第二十一章 残された文字
第二十一章 残された文字
三浦弁護士の事務所を出てから、岡崎はほとんど口を開かなかった。
運転席の野上が、信号待ちでちらりと隣を見る。
「岡崎さん」
「何だ」
「やっぱり、小宮が持っていると思いますか」
「何をだ」
「指輪です」
岡崎は窓の外を見たまま答えた。
「そう思っているから、あの弁護士に会いに行ったんだろうが」
「でも、三浦先生は何も話しませんでしたよ」
「話せないんだろうよ」
野上は黙った。
岡崎は腕を組んだ。
「小宮が持っているんじゃないかと聞いたとき、あの先生、一瞬だけ止まった」
「ええ」
「それだけで決めつけるわけにはいかんが、調べる理由にはなる」
「小宮の自宅から押収した物の中には、ありませんでした」
「だから、ほかを当たる」
信号が青に変わった。
野上が車を発進させる。
「身柄を拘束された人間の所持品は、自宅にあるとは限らん」
岡崎は手帳を開いた。
「まず、逮捕時の所持品と、留置されてからの保管品を確認するぞ」
「はい」
*
確認には時間がかかった。
逮捕時に警察が押収した物と、本人の私物として保管されている物は、扱いが違う。
岡崎たちは記録をたどり、関係先に照会を重ねた。
そして、小宮奈緒の保管品の記録に、一つの記載を見つけた。
ネックレス。
金属製のチェーンに、指輪が一つ通されているという。
「……ありましたね」
野上が記録から顔を上げた。
「まだ現物を見ていない」
岡崎は言った。
「ただの指輪かもしれん」
「でも、わざわざチェーンに通していたんですよね」
「ああ」
岡崎は記録を見つめた。
柏木美沙の結婚指輪。
八年前、遺体とともには見つからなかった物。
そして三浦が、購入店まで足を運んで調べていた物。
偶然と片づけるには、気になることが多すぎた。
「手続きを進めるぞ」
「はい」
岡崎は記録を閉じた。
「美沙さんの物かどうか、確かめなきゃならん」
*
必要な手続きを経て、岡崎と野上の前に指輪が置かれた。
細いチェーンに通された、金色の指輪だった。
岡崎は手袋を着け、まず全体を確認した。
長い間使われていたのか、表面には細かな傷がある。
ただ、それよりも目を引く場所があった。
「岡崎さん」
野上が指輪の内側を覗き込んだ。
「ここ……」
「ああ」
内側の一部だけ、明らかに状態が違っていた。
ほかの部分には年月による細かな傷がある。
ところが、その一角には、不自然な削り跡が残っていた。
金属の表面が荒れ、刻まれていたはずの文字が判別しにくくなっている。
「何かを消そうとしたんでしょうか」
「そう見えるな」
岡崎は角度を変えた。
照明の下で、かろうじて文字らしいものが浮かぶ。
「……Y、ですかね」
野上が言った。
岡崎は答えず、もう一度確かめた。
傷の間に残った文字。
その先に続く、削られた部分。
「購入店の記録を出してくれ」
「はい」
野上が資料を広げた。
柏木佑助と美沙。
二人が結婚指輪を購入したときの記録だった。
店に残っていた写真には、対になった二つの指輪が写っている。
刻印の内容も記録されていた。
岡崎は写真と目の前の指輪を見比べた。
「形は似ていますね」
野上が言った。
「そうだな」
「刻印も、残っている部分は一致しそうです」
「まだ一致したとは言えん」
岡崎は指輪を元の位置に戻した。
「似た指輪はいくらでもある。文字だって、偶然同じことはある」
「……はい」
「だから調べるんだ」
野上は頷いた。
岡崎は資料の中から、購入店で撮影された写真を一枚取り出した。
そこには、傷のない指輪が写っていた。
美沙が身に着けていた頃の姿だ。
目の前にある指輪は、随分と違って見えた。
八年という年月だけでは説明しにくい傷が、内側に残っている。
「これを削った人間は」
野上がぽつりと言った。
「元の刻印が邪魔だったんでしょうか」
「さあな」
岡崎は答えた。
「理由は本人に聞かなきゃ分からん」
野上は指輪を見つめた。
「でも、消しきれなかったんですね」
岡崎も、残された文字へ目を落とした。
「……そうだな」
*
鑑定の依頼書を作成することになった。
指輪の形状、材質、内側の刻印。
