第二十四章 証言者たち
第二十四章 証言者たち
法廷には、独特の静けさがあった。
人がいないわけではない。傍聴席には何人もの人間が座り、裁判官も検察官も弁護人も、それぞれの席についている。
それでも、誰かが言葉を発するまでは、息をする音さえ聞こえそうだった。
柏木佑は、傍聴席に座る父の横顔を見た。
父はいつもと変わらない表情をしていた。
少なくとも、そう見えた。
「佑」
隣から母ちゃんが顔を覗き込んでくる。
「緊張してる?」
「……してるよ」
「大丈夫。聞かれたことに答えればいいんだから」
「分かってる」
「あと、背筋伸ばして」
「母ちゃん」
「はいはい。黙ります」
母ちゃんは口元を指で押さえた。
もちろん、その姿も声も、周囲には見えていない。
父がこちらを見る。
「大丈夫かい?」
「うん」
佑が頷くと、父は小さく微笑んだ。
やがて、最初の証人が呼ばれた。
岡崎だった。
*
岡崎は宣誓を済ませると、落ち着いた様子で証言台に立った。
検察官からの質問に、必要なことだけを答えていく。
事件当日の状況。
現場で確認されたもの。
被告人の言動と、捜査の経過。
岡崎の声には、感情らしいものがほとんど混じらなかった。
「被告人は、被害者に対して強い敵意を示していたということですね」
「はい。少なくとも、現場で確認された言動からは、そのように受け取れました」
「分かりました」
検察官が手元の資料に目を落とした。
岡崎は、そこで小さく息をついた。
「失礼。少し汗をかきまして」
上着のポケットに手を入れ、ハンカチを取り出す。
そのときだった。
かさり、と小さな音がした。
何かが証言台の脇に落ちた。
透明な小さなパウチだった。
中には、細いチェーンと指輪が入っている。
「岡崎さん。何か落ちましたよ」
検察官が淡々と言った。
「おや」
岡崎は足元に目を落とした。
「これは失礼しました」
身をかがめ、パウチを拾い上げる。
その瞬間だった。
「……なんで」
被告人席から、かすかな声がした。
岡崎が顔を上げる。
小宮奈緒が、彼の手元を見つめていた。
「なんで、あんたがそれを持ってるのよ」
岡崎は、パウチを一度見た。
「これは、私のですから」
それだけ言って、何事もなかったようにポケットへしまった。
「何言ってるの!」
小宮が立ち上がりかけた。
「それは私の指輪よ!」
「被告人」
裁判官の声が響いた。
「勝手な発言は控えてください」
小宮は口を開いたまま、裁判官を見た。
やがて、不満そうに唇を結ぶ。
それでも視線は、岡崎のポケットから離れなかった。
弁護人席で、三浦は動けずにいた。
今の指輪。
あれは。
警察が、押さえたのか。
小宮が身につけていた指輪のことを、三浦は知っている。
宝石店に残されていた古い台帳も見た。
消された刻印。
わずかに残っていた文字。
あの指輪が誰のものだったのか、三浦には心当たりがあった。
だが、警察がどこまで調べたのかは知らない。
「弁護人。証人に質問はありますか」
裁判官に促され、三浦は顔を上げた。
「……はい」
立ち上がる。
岡崎は、静かにこちらを見ていた。
「一つ、確認させてください」
「どうぞ」
「先ほど、ポケットにしまわれた指輪ですが」
「はい」
「それは、あなたのものですか」
「私の物です」
岡崎は即答した。
「異議があります」
検察官が口を開いた。
「本件との関連性が明らかではありません」
裁判官が三浦を見る。
「弁護人。質問の趣旨を明らかにしてください」
三浦は、答えられなかった。
小宮が、こちらを見ている。
取り返せ。
そう言いたげな目だった。
しかし。
もし、ここで小宮の所有物だと主張したら。
警察がすでに鑑定を終えているとすれば、指輪の本当の持ち主を明らかにする材料を握っているかもしれない。
あの削られた部分に、何が残っていたのか。
自分の知らない事実が、まだあるのか。
分からない。
ここで指輪の話を広げれば、佑への殺人未遂とは別の事件が、この法廷に持ち込まれることになる。
それが小宮にとって不利に働く可能性は高い。
小宮は、それを分かっているのだろうか。
いや。
彼女はただ、指輪を取り返したがっている。
その先に何があるかなど、考えていない。
「……すみません」
三浦は頭を下げた。
「質問を終わります」
「はあ!?」
小宮の声が響いた。
「なんで引き下がるの!」
「被告人、静かに」
「あれは私のものよ! 取り返して、三浦くん!」
「被告人!」
裁判官の声が、今度は一段強くなった。
「これ以上、審理を妨げるような発言を続けるのであれば、退廷を命じることもあります。よろしいですね」
小宮は、何か言い返そうとした。
しかし、周囲の視線を感じたのか、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
唇を固く結ぶ。
それでも、岡崎のポケットを睨み続けていた。
三浦は、黙って席についた。
