて外へ出ても、門扉の前には誰もいなかった。
街灯に照らされた、いつもの道路。
人の姿はない。
ただ、母ちゃんだけが門扉の前で立ち止まっていた。
何かを睨みつけている。
俺には見えない相手を。
*
「今度は何のつもりよ!」
美沙は門扉の前に立つ女を睨んだ。
小宮奈緒。
いや、その生霊だった。
法廷で本体と重なり、消えたはずの女が、またここにいる。
「ちょっと待って!」
小宮が慌てて両手を上げた。
「違う違う、待って待って! あなたと話がしたいの!」
「はあ?」
美沙は思わず足を止めた。
「話? 今さら何を話すっていうのよ!」
「分かってる。怒るのは当然だと思う。でも、少しだけ聞いてほしい」
妙だった。
今までの小宮なら、こんな言い方はしない。
美沙を見れば睨みつけ、柏木に近づこうとすれば邪魔者扱いした。
それが今は、困ったような顔で立っている。
「……あんた、何か企んでるんじゃないでしょうね」
「企んでないわ」
「信用できると思う?」
「思わない」
即答だった。
美沙は眉をひそめた。
「ずいぶん素直ね」
「そうね。自分でも驚いてる」
小宮が苦笑する。
その表情に、美沙はますます警戒した。
「佑や彼に近づかないなら、話くらい聞いてあげる」
「うん。近づかない」
「絶対よ」
「約束する」
美沙は門扉の前に腰を下ろした。
小宮も、少し距離を置いて隣に座った。
夜の道路は静かだった。
遠くで車の走る音がする。
家の中からは、テレビの音がかすかに聞こえていた。
「で?」
美沙が腕を組む。
「何の話?」
小宮は膝の上で手を揃えた。
しばらく黙ってから、ゆっくり頭を下げた。
「まずは、柏木美沙さん」
「……何よ」
「身勝手な理由で、あなたを傷つけてしまいました。本当にごめんなさい」
美沙は、小宮をじっと見た。
そして、呆れたように息を吐いた。
「傷つけてって……あなたに殺されたんですけど?」
「……うん」
「傷つけるとか、謝るとか、そういう問題じゃないよね。絶対許さないし」
「分かってる」
小宮は顔を上げた。
「許されるなんて、そんな虫のいいことは思ってないわよ。ただ……謝ってなかったなって」
美沙は眉間に皺を寄せた。
「何? 気持ち悪い」
「ひどい言い方ね」
「当たり前でしょ。あんた、本当に小宮奈緒なの? そっくりさんじゃないの?」
小宮は少し考えた。
「そっくりさんに近いかな」
「……は?」
「本体は、いまだに喚き散らしてるわよ」
美沙は目を丸くした。
「ちょっと待って。生霊と本体って、別々なの?」
「全く違うわけじゃないけどね。繋がっている核は同じというか……」
小宮は首を傾げた。
「私も生霊、初めてだからなぁ」
「何よ、それ!」
美沙は思わず声を上げた。
「初めてだからって! そんなこと言われても!」
「そうよね」
「そうよね、じゃないわよ!」
小宮が小さく笑った。
美沙は、まじまじとその顔を見た。
「……それにしても、なんか随分と感じが違うわね」
「そうね」
小宮は夜道に目を向けた。
「さっき、本体は喚き散らしてるって言ったけど」
「うん」
「今ここにいる小宮も、本体の一部っていうのかな」
「……どういうこと?」
「まずは謝りに行かなきゃって、そういう思いが芽生えたんじゃない? 本体に」
小宮は自分の胸元を指さした。
「だから、私はここにいる」
美沙はしばらく考えた。
「……回りくどくて意味が分からないわ」
「そうね。私も、うまく説明できない」
小宮は苦笑した。
それから、静かに言った。
「小宮奈緒はさ、柏木美沙になりたかったのよ」
美沙は黙った。
「あなたの場所に立ちたかった。あなたの家族が欲しかった。あなたみたいに、柏木さんに愛されたかった」
小宮は自分の手を見つめた。
「それで、あなたに成り代わるために、あなたを殺した」
夜風が吹いた。
「でも、殺してしまったから、後に引けなくなった」
美沙は顔をしかめた。
「……私が悪いみたいに聞こえますけど?」
「ごめん。違う」
小宮はすぐに首を振った。
「あなたは悪くない。悪いのは、あなたになろうとした私」
美沙は何も言わなかった。
「それに気づかせてくれた人たちがいたの」
「……うん」
