↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
続・母ちゃんが、いる。  作者: もちむぎ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/29

第二十三章 生きてるくせに

第二十三章 生きてるくせに


 父さんが帰ってきたのは、いつもと同じくらいの時間だった。


「ただいま」


「おかえり」


「おかえりなさーい!」


 玄関から聞こえた父さんの声に、俺と母ちゃんが返事をする。


 もちろん、父さんに聞こえたのは俺の声だけだ。


「母さんも、おかえりって言ってるよ」


「うん。ただいま、母さん」


 父さんは靴を脱ぎながら、少し笑った。


 こういうやり取りにも、すっかり慣れてしまった。


 死んだ母親が家にいて、息子が通訳をしている。


 普通に考えれば、とんでもない家庭だ。


 けれど、俺たちにとっては、もうこれが日常だった。


     *


 夕飯を食べ終えると、父さんは食器を片づけ始めた。


「父さん、俺が洗うよ」


「いいよ。佑は明日も大学だろう」


「父さんだって仕事じゃん」


「今日は私がやりたい気分なんだ」


 そう言って、父さんは皿を重ねた。


 母ちゃんが、すかさずその横へ移動する。


「ちょっと、あなた! そのお皿、油がついてるから先にお湯で流した方がいいわよ!」


「母ちゃん、父さんに聞こえてないって」


「あ、そうだった。佑、伝えて!」


「父さん、母ちゃんが油のついた皿はお湯で流せって」


「はいはい」


 父さんが笑いながら蛇口をひねった。


「あとね、スポンジはちゃんと泡立てて!」


「母ちゃん、うるさい」


「何よ。お母さん、親切に教えてあげてるのに」


「父さん、スポンジ泡立てろって」


「分かりました、母さん」


 父さんは、誰もいないはずの隣へ向かって答えた。


 母ちゃんは満足そうに頷く。


「よろしい」


 俺はテーブルに頬杖をついた。


 食べ終わった皿が、まだ何枚か残っている。


 父さんが一度に運びきれなかった分だ。


 母ちゃんは今度、父さんの手元を覗き込んでいた。


「そこ、まだ泡ついてる!」


「母ちゃん、もういいだろ」


「だって気になるんだもの」


 俺は笑った。


 父さんも、俺の顔を見て笑った。


 そのときだった。


 チカッ。


 天井の照明が、一瞬だけ暗くなった。


「あれ?」


 俺は顔を上げた。


 チカ、チカッ。


 今度は二度。


「電球、切れかけてるのかな」


 父さんが手を止めた。


「まだ替えたばかりなんだけどね」


 母ちゃんは返事をしなかった。


 シンクの横に立ったまま、じっと居間の入り口を見ていた。


「……母ちゃん?」


 チカチカチカッ。


 照明が激しく点滅した。


 同時に、テーブルが小さく揺れた。


 カタカタ。


 カタカタカタ。


 椅子の脚が床を叩く。


「……何だ?」


 父さんが振り返った。


 母ちゃんの顔から、笑みが消えていた。


「佑」


「何?」


「小宮がいる」


 背筋が冷たくなった。


「……え?」


「入り口。今、そこにいる」


 俺は反射的に居間の入り口を見た。


 何もいない。


 いつもの廊下が見えるだけだ。


 けれど母ちゃんは、そこから目を離さなかった。


「前より、ずっとはっきりしてる……」


「母ちゃん?」


「あの女、今度は……」


 母ちゃんが息を呑んだ。


「佑を見てる」


 心臓が跳ねた。


「父さん!」


 俺が叫ぶと、父さんはすぐに蛇口を止めた。


「どうした?」


「小宮の生霊が来てる!」


 父さんの表情が変わった。


「どこに?」


「居間の入り口! 母ちゃんにしか見えないけど!」


 母ちゃんが叫んだ。


「佑! こっちに来る! 逃げて!」


 俺は椅子を蹴るように立ち上がった。


 テーブルから離れた、その直後だった。


 カタン。


 食器が一枚、動いた。


 いや。


 動いたんじゃない。


 浮いた。


 テーブルの上に残っていた皿が、ゆっくりと宙へ持ち上がっていく。


「……は?」


 俺は思わず声を漏らした。


 皿は誰にも支えられていない。


 なのに、空中でぴたりと止まっていた。


「佑、伏せて!」


 母ちゃんが叫んだ。


 次の瞬間。


 皿が飛んできた。


「うわっ!」


 俺は横へ飛び退いた。


 ガシャン!