削られた部分に、元の文字の痕跡が残っているか。
購入店の記録や写真と比較できる特徴があるか。
岡崎は確認したい事項を整理し、野上と一つずつ見直した。
「削られた文字って、分かるものなんでしょうか」
野上が尋ねた。
「分からん」
岡崎は即答した。
「削り方によっては、何も残っていないかもしれん」
「そうですよね」
「だから、最初から復元できると決めつけるな。今あるものから何が分かるか、それを調べてもらう」
「はい」
野上は依頼書に目を落とした。
「これが美沙さんの指輪だと分かったら、小宮が八年前の事件に関わっていたことを示す、重要な証拠になりますね」
「ああ。ただし、それだけで殺人を証明できるわけじゃない」
「分かっています」
「指輪をいつ、どうやって手に入れたのか。その説明も必要になる」
岡崎は椅子に深く腰を下ろした。
証拠は、一つ見つかれば終わりというものではない。
その証拠が何を示しているのか。
ほかの事実と、どう結びつくのか。
それを一つずつ確かめなければならない。
「柏木さんには、連絡しますか」
野上が尋ねた。
岡崎は顔を上げた。
「何をだ」
「指輪が見つかったかもしれないことです」
「まだ何も分かっちゃいない」
「……そうですね」
「鑑定もこれからだ。それに、今は捜査の途中だ」
岡崎は書類を揃えた。
「柏木さんには知らせん」
野上はそれ以上、何も言わなかった。
*
その日の夕方。
鑑定に回すための準備を終えた岡崎は、机に戻ってきた。
野上は別の資料を整理している。
「岡崎さん」
「ん?」
「柏木さん、指輪のことをずいぶん気にしていましたよね」
「ああ」
「早く見つかったと伝えられたらいいんですけど」
岡崎は椅子に座った。
柏木佑助の顔が浮かんだ。
初めて会ったときから、あの男は妙に落ち着いていた。
八年前に姿を消した妻が、白骨遺体となって発見された。
しかも、息子まで命を狙われた。
それなのに、柏木は取り乱さなかった。
質問には丁寧に答え、必要なことを尋ね、最後には必ず礼を言った。
岡崎は、そういう遺族を知らないわけではなかった。
長い刑事生活の中で、いろいろな人間を見てきた。
犯人も、被害者も。
そして、残された家族も。
泣き崩れる者がいた。
怒鳴り散らす者がいた。
犯人を殺してやると口にする者もいた。
何も言わず、ただ座っている者もいた。
どんな反応をするのが正しいなどと、岡崎は思っていない。
ただ、感情を表に出さない人間が、必ずしも平気でいるわけではないことを知っていた。
柏木は、何を支えにして立っているのだろう。
あの落ち着きが、いつまで続くのだろう。
岡崎には分からなかった。
分からないからこそ、気になった。
「岡崎さん?」
野上の声で、我に返った。
「何だ」
「いえ、何か考えているようだったので」
「柏木さんのことだ」
「……心配ですか」
「まあな」
岡崎は短く答えた。
「妻を殺されて、息子まで殺されかけた。それで平然としていられる人間が、どれだけいると思う」
「平然としているようには、見えましたけど」
「そう見えることが、かえって怖いんだよ」
野上は黙った。
「何を考えているのか分からん。ある日突然、自分で決着をつけようとするかもしれん」
「柏木さんが、ですか?」
「そうならないとは言い切れんだろう」
岡崎は机の上の資料を閉じた。
「だから、俺たちが仕事をする」
野上が顔を上げた。
「犯人を見つけて、証拠を揃えて、法に従って責任を問う。遺族に危ないことをさせないためにもな」
「……はい」
岡崎は立ち上がった。
「鑑定結果が出るまでは、まだ何とも言えん。ほかの捜査も進めるぞ」
「はい」
野上が資料を抱え直した。
岡崎は一度だけ、指輪の写真へ目を向けた。
削られた刻印。
傷だらけの金色。
その中に、かろうじて残った一文字。
いつか、これを柏木の手に返してやれたら。
そう思った。
だが、今はまだ、そのときではない。
岡崎は写真を資料に戻した。
指輪は鑑定へ回された。
八年間、誰かの手元にあった小さな金属の輪が、ようやく事件の証拠として調べられようとしていた。




