第二十三章 生きてるくせに
第二十三章 生きてるくせに
父さんが帰ってきたのは、いつもと同じくらいの時間だった。
「ただいま」
「おかえり」
「おかえりなさーい!」
玄関から聞こえた父さんの声に、俺と母ちゃんが返事をする。
もちろん、父さんに聞こえたのは俺の声だけだ。
「母さんも、おかえりって言ってるよ」
「うん。ただいま、母さん」
父さんは靴を脱ぎながら、少し笑った。
こういうやり取りにも、すっかり慣れてしまった。
死んだ母親が家にいて、息子が通訳をしている。
普通に考えれば、とんでもない家庭だ。
けれど、俺たちにとっては、もうこれが日常だった。
*
夕飯を食べ終えると、父さんは食器を片づけ始めた。
「父さん、俺が洗うよ」
「いいよ。佑は明日も大学だろう」
「父さんだって仕事じゃん」
「今日は私がやりたい気分なんだ」
そう言って、父さんは皿を重ねた。
母ちゃんが、すかさずその横へ移動する。
「ちょっと、あなた! そのお皿、油がついてるから先にお湯で流した方がいいわよ!」
「母ちゃん、父さんに聞こえてないって」
「あ、そうだった。佑、伝えて!」
「父さん、母ちゃんが油のついた皿はお湯で流せって」
「はいはい」
父さんが笑いながら蛇口をひねった。
「あとね、スポンジはちゃんと泡立てて!」
「母ちゃん、うるさい」
「何よ。お母さん、親切に教えてあげてるのに」
「父さん、スポンジ泡立てろって」
「分かりました、母さん」
父さんは、誰もいないはずの隣へ向かって答えた。
母ちゃんは満足そうに頷く。
「よろしい」
俺はテーブルに頬杖をついた。
食べ終わった皿が、まだ何枚か残っている。
父さんが一度に運びきれなかった分だ。
母ちゃんは今度、父さんの手元を覗き込んでいた。
「そこ、まだ泡ついてる!」
「母ちゃん、もういいだろ」
「だって気になるんだもの」
俺は笑った。
父さんも、俺の顔を見て笑った。
そのときだった。
チカッ。
天井の照明が、一瞬だけ暗くなった。
「あれ?」
俺は顔を上げた。
チカ、チカッ。
今度は二度。
「電球、切れかけてるのかな」
父さんが手を止めた。
「まだ替えたばかりなんだけどね」
母ちゃんは返事をしなかった。
シンクの横に立ったまま、じっと居間の入り口を見ていた。
「……母ちゃん?」
チカチカチカッ。
照明が激しく点滅した。
同時に、テーブルが小さく揺れた。
カタカタ。
カタカタカタ。
椅子の脚が床を叩く。
「……何だ?」
父さんが振り返った。
母ちゃんの顔から、笑みが消えていた。
「佑」
「何?」
「小宮がいる」
背筋が冷たくなった。
「……え?」
「入り口。今、そこにいる」
俺は反射的に居間の入り口を見た。
何もいない。
いつもの廊下が見えるだけだ。
けれど母ちゃんは、そこから目を離さなかった。
「前より、ずっとはっきりしてる……」
「母ちゃん?」
「あの女、今度は……」
母ちゃんが息を呑んだ。
「佑を見てる」
心臓が跳ねた。
「父さん!」
俺が叫ぶと、父さんはすぐに蛇口を止めた。
「どうした?」
「小宮の生霊が来てる!」
父さんの表情が変わった。
「どこに?」
「居間の入り口! 母ちゃんにしか見えないけど!」
母ちゃんが叫んだ。
「佑! こっちに来る! 逃げて!」
俺は椅子を蹴るように立ち上がった。
テーブルから離れた、その直後だった。
カタン。
食器が一枚、動いた。
いや。
動いたんじゃない。
浮いた。
テーブルの上に残っていた皿が、ゆっくりと宙へ持ち上がっていく。
「……は?」
俺は思わず声を漏らした。
皿は誰にも支えられていない。
なのに、空中でぴたりと止まっていた。
「佑、伏せて!」
母ちゃんが叫んだ。
次の瞬間。
皿が飛んできた。
「うわっ!」
俺は横へ飛び退いた。
ガシャン!
