第二十章 証言の準備
第二十章 証言の準備
検察庁へ行くことになった。
検察官から、裁判で証言してほしいという連絡があったのは数日前のことだ。
俺は小宮奈緒による殺人未遂事件の被害者であり、事件当日の様子を直接知る人間でもある。
だから、検察側の証人として法廷に立ってほしいという。
もちろん、断るつもりはなかった。
ただ、裁判というものに出たことはない。
何を聞かれるのか。何を話せばいいのか。
考え始めると、少しばかり落ち着かなくなった。
「佑、大丈夫か」
玄関で靴を履いていると、父が声をかけてきた。
「うん。大丈夫」
「無理はしなくていいんだぞ」
「父さん、それ三回目」
「そうか」
「うん」
父は困ったように笑った。
その隣で、母親が腕を組んでいた。
「そうよ、佑。嫌なことは嫌って言いなさいよ」
「母ちゃんも三回目」
「あら、そうだった?」
「そうだった」
母親は少し考え込んでから、俺の肩を叩こうとした。
当然、その手はすり抜けた。
「あらやだ」
「今さら?」
「たまには触れるようになってるかもしれないじゃない」
「毎日試してるだろ」
「努力は大切なのよ」
父が俺を見た。
「母さんは何て?」
「触れるようになってないか、また試してた」
「そうか」
父は俺の肩へ目を向け、少しだけ笑った。
「母さん、いつか触れるようになるといいな」
「そうねぇ」
母親は自分の手を眺めた。
俺は父に伝えた。
「母ちゃんも、そう思ってるって」
父が頷いた。
「母さんも一緒に行くんだな」
「もちろんだって」
「それなら、三人で行こう」
母親が嬉しそうに笑った。
その顔を見て、俺は一つ思い出した。
「あ、母ちゃん」
「何?」
「今日は絶対、勝手にどこかへ行かないでよ」
「え?」
「誰か見つけても、ついて行かないこと」
母親の目が泳いだ。
「……誰かって?」
「誰でも」
「ちょっと様子を見るくらいなら」
「駄目」
「すぐ戻るわよ」
「駄目」
「信用ないわねぇ」
「前科があるからね」
「幽霊に前科って言わないで!」
思わず笑うと、父がこちらを見た。
「どうした?」
「母ちゃんが、幽霊に前科って言うなって」
父も笑った。
「それはそうだな。でも、佑の言うことを聞いてくれ。今日は大事な日なんだ」
「分かってるわよ」
母親は不満そうに頬を膨らませた。
「今日は、ちゃんと二人について行きます」
「約束だからね」
「はいはい」
「返事は一回」
「はーい!」
どうにも信用ならない返事だった。
父が尋ねた。
「約束してくれたか?」
「一応ね」
「一応、か」
父は苦笑した。
けれど、母親が一緒に来てくれること自体は、正直、心強かった。
*
検察庁の建物は、思っていたより静かだった。
受付で用件を伝え、案内された部屋へ向かう。
廊下を歩きながら、母親が小声で言った。
「なんか緊張するわね」
「母ちゃんは何も聞かれないだろ」
「そうだけど。ほら、こういう場所って」
「母さんは何て言ってる?」
俺が何もない場所へ話しかけたのを見て、父が尋ねた。
「緊張するって」
「そうか。実は私も少し緊張している」
「父さんまで?」
「佑のことだからな」
そう言って、父は俺の肩に手を置いた。
母親が反対側へ回り込む。
「私も!」
母親も俺の肩に手を置こうとした。
もちろん、すり抜ける。
「母ちゃんは触れないって」
「気持ちよ、気持ち!」
左右から挟まれているような気分になった。
実際に触れているのは、父の手だけだったけれど。
案内された部屋には、机と椅子が置かれていた。
しばらくして、スーツ姿の男性が入ってきた。
「お待たせしました。今回の事件を担当している検察官です」
男性は名乗り、俺と父に名刺を渡した。
「柏木佑さんですね。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「よろしくお願いします」
「お父様も、どうぞお掛けください」
父が頭を下げた。
母親は俺の隣の空いた椅子に座った。
当然、検察官には見えていない。
「今日は、裁判で証言していただくにあたって、事件当日のことを確認させてください」
検察官は穏やかな口調で説明した。
「実際の法廷では、私たち検察官が質問した後、弁護人からも質問があります。答えにくいこともあるかもしれませんが、覚えていることを、そのまま話していただければ結構です」
「はい」
「分からないことは、分からないと答えてください。無理に思い出したり、推測で答えたりする必要はありません」
俺は頷いた。