 皿が壁に当たり、砕け散った。


「佑!」


 父さんが駆け寄ってくる。


「大丈夫か!」


「う、うん!」


 返事をした途端、今度は花瓶が浮いた。


 棚の上に置いてあった、小さな花瓶だ。


「ちょっと! やめなさいよ!」


 母ちゃんが俺の前に飛び出した。


 両手を大きく広げ、立ちはだかる。


「佑には指一本触れさせないから!」


 花瓶が飛んだ。


 母ちゃんは逃げなかった。


 真正面から受け止めようとした。


 だが。


 すうっ。


 花瓶は母ちゃんの胸を通り抜けた。


「えっ」


 母ちゃんが間の抜けた声を出す。


「うわあっ!」


 俺は慌ててしゃがんだ。


 花瓶が頭の上を通過し、背後の床に落ちた。


 ガシャン!


 破片が飛び散る。


「ちょっと! なんで通り抜けるのよ!」


「母ちゃん! 幽霊だからだろ!」


「でも、あの女は持てるのよ!」


「知らないよ!」


 照明は相変わらず点滅していた。


 椅子がひとりでに揺れ、テーブルの脚が床を叩く。


 母ちゃんはまた俺の前に立った。


「佑! お母さんが守るから!」


「母ちゃん!」


「何!」


「前に立たれると、何が飛んでくるか見えない!」


「ええっ!?」


「母ちゃんは見えても、俺には小宮が見えないんだよ!」


「そ、そうだった!」


 母ちゃんが慌てて横へずれた。


 その隙に、父さんが俺の前に立った。


「佑、下がりなさい」


「父さん!」


「いいから」


 父さんは俺を背中に庇った。


 声は穏やかだったが、その肩には力が入っていた。


「母さんは、今どこにいる?」


「父さんの横!」


「小宮さんは?」


 俺は母ちゃんを見た。


「母ちゃん、小宮は?」


 母ちゃんが入り口の方を睨んだ。


「……止まった」


「止まった?」


「あなたを見てる」


 父さんが息を呑んだ。


 母ちゃんは、さらに続けた。


「ちょっと怯んだみたい。でも……」


 母ちゃんの視線が動いた。


 居間から、台所へ。


「……え?」


 その声に、嫌な予感がした。


「母ちゃん?」


「待って」


 母ちゃんが一歩踏み出した。


「そっちは駄目」


 台所で、かすかな音がした。


 カチャ。


 父さんが振り返った。


 シンクの近く。


 包丁をしまってある引き出しが、ゆっくりと開いていく。


「……嘘だろ」


 俺は呟いた。


 引き出しの中から、一本の包丁が持ち上がった。


 刃が照明を反射する。


 それが、何もない空間に浮かんでいた。


「……嘘でしょ」


 母ちゃんの声が低くなった。


 さっきまでの騒がしさが、嘘のように消えた。


 父さんが俺の肩を押した。


「佑、後ろへ」


「でも、父さん!」


「下がりなさい!」


 父さんが珍しく強い声を出した。


 俺は一歩後ずさった。


 包丁の切っ先が、こちらへ向いた。


 母ちゃんが叫んだ。


「小宮奈緒!!」


 次の瞬間。


 母ちゃんが走った。


 床を蹴る音はしない。


 それでも、ものすごい勢いだった。


 両腕を前に突き出し、台所へ向かって一直線に突っ込んでいく。


「母ちゃん!」


 俺の声が届いたかどうかも分からない。


 母ちゃんは、包丁を持つ何者かに体当たりした。


 すうっ。


 包丁の刃が、母ちゃんの身体を通り抜けた。


 だが、その向こうで。


 何かが、弾き飛ばされた。


 俺には見えない。


 けれど、母ちゃんの身体が何かにぶつかり、そのまま押し出していくのが分かった。


 台所の奥へ。


 壁際まで。


 母ちゃんが叫んだ。


「生きてるくせに!!」


 今まで聞いたことのない声だった。


 怒鳴り声というより、悲鳴に近かった。


「私の家族に手を出さないで!!」


 バチンッ!


