第二十二章 届かない言葉
第二十二章 届かない言葉
公判まで、もうあまり時間がなかった。
三浦は机の上に広げた資料を、もう一度最初から読み返していた。
柏木佑に対する殺人未遂事件。
被告人、小宮奈緒。
検察側が提出を予定している証拠は、決して少なくない。
被害者本人の供述。
現場に駆けつけた警察官の証言。
柏木佑助が携帯電話で録音していた、事件当時のやり取り。
そして、柏木佑の名前で書かれた遺書。
百枚を超える、遺書の下書きだった。
三浦はその写しを一枚手に取った。
筆跡も、文章も、少しずつ違う。
だが、どれも柏木佑が自ら命を絶つことを前提に書かれていた。
これだけのものを用意しておいて、殺すつもりはなかった。
その主張を、裁判所がどう受け止めるだろう。
三浦は紙を置いた。
情状証人についても、手を尽くしていた。
小宮の親族には連絡を取った。
かつての勤務先にも、事情を聞いた。
彼女の人柄や、これまでの生活について、法廷で話してくれる人がいないか探した。
しかし、誰も証言台に立つとは言わなかった。
事件のことは分からない。
もう関わりたくない。
何を話せばいいのか分からない。
返ってくる言葉は違っても、結論は同じだった。
小宮奈緒のために、法廷へ出てくれる人はいない。
三浦は手帳を開いた。
公判の日程が記されている。
もう、方針を決めなければならなかった。
殺意を争うのか。
精神状態を争点にするのか。
それとも、事実を認めたうえで、量刑について主張するのか。
どの道を選ぶにしても、被告人本人の意思を確かめなければならない。
三浦は手帳を閉じた。
そして、接見の予約を入れた。
*
「三浦くん、今日は何の話?」
接見室に入ってきた小宮は、いつもと変わらない様子だった。
椅子に腰を下ろすと、三浦の持っている書類を見た。
「もうすぐ裁判なのよね」
「はい。その件でお話ししたくて来ました」
「早く終わらせてほしいわ。柏木先生だって、いつまでも待たされるのは嫌でしょうし」
三浦は書類を開く手を止めた。
「……柏木先生、ですか」
「そうよ」
小宮は不思議そうに首を傾げた。
「私がここにいる間、寂しい思いをしているでしょうね」
三浦は小宮を見た。
「小宮さん。以前も確認しましたが、柏木佑助さんは、あなたと交際していた事実はないと話しています」
「そんなこと、分かってるわ」
「分かっている?」
「周りにはそう言わなきゃいけないもの。先生は立場のある人だし、息子さんもいるでしょう?」
小宮は小さく笑った。
「佑くんが反対していたから、先生も困っていたのよ」
「柏木さんは、あなたと交際していないとはっきりおっしゃっています」
「三浦くん」
小宮の声が少し硬くなった。
「あなたまで、あの子の言うことを信じるの?」
「誰の言うことを信じるかという話ではありません。事実関係を確認しているんです」
「事実なら、私と先生は愛し合っている。それだけよ」
三浦は一度、息を整えた。
今日は、この話をするために来たのではない。
いや。
この話を避けていては、裁判の話もできないのかもしれなかった。
「小宮さん。今日は、佑くんに対する殺人未遂事件について、弁護方針を決めたいんです」
「ええ」
「あなたは、佑くんを殺そうとしたことを認めますか」
「認めるわけないでしょう」
即答だった。
「では、殺意はなかったということですか」
「当然よ」
小宮は、何を今さらという顔をした。
「佑くんが、私と柏木先生が一緒になることを認めてくれたら、あんなことしなかったもの」
「……あんなこと、というのは?」
「少しお灸を据えてあげたのよ」
三浦は黙った。
「だって、あの子ったら、いつまでたっても私のことを認めないんですもの。先生がかわいそうじゃない」
「小宮さん」
「何?」
「あなたは、刃物を持って佑くんに襲いかかったんですよね」
「だから?」
「恋愛の邪魔になるからといって、他人を傷つければ、それは犯罪です」
小宮は眉をひそめた。
「でも、生きてるじゃない」
三浦は言葉を失いかけた。
しかし、今日は引き下がるわけにはいかなかった。
「結果として佑くんが生きていたことと、あなたに殺意があったかどうかは、別の問題です」
「殺すつもりなんかなかったわ」
「刃物を向けたことは?」
「認めるわよ」
「何度も襲いかかったことは?」
「佑くんが逃げるからでしょう」
「逃げるのは当然です。刃物を持った人に追いかけられたんですから」
「大げさなのよ、あの子は」
三浦は膝の上で手を握った。
声を荒らげてはいけない。
相手の話を聞かなければならない。
だが、ただ聞いているだけでは、何も進まない。
「小宮さん。検察側は、あなたに殺意があったと主張しています」
「勝手に言わせておけばいいわ」
「それを裏づける証拠もあります」
三浦は一枚の書類を取り出した。
「佑くんの名前で書かれた遺書です」
小宮の表情は変わらなかった。