「では、事件当日のことから確認しましょう」
検察官が資料を開いた。
*
小宮がケーキを持って訪ねてきたこと。
父が母の失踪について質問したこと。
小宮が最初は穏やかに答えていたこと。
そして、母の話になるにつれて、少しずつ様子が変わっていったこと。
俺は順番に説明した。
「小宮さんは、最初から興奮していたわけではないんですね」
「はい。普通に話していました」
「お父様とも、会話が成立していた?」
「はい」
「どのあたりから様子が変わりましたか」
俺は少し考えた。
「母さんが殺されたときのことを、俺が話し始めてからです」
「その内容は、あなた自身が目撃したことですか」
「……いいえ」
俺は隣を見た。
母親が静かに座っていた。
「母さんから聞いたことです」
検察官は一度、手元の資料に目を落とした。
「お母様は、八年前に亡くなられていますね」
「はい」
「その点については、以前の供述も確認しています。今日は、佑さんご自身が見聞きしたことを中心に伺わせてください」
「分かりました」
母親が小さく頷いた。
検察官は質問を続けた。
「小宮さんは、その話を聞いて、何と言いましたか」
「最初は、やめなさいって。それから、黙れって怒鳴りました」
「その後は?」
「父さんの方を見て……どいつもこいつも邪魔ばかりするって」
あのときの小宮の顔が浮かんだ。
作り笑いが消えた顔。
鞄へ手を入れた瞬間。
「それから、あの女も邪魔だったから消したって言いました」
検察官が顔を上げた。
「その言葉は、はっきり覚えていますか」
「はい」
「続けて、何と言いましたか」
「今度は、あんたの番よって」
隣で母親が拳を握った。
父は黙っていた。
「そのとき、小宮さんは何をしていましたか」
「鞄からカッターナイフを出して、刃を伸ばしました」
「その後、どうなりましたか」
「俺に向かってきました」
検察官は一つずつ確認した。
どのくらいの距離にいたのか。
どこを狙って刃を振り下ろしたのか。
俺が避けた後、小宮はどうしたのか。
父が止めに入った後も、攻撃を続けたのか。
思い出せる範囲で答えた。
何度か、言葉が止まった。
あのときは逃げることに必死だった。
細かなことまで、全部覚えているわけではない。
それでも、覚えていることはあった。
小宮は俺を追いかけてきた。
父が止めても、また俺に向かってきた。
そして、母親がずっと叫んでいた。
右へ逃げろ。
後ろへ下がれ。
玄関へ走れ。
母親の声がなければ、俺は今ここに座っていなかったかもしれない。
「……大丈夫ですか」
検察官に声をかけられた。
「あ、はい」
「少し休憩しましょうか」
「いえ、大丈夫です」
父が俺を見た。
「佑、無理をするな」
「大丈夫だよ、父さん」
母親も俺の顔を覗き込んだ。
「本当に?」
「うん」
俺は二人に笑ってみせた。
*
検察官は別の資料を取り出した。
「次に、こちらを確認していただきたいんです」
机の上に、一枚の紙が置かれた。
俺の名前が書いてあった。
柏木佑。
その上には、短い文章が並んでいた。
家族への謝罪。
自分の意思で命を絶つという言葉。
誰も悪くないという説明。
俺はしばらく、その紙を見つめていた。
「……何ですか、これ」
「小宮さんの事件に関連して押収された文書です。あなたの遺書として作られたものと考えています」
父が身を乗り出した。
母親も机の上を覗き込む。
「佑さん。これは、あなたが書いたものですか」
「違います」
すぐに答えた。
「こんなもの、書いてません」
「内容に心当たりはありますか」
「ありません」
「自分で命を絶とうと考えていたことは?」
「ありません」
検察官は頷いた。
「ありがとうございます」
父は紙を見つめたまま、動かなかった。
俺の名前。
俺が書いていない、俺の遺書。
もし小宮の思いどおりになっていたら。
父は、これを読まされていたのだろうか。
母親がゆっくり顔を上げた。
その表情から、いつもの明るさが消えていた。
「……勝手なことを」
小さな声だった。
「佑が、そんなことするわけないじゃない」
俺は何も言えなかった。
検察官は文書を手元に戻した。
「小宮さんは、公判で殺意を否認する可能性があります」
父が顔を上げた。
「殺意を、ですか」
「はい。ただ、私たちは、今回の行為には殺意があったと考えています」
検察官は遺書に目を向けた。
「その理由の一つが、この文書です。仮に殺害する意思がなかったのなら、なぜ被害者が自殺したように見せかける準備をしていたのか、ということになります」
「……そうですね」