 照明が一度、大きく明滅した。


 同時に、包丁が床へ落ちた。


 カラン、と乾いた音が響く。


 テーブルの揺れが止まった。


 椅子も動かなくなった。


 照明が、元の明るさに戻った。


 静かだった。


 あまりにも突然、すべてが止まった。


「……母ちゃん?」


 俺は呼びかけた。


 母ちゃんは台所の奥に立っていた。


 壁の方を睨んだまま、動かない。


「母ちゃん!」


 もう一度呼ぶと、ようやく振り返った。


「……いなくなった」


「小宮が?」


「うん」


 母ちゃんは小さく頷いた。


「消えた」


 俺はその場にへたり込みそうになった。


 父さんが俺の肩を支える。


「佑、大丈夫か」


「……うん」


「怪我は?」


「ない。父さんは?」


「私も大丈夫だよ」


 父さんは俺の顔を確かめると、床に落ちた包丁へ目を向けた。


 それから、割れた皿と花瓶。


 散らばった破片。


 開いたままの引き出し。


 父さんはしばらく何も言わなかった。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……母さんは?」


「そこにいる」


 俺は台所を指さした。


「怪我はしてないみたい」


「そうか」


 父さんは安堵したように息を吐いた。


「母さん」


 父さんが、何も見えない台所の奥へ向かって呼びかけた。


「佑を守ってくれて、ありがとう」


 母ちゃんは父さんを見た。


 そして、少しだけ笑った。


「……当たり前でしょ」


 俺はその言葉を父さんに伝えた。


 父さんも、小さく笑った。


 母ちゃんは俺のそばへ戻ってきた。


「佑」


「何?」


「怖かった?」


「……そりゃ、怖かったよ」


「そうよね」


 母ちゃんは俺の顔を覗き込んだ。


「ごめんね。お母さん、皿も花瓶も止められなくて」


「いや、母ちゃんのせいじゃないし」


「でも、あの女は持てるのに、私には持てないなんて……」


 母ちゃんは自分の手を見つめた。


「何なのよ、もう」


「母ちゃん」


「何?」


「ありがとう」


 母ちゃんが顔を上げた。


「俺、母ちゃんがいてくれてよかった」


 母ちゃんは目を丸くした。


 それから、泣きそうな顔で笑った。


「……もう。そんなこと言われたら、お母さん、頑張っちゃうじゃない」


 俺も笑おうとした。


 けれど、うまく笑えなかった。


 床に落ちた包丁が、目に入ったからだ。


 あれが、もし飛んできていたら。


 父さんが前に立っていなかったら。


 母ちゃんが止めてくれなかったら。


 考えたくなかった。


「佑」


 父さんが俺の肩を抱いた。


「今日は、もう片づけは後にしよう」


「……うん」


「まず、三人とも無事でよかった」


 父さんは、母ちゃんがいる方へ顔を向けた。


「母さんもね」


 母ちゃんは頷いた。


「そうね」


 俺が伝えると、父さんは静かに頷いた。


 しばらく、誰も動かなかった。


 割れた皿も、花瓶も、床に落ちた包丁も、そのままだった。


 いつもの夕飯の後だった。


 父さんが洗い物をして、母ちゃんが横から口を出して、俺がそれを通訳して。


 ついさっきまで、そんな時間だった。


 なのに。


 小宮奈緒は、まだ俺たちを狙っている。


 本人がここにいなくても。


 身体が拘束されていても。


 あの女の執着は、こうして家にまで入り込んでくる。


 俺は母ちゃんを見た。


 母ちゃんは、もう一度台所の入り口を振り返っていた。


 その顔には、さっきまでの笑みはなかった。


 母ちゃんは、静かに言った。


「……絶対に、負けないんだから」


 俺は何も言わなかった。


 ただ、父さんの腕の中で、小さく頷いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。