第二十五章 真実の言葉
第二十五章 真実の言葉
宣誓を終えた柏木佑助は、静かに椅子へ腰を下ろした。
突然、証言を求められたことに戸惑いはあった。
だが、表情は落ち着いている。
弁護人席から、三浦が立ち上がった。
「柏木さん。まず、被告人との関係について確認させてください」
「はい」
「小宮奈緒さんは、以前、息子さんが通っていた塾の講師だった方ですね」
「そうです」
「その後、小宮さんはあなたと同じ高校に勤務するようになった」
「はい。同僚でした」
「小宮さんは、息子さんの指導にも熱心だったと認識されていますか」
「はい。息子がお世話になったことには感謝しています」
三浦は小さく頷いた。
「同僚になってからも、小宮さんはあなたやご家族のことを気にかけていたと話しています」
「そうですね。家族のことを尋ねられることはありました」
「では、ご家族を支えてくれた存在だった、と考えてもよろしいでしょうか」
佑助は少し考えた。
「いいえ。塾では息子がお世話になり、その後は職場の同僚として助けていただいたこともあります。ですが、家族を支えていただいていたという認識はありません」
被告人席で、小宮が小さく笑った。
まだ余裕のある笑みだった。
佑は傍聴席から父を見つめていた。
母ちゃんは、そのすぐ近くにいる。
けれど、母ちゃんの視線は何度も傍聴席の後方へ向けられていた。
そこには、もう一人の小宮奈緒が立っていた。
生霊だ。
先ほどから、じっと被告人席を見ている。
その顔には何の表情もなかった。
*
「柏木さん。小宮さんから、差し入れを受け取ったことがありますね」
「はい」
「同じ学校に勤務されていた頃のことですね」
「そうです」
「一度だけではありませんね」
「そうですね。何度かいただきました」
「断らずに受け取っていたということですか」
「はい」
「それは、小宮さんのご厚意を受け入れていたということではありませんか」
「差し入れについては、ありがたくいただきました」
三浦は言葉を継いだ。
「小宮さんは、そうしたやり取りを通じて、あなたとの距離が縮まっていると感じていたそうです」
「そうでしたか」
「あなた自身は、どう感じていましたか」
「同僚から親切にしていただいている、という認識でした」
「それだけですか」
「はい」
小宮の口元にあった笑みが、わずかに薄れた。
三浦は資料に目を落とした。
「小宮さんは、あなたが自分を特別に扱ってくれていたと話しています」
「特別に、ですか」
「はい。ほかの方とは違う関係だったと」
「そのようなつもりはありませんでした」
「では、なぜ差し入れを断らなかったのですか」
「同僚からのご厚意でしたので。無下にするのは失礼かと思いました」
「それが、誤解を招いた可能性はありませんか」
「あるかもしれません。その点は、私の配慮が足りなかったと思います」
三浦は顔を上げた。
「小宮さんは、仕事以外でもあなたの力になろうとしていたそうですね」
「はい。家のことについても、いろいろと申し出てくださったことはあります」
「それを、ありがたいとは思いませんでしたか」
「お気持ちはありがたいと思いました。ただ、私生活については自分たちでやっていけますので、お断りしたこともあります」
「小宮さんは、あなたが遠慮しているだけだと受け取っていたようですが」
「そうでしたか」
「あなたは、どういうお気持ちで断っていたのですか」
「必要としていなかったからです」
小宮の笑みが消えた。
佑は、それに気づいた。
そして。
「……また動いた」
母ちゃんが呟いた。
傍聴席の後方にいた生霊が、滑るように一歩前へ進んでいた。
目は、被告人席の小宮に向けられたままだった。
「佑、あの女、近づいてきてる」
母ちゃんが小声で知らせる。
佑は父を見つめたまま、わずかに頷いた。
*
「柏木さん。小宮さんは、奥様が亡くなられたあと、あなたの支えになりたいと考えていたそうです」
三浦の言葉に、佑助は静かに頷いた。
「そうですか」
「そのお気持ちを、ありがたいとは思いませんでしたか」
「お気持ち自体は、ありがたいと思います」
「では、なぜ受け入れなかったのですか」