父の声は低かった。
「もっとも、この文書だけで全てが決まるわけではありません。作成された経緯や、事件当日の行動など、ほかの証拠と合わせて判断してもらうことになります」
検察官は俺を見た。
「ですから、佑さんが実際に見たこと、聞いたことが重要なんです」
「はい」
「それから、もう一つ」
検察官は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「弁護側が、事件当時の小宮さんの精神状態について主張する可能性も考えています」
「精神状態……?」
「警察から過去の事件について事情を聞かれ、強い動揺があったという事情です。ただ、動揺していたことと、刑法上の責任能力がなかったことは同じではありません」
父が静かに頷いた。
「その点も含めて、当日の小宮さんの様子を正確に把握しておきたいんです。最初は落ち着いていたのか、会話は成り立っていたのか、どのような言動があったのか」
検察官は続けた。
「もちろん、責任能力については専門的な検討が必要になる場合もあります。佑さんに判断していただくことではありません」
俺はもう一度頷いた。
「覚えていることを話せばいいんですね」
「はい。それで十分です」
母親が俺の隣で、そっと息を吐いた。
「そうよ。佑は、ちゃんと見たことを話せばいいの」
その声に、少しだけ肩の力が抜けた。
*
面談が終わったのは、それからしばらくしてだった。
検察官は、今後の手続きについて説明してくれた。
法廷での証言が不安な場合には、負担を軽くするための制度もあるという。
父は一つずつ確認し、俺にも分かるように説明を聞いていた。
「本日はありがとうございました」
検察官が頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
父と俺も立ち上がった。
母親は一足先に扉の前へ移動していた。
「さ、帰りましょ」
俺は鞄を持ち上げた。
廊下へ出ると、父が尋ねた。
「佑、疲れただろう」
「ちょっとね」
「どこかで休んでいくか」
「うーん」
「甘いもの!」
母親が即答した。
「母ちゃんに聞いてない」
「疲れたときには甘いものよ」
俺は父を見た。
「母ちゃん、甘いものがいいって」
「そうか。では、帰りに何か買っていこう」
「やった!」
母親が両手を上げた。
俺は呆れて笑った。
「母ちゃん、さっきまであんなに怒ってたのに」
「怒ってるわよ。今だって怒ってる」
母親は真顔で答えた。
「でも、お腹が空くのと怒るのは別でしょ」
「幽霊なのに?」
「幽霊でも!」
俺が吹き出すと、父が尋ねた。
「今度は何だ?」
「怒ってても、お腹は空くんだって」
「母さんらしいな」
父が笑った。
俺がその言葉を伝えると、母親も少しだけ表情を緩めた。
建物の外へ出ると、冷たい風が吹いていた。
父がコートの襟を直す。
母親はその横に並んだ。
「ねえ、佑」
「何?」
「裁判、怖かったら怖いって言っていいんだからね」
「うん」
「無理に強がらなくてもいいのよ」
「分かってる」
母親は少し黙った。
それから、俺を見た。
「でもね、母ちゃんは佑が話したいことを、ちゃんと話してほしいと思ってる」
「……うん」
「小宮が何を言っても、佑が悪いことにはならないんだから」
俺は母親の顔を見た。
さっきの遺書が、頭に浮かんだ。
俺の名前で書かれた、俺のものではない言葉。
あんなものを残して、俺の人生を終わらせようとしていた。
それを思うと、怖さよりも先に、腹が立った。
「俺、ちゃんと話すよ」
父が足を止めた。
「佑?」
「法廷で、あの日のことを話す。俺が見たことも、小宮先生が言ったことも」
父はしばらく俺を見ていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「分かった」
母親が俺の前へ回り込んだ。
「よし!」
また拳を構えている。
「……母ちゃん」
「何?」
「裁判で戦うのは俺だからね」
「分かってるわよ!」
「母ちゃんは静かにしててよ」
「応援くらいさせなさいよ!」
俺は父に向き直った。
「母ちゃん、応援くらいさせろって」
父は笑った。
「母さん、応援はほどほどにな」
「あなたまで!」
母親が頬を膨らませた。
「父さんにも言われちゃったね」
「もう! 二人して!」
俺も笑った。
証言台に立つのは、俺一人だ。
何を聞かれても、答えるのは俺自身だ。
それでも。
父ちゃんがいる。
母ちゃんもいる。
だから、きっと大丈夫だと思えた。