「ああ、あれね」
「あなたが書いたものですね」
「そうよ」
「なぜ書いたんですか」
「劇の練習よ」
三浦は顔を上げた。
「……劇?」
「そう。お芝居の練習」
「どんな劇ですか」
「そんなの、いちいち覚えてないわ」
「佑くんが自殺したように見せかけるための文章が、何枚もあります」
「だから、劇の練習だって言ってるでしょう」
「文章の内容も、少しずつ変えていますね」
「練習なんだから、変えることもあるわよ」
「百枚以上もですか?」
小宮は肩をすくめた。
「熱心だったのね、私」
三浦は書類を見つめた。
「小宮さん。これを裁判で説明する必要があります」
「説明すればいいじゃない」
「何の劇だったのか。いつ、どこで練習したのか。なぜ佑くんの名前を使ったのか。そうしたことを聞かれます」
「だから、たまたま選んだ文章があれだっただけよ。文章が変でも、別にいいじゃない」
「たまたま選んだ文章を、百枚以上も書いたんですか」
「三浦くん、しつこいわね」
小宮は不機嫌そうに腕を組んだ。
「私が劇の練習だって言ってるんだから、それでいいでしょう」
「それだけでは、裁判で通用しない可能性が高いんです」
「あなたがうまく説明すればいいじゃない」
三浦は顔を上げた。
「私が、ですか」
「そうよ。あなた、弁護士なんでしょう?」
小宮は当然のように言った。
「私が悪くないって、裁判官に説明するのが仕事じゃないの?」
三浦はゆっくりと首を振った。
「私の仕事は、あなたの権利と利益を守ることです。あなたに有利な事情を調べ、法律に基づいて主張することです」
「だったら、そうしてよ」
「ですが、事実と違う説明を作ることはできません」
小宮は三浦を見つめた。
その目に、初めてはっきりとした苛立ちが浮かんだ。
「何が言いたいの?」
「今の説明では、殺意を否定するのは非常に難しいということです」
*
三浦は別の資料を開いた。
「小宮さん。事件の前後、あなたは強い精神的負担を抱えていたのではありませんか」
「何よ、急に」
「八年前の事件について警察から話を聞かれ、柏木先生との関係についても周囲から否定された。あなたにとって、相当つらい状況だったのではないかと」
「当然でしょう。あの子のせいで、全部めちゃくちゃになったんだから」
「その精神的な負担について、裁判で事情を説明する方法も考えられます」
「……どういうこと?」
「ただし、それだけで責任能力がなかったということにはなりません。量刑にどの程度影響するかも、正直なところ厳しいと思っています」
小宮の顔色が変わった。
「ちょっと待って」
「はい」
「それって、私を頭のおかしな人間にするってこと?」
「そういう意味ではありません」
「そうでしょう!」
小宮は声を荒らげた。
「私が普通じゃないから、あんなことをしたって言いたいんでしょう!」
「違います。事件当時のあなたの状況を、裁判所に理解してもらうための話です」
「冗談じゃないわ!」
小宮は机を叩いた。
「私はおかしくなんかない! 柏木先生を愛しているだけよ!」
「小宮さん、落ち着いてください」
「落ち着いてるわよ!」
三浦は口を閉じた。
小宮は荒い息をつきながら、椅子に座り直した。
「そんな話、絶対にしないで」
「……分かりました。あなたが望まないことも踏まえて、方針を検討します」
「最初からそうしてよ」
小宮は髪を整えた。
そして、何事もなかったように言った。
「それより、先生はいつ迎えに来てくれるのかしら」
三浦は答えなかった。
彼女の中では、話が終わっていた。
殺意についても。
遺書についても。
自分が置かれている状況についても。
何一つ、変わっていなかった。
*
「小宮さん」
三浦は改めて呼びかけた。
「もう一つ、お話ししなければならないことがあります」
「まだあるの?」
「情状証人についてです」
「何それ」
「あなたのこれまでの生活や人柄について、法廷で話してくれる方を探していました」
「そう」
「ですが、今のところ、証言を引き受けてくれる方が見つかっていません」
小宮は目を瞬いた。
「だから?」
「あなたに有利な事情を裁判所に伝えるためにも、協力してくれる方がいないか、もう一度確認したいんです」
「柏木先生がいるじゃない」
三浦は目を閉じた。
ほんの一瞬だった。
「柏木先生は、被害者の父親です」
「だから?」
「今回の事件について、あなたのために証言していただくことは考えにくいです」
「どうしてよ。私のことを一番よく知ってるのは先生なのに」
「小宮さん」
「先生に頼んでくれたらいいじゃない。あなたから話せば、きっと分かってくれるわ」
「柏木先生は、あなたとの交際を否定しています」
「またそれ?」
「そして、息子さんが殺されかけた事件の被害者家族です」
「佑くんは生きてるでしょう!」
三浦は小宮を見た。
小宮も三浦を睨み返した。