「みんな、必死で教えてくれようとしてた。それなのに、本体は耳を貸さなかった」
小宮は顔を上げた。
「自分だけの世界で、一人で生きてたの。都合の悪いことは全部、誰かのせいにして」
美沙は膝を抱えた。
「それで?」
「その執着から、私が生まれた」
小宮は小さく息を吐いた。
「でもね、届かないって諦める人もいたのに、ずっと教えてくれる人もいたの」
「何を?」
「間違ってるよ、そこは本当の世界じゃないよって」
美沙は少し考えた。
「……いい人じゃない」
「そうね」
「うちの人じゃなければ、なおよし」
小宮が吹き出した。
「そこは譲らないのね」
「当たり前でしょ」
美沙は鼻を鳴らした。
「うちの人は、私の夫ですから」
「……そうね」
小宮は静かに頷いた。
今度は、反論しなかった。
*
「小宮奈緒はさ」
しばらくして、小宮が口を開いた。
「いろんな人が手を差し伸べてくれていたのよ」
美沙は隣を見た。
「それに、気づいたの?」
「うん。気づいた」
「じゃあ、どうして?」
「今はまだ、その手を取ることができないでいる」
小宮は膝の上の手を握った。
「間違っていたって認めるのが怖いのかもしれない。認めたら、今まで自分がしてきたことから逃げられなくなるから」
「……そう」
「でも、もう気づいてるの」
小宮は美沙を見た。
「少なくとも、私は」
「生霊のあなたは気づいたのに?」
「そう」
「本体は?」
「私が気づいてるってことは、小宮奈緒自身も気づいているってことよ」
美沙は小宮の顔をじっと見た。
嘘をついているようには見えなかった。
もちろん、それだけで信用できる相手ではない。
八年前、美沙を殺した女だ。
そして、佑まで殺そうとした。
何を言われても、その事実は変わらない。
それでも。
「……じゃあ、やるべきことは決まってるじゃない」
美沙が言った。
小宮は頷いた。
「うん。だから、まずあなたのところに来た」
「私のところ?」
「ここから始めないとね」
美沙は夜空を見上げた。
雲の間から、星が一つ見えた。
「……小宮奈緒が私を殺したことも、佑を襲ったことも、絶対に許さない」
「うん」
「小宮奈緒の顔を見るのも嫌」
「……うん」
「でもね」
美沙は小宮に向き直った。
「小宮が自分の罪を認めて、償うことは止めないわ」
小宮が顔を上げた。
「だって、小宮奈緒は生きてるんだもの」
小宮は、何も言わなかった。
しばらくして、ゆっくり頷いた。
「……ありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃないわよ」
「それでも」
小宮は小さく笑った。
「少し時間はかかるかもしれないけど、私が小宮奈緒の道を示す」
美沙はその顔を見つめた。
初めて会った頃の小宮とも、法廷で叫んでいた小宮とも違う。
けれど、間違いなく小宮奈緒だった。
「そうね」
美沙は頷いた。
「今のあなたなら、できるかもね」
小宮はゆっくり立ち上がった。
美沙の前で、深く頭を下げる。
そして、少しずつ輪郭が薄れていった。
夜の空気に溶け込むように。
やがて、その姿は完全に消えた。
*
「……母ちゃん?」
門扉の向こうから、佑の声がした。
美沙が振り返る。
息子が心配そうに立っていた。
少し離れた玄関には、彼もいる。
二人とも、ずっと待っていたらしい。
「終わった?」
佑が尋ねた。
「うん」
「……小宮だったの?」
「そうよ」
「何かされた?」
「何も」
美沙は立ち上がり、服についたはずのない埃を払う仕草をした。
「ちょっと、お話してただけ」
「小宮と?」
「そう。びっくりするでしょ」
「……かなり」
佑は母ちゃんの顔を見た。
怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。
どこか、すっきりした顔だった。
「大丈夫なの?」
「大丈夫よ」
美沙は門扉の向こうへ歩き出した。
けれど、ふと立ち止まる。
夜空を見上げた。
それから、両腕を高く伸ばして、大きく伸びをした。
「大丈夫、うまくいく」
佑には、その言葉の意味はまだ分からなかった。
それでも、母ちゃんがそう言うのなら。
今夜は、それでいい気がした。