皿が壁に当たり、砕け散った。
「佑!」
父さんが駆け寄ってくる。
「大丈夫か!」
「う、うん!」
返事をした途端、今度は花瓶が浮いた。
棚の上に置いてあった、小さな花瓶だ。
「ちょっと! やめなさいよ!」
母ちゃんが俺の前に飛び出した。
両手を大きく広げ、立ちはだかる。
「佑には指一本触れさせないから!」
花瓶が飛んだ。
母ちゃんは逃げなかった。
真正面から受け止めようとした。
だが。
すうっ。
花瓶は母ちゃんの胸を通り抜けた。
「えっ」
母ちゃんが間の抜けた声を出す。
「うわあっ!」
俺は慌ててしゃがんだ。
花瓶が頭の上を通過し、背後の床に落ちた。
ガシャン!
破片が飛び散る。
「ちょっと! なんで通り抜けるのよ!」
「母ちゃん! 幽霊だからだろ!」
「でも、あの女は持てるのよ!」
「知らないよ!」
照明は相変わらず点滅していた。
椅子がひとりでに揺れ、テーブルの脚が床を叩く。
母ちゃんはまた俺の前に立った。
「佑! お母さんが守るから!」
「母ちゃん!」
「何!」
「前に立たれると、何が飛んでくるか見えない!」
「ええっ!?」
「母ちゃんは見えても、俺には小宮が見えないんだよ!」
「そ、そうだった!」
母ちゃんが慌てて横へずれた。
その隙に、父さんが俺の前に立った。
「佑、下がりなさい」
「父さん!」
「いいから」
父さんは俺を背中に庇った。
声は穏やかだったが、その肩には力が入っていた。
「母さんは、今どこにいる?」
「父さんの横!」
「小宮さんは?」
俺は母ちゃんを見た。
「母ちゃん、小宮は?」
母ちゃんが入り口の方を睨んだ。
「……止まった」
「止まった?」
「あなたを見てる」
父さんが息を呑んだ。
母ちゃんは、さらに続けた。
「ちょっと怯んだみたい。でも……」
母ちゃんの視線が動いた。
居間から、台所へ。
「……え?」
その声に、嫌な予感がした。
「母ちゃん?」
「待って」
母ちゃんが一歩踏み出した。
「そっちは駄目」
台所で、かすかな音がした。
カチャ。
父さんが振り返った。
シンクの近く。
包丁をしまってある引き出しが、ゆっくりと開いていく。
「……嘘だろ」
俺は呟いた。
引き出しの中から、一本の包丁が持ち上がった。
刃が照明を反射する。
それが、何もない空間に浮かんでいた。
「……嘘でしょ」
母ちゃんの声が低くなった。
さっきまでの騒がしさが、嘘のように消えた。
父さんが俺の肩を押した。
「佑、後ろへ」
「でも、父さん!」
「下がりなさい!」
父さんが珍しく強い声を出した。
俺は一歩後ずさった。
包丁の切っ先が、こちらへ向いた。
母ちゃんが叫んだ。
「小宮奈緒!!」
次の瞬間。
母ちゃんが走った。
床を蹴る音はしない。
それでも、ものすごい勢いだった。
両腕を前に突き出し、台所へ向かって一直線に突っ込んでいく。
「母ちゃん!」
俺の声が届いたかどうかも分からない。
母ちゃんは、包丁を持つ何者かに体当たりした。
すうっ。
包丁の刃が、母ちゃんの身体を通り抜けた。
だが、その向こうで。
何かが、弾き飛ばされた。
俺には見えない。
けれど、母ちゃんの身体が何かにぶつかり、そのまま押し出していくのが分かった。
台所の奥へ。
壁際まで。
母ちゃんが叫んだ。
「生きてるくせに!!」
今まで聞いたことのない声だった。
怒鳴り声というより、悲鳴に近かった。
「私の家族に手を出さないで!!」
バチンッ!