「私が望んでいたことではなかったからです」
「奥様が亡くなられて、長い時間が経っていますね」
「八年になります」
「その間、小宮さんはあなたを気にかけ続けていたそうです」
「そうでしたか」
「それでも、小宮さんの気持ちに応えることはなかった」
「はい」
三浦は少し間を置いた。
「息子さんが、小宮さんについて何か話していたことはありますか」
「あります」
「それによって、小宮さんへの印象が変わったことは?」
「いいえ」
「まったく影響はなかったのですか」
「息子の話は聞きました。しかし、小宮さんとの距離を置こうと考えたのは、私自身の判断です」
「息子さんが反対したからではないのですね」
「違います」
「小宮さんは、息子さんがあなたに事実と異なることを伝えたために、お二人の関係が悪くなったと考えています」
佑助は、三浦をまっすぐ見た。
「そもそも、私と小宮さんの間に、息子が壊せるような関係はありませんでした」
小宮が俯いた。
膝の上で組んだ手に、力が入る。
傍聴席では、美沙がゆっくりと立ち上がっていた。
「……佑」
「うん」
「また、近づいた」
生霊が一歩進む。
音もなく。
無表情のまま。
小宮本人を見つめながら。
佑には、生霊の姿が見えない。
けれど、母ちゃんの声がいつもより硬いことは分かった。
「母ちゃん、大丈夫?」
「まだ何もしてない。でも、変なのよ」
「何が?」
「ずっと、あの女だけ見てる」
美沙は傍聴席を離れ、通路へ出た。
父の証言を聞きながらも、生霊から目を離さなかった。
*
三浦は、手元の資料を閉じた。
ここまでの質問で、確認できたことは十分にあった。
差し入れを受け取っていたこと。
親切にされたこと。
同僚としての付き合いが続いていたこと。
それらを、柏木は一つも否定しなかった。
だが、小宮がそこに見いだしていた意味だけは、ことごとく違っていた。
三浦は被告人席を見た。
小宮は俯いたまま、動かない。
今、彼女は何を考えているのだろう。
自分の言葉が届いているのだろうか。
それとも、また都合のいい答えだけを拾っているのだろうか。
三浦には分からなかった。
それでも、最後に確かめなければならないことがあった。
「柏木さん」
「はい」
「最後に、一つだけお聞きします」
佑助は静かに頷いた。
そのとき、美沙が息を呑んだ。
生霊が、被告人席のすぐ後ろまで来ていた。
小宮は俯いている。
生霊は、その小宮を見下ろしていた。
そして。
ゆっくりと、重なった。
「……え?」
美沙が目を見開く。
生霊の輪郭が、小宮の身体に吸い込まれるように消えていく。
別々だった二つの姿が、一つになった。
「佑……!」
美沙は慌てて息子を振り返った。
「何?」
「あの女が……生霊が、小宮と重なったの」
「重なった?」
「一つになった……!」
佑は被告人席を見た。
小宮は、まだ俯いている。
その表情は見えなかった。
三浦の声が響いた。
「柏木さん。この八年間、小宮奈緒さんを異性として、あるいは恋愛の対象として見たことはありますか」
佑助は、迷わなかった。
「一度もありません」
短い答えだった。
それ以上、付け加えることもなかった。
被告人席で、小宮がゆっくりと顔を上げた。
その目が、証言台の佑助を捉えた。
「あんなに……」
小宮の唇が震えた。
「あんなにしてやったのに……!」
次の瞬間、椅子が大きな音を立てた。
「あんなにしてやったのに!!」
小宮が立ち上がり、証言台へ向かって駆け出そうとした。
「被告人! 席に戻りなさい!」
裁判官の声が響く。
警務官が動いた。
だが、それより早く。
「うちの人に触らないで!!」
美沙が、佑助の前へ飛び出した。
両腕を広げ、夫を背中に庇う。
小宮の足が止まった。
大きく見開かれた目が、美沙を捉えた。
「……あんた?」
声が震える。
「なんで……」
小宮は一歩後ずさった。
「なんで、あんたが……」
美沙は動かなかった。
小宮を睨みつけたまま、夫の前に立っている。
「私が……」
小宮の顔が歪んだ。
「私がこの手で殺したはずなのに……!」
法廷の空気が変わった。
「ちゃんと確認したはずなのに……!」