「さっきから何なのよ。あの子は生きてるじゃない。なのに、どうして私ばっかり責められなきゃいけないの?」
「……小宮さん」
三浦は書類を閉じた。
もう、遠回しな言い方をしている時間はなかった。
「聞いてください」
小宮は不満そうに顔を背けた。
「公判は、もうすぐ始まります」
「知ってるわ」
「検察側には、殺意を裏づける証拠があります。被害者の証言もあります。あなたが作成した遺書もあります」
「だから、あれは劇の練習で――」
「小宮さん!」
三浦の声が、接見室に響いた。
小宮が驚いたように口を閉じた。
三浦自身も、自分の声の大きさに驚いていた。
それでも、目を逸らさなかった。
「もう、やめませんか」
「……何を?」
「事実から目を背けることです」
小宮は黙っていた。
「あなたは、佑くんに刃物を向けました。何度も襲いかかりました。佑くんが死んだときのために用意したと疑われる遺書も、百枚以上あります」
「だから――」
「私は、あなたに殺意があったと考えています」
小宮の顔から表情が消えた。
三浦は続けた。
「もちろん、私がそう考えていることと、裁判で殺意が認定されるかどうかは別です。あなたには、争う権利があります。私はその権利を守ります」
「……」
「ですが、今のままでは、あなたを守るための主張を組み立てることができません」
三浦は一度、言葉を切った。
「幸い、佑くんは生きています」
小宮が顔を上げた。
「だったら――」
「だからこそです」
三浦は遮った。
「取り返しのつかない結果にならなかった。ですが、あなたがしたことまで、なかったことにはできません」
「……」
「罪を認めて、償うことを考えませんか」
小宮はしばらく三浦を見つめていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「三浦くん」
「はい」
「あなた、私の味方よね?」
三浦は答えた。
「私は、あなたの弁護人です」
「だったら、どうしてそんなこと言うのよ」
「あなたを守るためです」
「違うわ」
小宮は首を振った。
「味方なら、私が悪くないって言ってくれるはずでしょう?」
「小宮さん」
「先生と私の邪魔をしたのは佑くんなのよ。私が悪いわけじゃない」
「……」
「なのに、あなたまで私を責めるの?」
三浦は何か言おうとした。
しかし、言葉が出てこなかった。
「あなたなら分かってくれると思ってたのに」
小宮は唇を尖らせた。
「がっかりだわ」
三浦は、目の前の女性を見つめた。
自分は何を間違えたのだろう。
もっと穏やかに話すべきだったのか。
もっと時間をかけるべきだったのか。
それとも、最初から別の言葉を選ぶべきだったのか。
だが、どんな言葉なら届いたというのだろう。
小宮は、自分が柏木佑助に愛されていると信じている。
佑が二人の仲を邪魔したと信じている。
刃物を向けたことも、遺書を書いたことも、すべて正当な理由があったと思っている。
そして、自分に罪はないと言う。
その一方で、三浦には自分を無罪にするよう求めている。
話が、噛み合わない。
どこから話しても、同じところへ戻ってしまう。
「小宮さん」
三浦はもう一度、名前を呼んだ。
「何よ」
「私は、あなたの弁護を放棄するつもりはありません」
小宮は顔を上げた。
「じゃあ、私が悪くないって証明してくれるのね?」
「……それは、お約束できません」
小宮は再び顔を背けた。
「だったら、もう話すことなんてないわ」
三浦は黙った。
接見室に、沈黙が落ちた。
やがて、面会の終了が告げられた。
三浦は書類を鞄にしまった。
小宮は最後まで、こちらを見なかった。
*
事務所に戻った三浦は、机に座った。
公判の日程が書かれた手帳を開く。
もう、先延ばしにはできない。
殺意を否認するという小宮の意思は変わらなかった。
しかし、その説明を裏づける材料は見つからない。
情状証人もいない。
精神的に追い詰められていた事情を主張しようとしても、本人はそれすら拒んだ。
三浦は手帳の横に、接見の記録を置いた。
弁護人として、まだやるべきことはある。
証拠を精査し、検察側の立証を確認し、被告人に不当に不利な判断がなされないよう努める。
たとえ本人が罪を認めなくても、その仕事は変わらない。
だが。
三浦は、椅子の背にもたれた。
小宮の言葉が耳に残っていた。
『あなた、私の味方よね?』
味方とは、何だろう。
間違っていることを、間違っていると言わないことだろうか。
相手が望む言葉だけを返すことだろうか。
三浦は、以前、岡崎に言われた言葉を思い出した。
『どんなにこちらが手を伸ばしても、その手を掴もうとしない。人は、人を救えるのでしょうか』
あのときは、答えられなかった。
今も、答えられない。
三浦は机の上に置かれた小宮の事件記録を見つめた。
公判は、もうすぐ始まる。
それでも、彼女に何を伝えればいいのか。
もう、分からなかった。