照明が一度、大きく明滅した。
同時に、包丁が床へ落ちた。
カラン、と乾いた音が響く。
テーブルの揺れが止まった。
椅子も動かなくなった。
照明が、元の明るさに戻った。
静かだった。
あまりにも突然、すべてが止まった。
「……母ちゃん?」
俺は呼びかけた。
母ちゃんは台所の奥に立っていた。
壁の方を睨んだまま、動かない。
「母ちゃん!」
もう一度呼ぶと、ようやく振り返った。
「……いなくなった」
「小宮が?」
「うん」
母ちゃんは小さく頷いた。
「消えた」
俺はその場にへたり込みそうになった。
父さんが俺の肩を支える。
「佑、大丈夫か」
「……うん」
「怪我は?」
「ない。父さんは?」
「私も大丈夫だよ」
父さんは俺の顔を確かめると、床に落ちた包丁へ目を向けた。
それから、割れた皿と花瓶。
散らばった破片。
開いたままの引き出し。
父さんはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……母さんは?」
「そこにいる」
俺は台所を指さした。
「怪我はしてないみたい」
「そうか」
父さんは安堵したように息を吐いた。
「母さん」
父さんが、何も見えない台所の奥へ向かって呼びかけた。
「佑を守ってくれて、ありがとう」
母ちゃんは父さんを見た。
そして、少しだけ笑った。
「……当たり前でしょ」
俺はその言葉を父さんに伝えた。
父さんも、小さく笑った。
母ちゃんは俺のそばへ戻ってきた。
「佑」
「何?」
「怖かった?」
「……そりゃ、怖かったよ」
「そうよね」
母ちゃんは俺の顔を覗き込んだ。
「ごめんね。お母さん、皿も花瓶も止められなくて」
「いや、母ちゃんのせいじゃないし」
「でも、あの女は持てるのに、私には持てないなんて……」
母ちゃんは自分の手を見つめた。
「何なのよ、もう」
「母ちゃん」
「何?」
「ありがとう」
母ちゃんが顔を上げた。
「俺、母ちゃんがいてくれてよかった」
母ちゃんは目を丸くした。
それから、泣きそうな顔で笑った。
「……もう。そんなこと言われたら、お母さん、頑張っちゃうじゃない」
俺も笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
床に落ちた包丁が、目に入ったからだ。
あれが、もし飛んできていたら。
父さんが前に立っていなかったら。
母ちゃんが止めてくれなかったら。
考えたくなかった。
「佑」
父さんが俺の肩を抱いた。
「今日は、もう片づけは後にしよう」
「……うん」
「まず、三人とも無事でよかった」
父さんは、母ちゃんがいる方へ顔を向けた。
「母さんもね」
母ちゃんは頷いた。
「そうね」
俺が伝えると、父さんは静かに頷いた。
しばらく、誰も動かなかった。
割れた皿も、花瓶も、床に落ちた包丁も、そのままだった。
いつもの夕飯の後だった。
父さんが洗い物をして、母ちゃんが横から口を出して、俺がそれを通訳して。
ついさっきまで、そんな時間だった。
なのに。
小宮奈緒は、まだ俺たちを狙っている。
本人がここにいなくても。
身体が拘束されていても。
あの女の執着は、こうして家にまで入り込んでくる。
俺は母ちゃんを見た。
母ちゃんは、もう一度台所の入り口を振り返っていた。
その顔には、さっきまでの笑みはなかった。
母ちゃんは、静かに言った。
「……絶対に、負けないんだから」
俺は何も言わなかった。
ただ、父さんの腕の中で、小さく頷いた。