小宮は首を振った。
「それなのに、なんであんたがここにいるのよ!!」
三浦が立ち上がった。
「小宮さん、落ち着いてください」
小宮は聞いていなかった。
「なんでよ! なんであんたが!」
「小宮さん!」
三浦が声を強める。
「誰がいるんですか?」
小宮は、美沙を指さした。
「柏木……美沙よ!!」
誰もが、その名前を聞いた。
八年前に殺された、柏木佑助の妻。
しかし、小宮が指さした場所には、誰もいない。
少なくとも、法廷にいるほとんどの人間には。
*
「静粛に!」
裁判官の声が響いた。
警務官が小宮を取り押さえる。
「離して! 離しなさいよ!」
「被告人、落ち着いてください!」
「そこにいるのよ! 柏木美沙がそこにいるの!」
三浦は弁護人席を離れ、小宮へ声をかけ続けた。
「小宮さん、こちらを見てください」
「離してって言ってるでしょ!」
「今は何も話さないでください。落ち着いて」
「私の……私の場所に立ってるのよ!」
小宮は美沙を指さした。
「あそこは私の場所なの! あの人の隣は、私の場所だったのに!」
「小宮さん!」
三浦の声は、もう届いていなかった。
美沙は佑助の前から動かなかった。
ただ、取り押さえられた小宮を見つめていた。
佑助は、目の前の空間を見た。
そこには誰もいない。
けれど、小宮は確かに、誰かを見て叫んでいる。
佑助は傍聴席へ目を向けた。
佑と目が合う。
佑は、父が何を確かめようとしているのか分かった。
静かに頷いた。
佑助は、それ以上何も聞かなかった。
もう一度、自分の前に目を向けた。
そこに、美沙がいる。
見えなくても、分かった。
*
「静粛に! 静粛にしてください!」
裁判官が繰り返した。
傍聴席がざわめいている。
小宮は警務官に支えられながらも、なお暴れ続けていた。
「どうしてあんたがいるのよ!」
「小宮さん、落ち着いて!」
「死んだくせに! なんで今さら出てくるのよ!」
三浦は何度も声をかけた。
しかし、小宮は美沙から目を離そうとしなかった。
やがて裁判官が、審理を一時中断することを告げた。
「休廷します」
警務官に連れられ、小宮は法廷を出ていく。
それでも最後まで、見えない美沙に向かって叫び続けていた。
扉が閉まった。
ようやく、法廷に静けさが戻る。
三浦は、その扉を見つめていた。
今の状態では、小宮を再び被告人席に戻すことは難しい。
少なくとも、今日の審理を続けられるとは思えなかった。
弁護人として、裁判所にそのことを伝えなければならない。
分かっていた。
それでも、すぐには足が動かなかった。
自分は、何をしたのだろう。
彼女に真実を聞かせたかった。
それだけだった。
けれど、彼女はその真実を受け止められなかった。
検察官は眉間を指で押さえ、ゆっくりと首を振った。
まさか、こんな展開になるとは。
岡崎は傍聴席に戻り、どっかりと腰を下ろしていた。
大きく息をつく。
八年前の事件について、小宮は自分の口で語った。
誰に向かって言ったのか。
なぜ、そこに美沙がいると思ったのか。
それは分からない。
だが、聞いた言葉は消えない。
岡崎はしばらく、閉じられた扉を見つめていた。
*
休廷後、三浦は裁判所に、現状では被告人との意思疎通が困難であり、審理の再開には慎重な判断が必要だと伝えた。
検察官も、今日の審理を続けることは難しいという見解だった。
裁判官は状況を確認したうえで、本日の審理を終了し、次回期日について改めて調整することとした。
柏木家の三人も、法廷をあとにした。
佑助は何も言わなかった。
佑も、すぐには言葉が出なかった。
美沙だけが、二人の少し後ろを歩いていた。
八年前に自分を殺した女が、ようやくその事実を口にした。
けれど、胸の中にあるのは、勝ち誇る気持ちではなかった。
ただ、疲れた。
それだけだった。
美沙は前を歩く夫と息子を見た。
佑助の背中。
佑の横顔。
二人とも、ひどく疲れた顔をしている。
「……帰ろうか」
佑助が言った。
「うん」
佑が答える。
美沙は二人に追いついた。
「そうね。帰ろう」
その声は、佑にしか聞こえなかった。
それでも、三人は並んで歩き出した。