岡崎は、もう小宮を見ていなかった。
*
「……あれ?」
美沙が、ふいに顔を上げた。
佑は小さく首を傾げる。
「どうした?」
「佑。後ろ」
「後ろ?」
「振り返らなくていい」
美沙の声が低くなった。
その視線は、傍聴席の最後列に向けられていた。
そこに、女が立っていた。
小宮奈緒だった。
いや、被告人席にも小宮奈緒は座っている。
美沙には分かる。
あれは、生霊だ。
家に現れ、皿を飛ばし、包丁まで持ち出した、あの女。
今は、ただ立っている。
傍聴席の一番後ろで、微動だにせず。
そして、その目は。
被告人席の小宮奈緒を、まっすぐに見つめていた。
「……なんで、あんたがあんたを見てるのよ」
美沙が小さく呟く。
生霊は答えない。
動きもしない。
ただ、自分自身を見つめ続けていた。
*
佑が証言台に呼ばれた。
宣誓を済ませ、椅子に座る。
検察官の質問は、事前に打ち合わせた内容に沿って進んだ。
事件当日、何があったのか。
小宮がどのような言葉を口にしたのか。
刃物を向けられたとき、どう感じたのか。
佑は、一つずつ答えた。
思い出したくないこともあった。
けれど、言葉に詰まるたび、少し間を置いてから話した。
検察官は急かさなかった。
傍聴席で、父がじっとこちらを見ている。
そのそばに、母ちゃんが立っていた。
ただ、母ちゃんは時折、後方を振り返っていた。
あの生霊は、まだそこにいる。
小宮本人を見つめたまま。
動かない。
やがて、検察官の質問が終わった。
「弁護人。質問をどうぞ」
三浦が立ち上がる。
「柏木佑さん」
「はい」
「小宮奈緒は、あなたが塾生だった頃から、親身になってくれた先生ではありませんでしたか」
佑は少し考えた。
「子供の頃は、そう思っていました」
「では、なぜ襲われたと思いますか」
「分かりません」
三浦は頷いた。
「小宮奈緒は、あなたが父親にあることないことを吹き込み、二人の関係が悪化したと主張しています」
「言ったことありません」
「小宮奈緒は、あなたを息子のように支えてきたのではありませんでしたか」
佑は三浦を見た。
「父は、迷惑だと言っていました。俺も同意見です」
そのとき。
被告人席で、小宮の眉がぴくりと動いた。
同時に。
「……佑」
母ちゃんの声がした。
佑は反応しなかった。
「動いた。あの女、こっちに来る」
美沙は後方を見ていた。
それまで微動だにしなかった生霊が、ゆっくりと歩き出していた。
床を踏む音はない。
ただ、滑るように前へ進んでくる。
三浦は質問を続けた。
「迷惑だという、お父さんの言葉を信じたのですか」
「はい。俺は、父親が嘘をついているようには見えませんでした」
「あなたが小宮奈緒について、あることないことを吹き込んだという事実は?」
「ありません」
「佑、また近づいた」
母ちゃんの声が、少し強くなった。
生霊が、さらに一歩進んでいた。
その目は、まだ小宮本人に向けられている。
佑は膝の上で拳を握った。
ここで何かを言えば、証言がおかしくなる。
けれど、母ちゃんの声を無視することもできなかった。
美沙は佑のそばへ移動した。
「大丈夫。母ちゃんが見てるから」
佑は、ほんのわずかに頷いた。
三浦は手元の資料を閉じた。
「……裁判長」
「何でしょう」
「もう一人、証言をお願いしたい方がいます」
法廷が静まり返った。
裁判官が顔を上げる。
「予定されていない証人ということですか」
「はい」
「どなたですか」
三浦は、一度だけ被告人席を見た。
小宮は、不機嫌そうにこちらを睨んでいた。
「柏木佑助さんです。被害者の父親にあたる方です」
佑は思わず傍聴席を見た。
父も、驚いた顔をしていた。
裁判官は少し考えたあと、検察官と三浦を呼び寄せた。
低い声で、何事かを確認し合っている。
検察官は資料を開き、三浦の説明を聞いた。
ときおり、裁判官が質問する。
しばらくして、二人はそれぞれの席へ戻った。
裁判官が口を開いた。
「異例ではありますが、弁護人の申し出について協議した結果、追加の証人尋問を認めます」
そして、傍聴席へ視線を向けた。
「柏木佑助さん。証言台へお願いします」
父は、すぐには立ち上がらなかった。
佑と目が合う。
驚きと戸惑いが、その顔に浮かんでいた。
検察官が父のそばへ歩み寄り、何かを耳打ちした。
父は静かに頷いた。
立ち上がる。
「……父さん」
佑が呟く。
父は佑の前を通り過ぎるとき、ほんの少し微笑んだ。
大丈夫だよ。
そう言っているようだった。
美沙は、父の背中を見つめた。
それから、傍聴席の後方を振り返る。
生霊は、まだ立っていた。
被告人席の小宮を見つめたまま。
美沙は再び、父に目を戻した。
佑助は証言台に立った。
係員から宣誓書を受け取り、静かに顔を上げる。
「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、また何事も付け加えないことを誓います」
柏木佑助は、はっきりとした声で宣誓した。




