第十八章 指輪の行方
第十八章 指輪の行方
柏木佑助から電話があったのは、午後のことだった。
「岡崎さん。少し、お話ししておきたいことがありまして」
『どうされましたか』
「小宮さんの弁護人の方が、妻の結婚指輪について調べているんです」
岡崎は手元の書類から顔を上げた。
『結婚指輪、ですか』
「ええ。妻が亡くなったとき、見つからなかった指輪です」
『……詳しく聞かせていただけますか』
柏木は、三浦が自宅を訪ねてきたことを話した。
妻の指輪が見つかったのかと尋ねられたこと。
購入した店を聞かれ、その店に残る注文記録を確認したいと言われたこと。
理由を尋ねても、守秘義務があるため答えられないと言われたこと。
『なるほど……』
岡崎は低い声で呟いた。
「私には、どうしても気になるんです。なぜ、息子の事件の弁護人が、妻の指輪について調べる必要があるのでしょうか」
『それは、私も気になりますね』
岡崎は少し考えた。
『柏木さん。そのお店の名前を教えていただけますか』
「はい。もちろんです」
柏木は店の名前と場所を伝えた。
『ありがとうございます。こちらでも確認してみます』
「よろしくお願いします」
電話を切ったあと、岡崎は向かいの席にいた野上を呼んだ。
「野上。ちょっと出るぞ」
「どちらへ?」
「宝飾店だ」
「宝飾店?」
「小宮の弁護人が、柏木美沙さんの結婚指輪を調べているらしい」
野上の表情が変わった。
「……八年前の、ですか?」
「ああ」
「どうして今になって?」
「それを確かめに行く」
岡崎は上着を手に取った。
***
店は、駅前の通りから少し入った場所にあった。
ガラス戸を開けると、小さな鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、白髪交じりの男性が顔を出した。
岡崎は警察手帳を示した。
「警察の岡崎と申します。こちらで以前、柏木佑助さんと美沙さんが結婚指輪を購入されたと伺いまして」
「ああ、柏木さん」
男性は頷いた。
「先日も、その件で弁護士さんがいらっしゃいましたよ」
「三浦さんですね」
「ええ、そうです」
「そのときの様子を、少しお聞かせいただけますか」
男性は二人を店の奥へ案内した。
「ずいぶん熱心に調べていらっしゃいましたね。特に、指輪の内側の刻印を気にされていたようです」
「刻印を?」
「はい。完成したときの写真をお見せしたら、何か分かったようなお顔をされていました」
岡崎と野上は顔を見合わせた。
「その写真は、今もありますか」
「ええ。注文票も残っています」
男性は古いファイルを持ってきた。
注文票には、二人の名前と指輪の仕様が記されていた。
柏木佑助。
柏木美沙。
そして、完成時に撮影された二つの指輪。
岡崎は写真をじっと見つめた。
「この写真と注文票を、捜査資料として提供していただくことはできますか」
「構いませんよ。柏木さんにも確認していただければ」
「ありがとうございます。必要な手続きを取らせていただきます」
野上は写真の刻印に目を落とした。
「YからMへ……結婚記念日も入っているんですね」
「ええ。こちらで彫らせていただきました」
「三浦さんも、この写真をご覧になったんですか」
「はい。特にこちらを、長いこと見ていらっしゃいました」
男性は刻印の写真を指差した。
岡崎は黙って、その写真を見た。
八年前、美沙の遺体が発見されたとき、結婚指輪はなかった。
そして今、その指輪の刻印を、小宮の弁護人が調べている。
「……野上」
「はい」
「戻ったら、当時の遺留品の記録をもう一度確認しよう」
「分かりました」
二人は店主に礼を言い、店を出た。
***
その頃、柏木家の居間では、佑と父が向かい合って座っていた。
母は、いつものように佑の隣にいる。
「それで、岡崎さんは何て?」
佑が尋ねた。
「気になるので、調べてみると言っていたよ」
「そっか……」
佑はテーブルの上に目を落とした。
「でもさ、母ちゃんの指輪って、結局どこに行ったんだろうな」
母が首を傾げた。
「そうなのよねえ。私も気になってるんだけど」
「母ちゃん、あの日、指輪してた?」
「してたと思うわよ」
「思うって……」
「だって、私、基本的に指輪を外したことはなかったもの」
母は自分の左手を見た。
薬指には、もう何もない。
「ほら、私ってすぐ忘れちゃうじゃない? 外してどこかに置いたら、なくしちゃうかもしれないでしょ。だから、ずっと着けてたのよ」
「なるほど」
佑は父に向き直った。
「母ちゃん、指輪は基本的に外さなかったって。なくすと困るからだってさ」
「ああ、そうだったね」
「自分はすぐ忘れるから、って」
「確かに」
「確かに」
父と佑が、ほとんど同時に頷いた。
「……ちょっと!」
母が二人を見比べた。
「そこ、ちょっとは否定してくれてもよくない?」
「自分で言ったんだろ?」
「そうだけど!」
父が不思議そうに佑を見た。
「佑、母さんはなんて?」
「少しは否定しろって」
「あ〜〜……うん」
父は曖昧に頷いた。
「ちょっと! その『うん』は何なのよ!」
母は頬を膨らませた。
佑は笑いを堪えながら、話を戻した。
「とにかく、母ちゃんは指輪を着けて出かけたってことだよな」
「そうね。外した覚えはないわ」
佑は父に伝えた。
父は静かに頷いた。
「私も、母さんが指輪を外しているところは、ほとんど見たことがないよ」
「でも、事件現場にはなかったんだよな」
「ああ」
「遺体が見つかったときも?」
「なかった」
父の声が少し低くなった。
「指輪だけじゃない。母さんが持っていたはずの物は、ほとんど見つかっていないんだ」
佑は黙り込んだ。
母も、父を見つめている。
「じゃあ……」
佑はゆっくりと言った。
「母ちゃんが指輪を外してないなら、誰かが持っていったってことになるよな」
父はすぐには答えなかった。
「……そう考えるのが自然かもしれないね」
「誰かって……」
佑は言いかけて、口を閉じた。
母が小さく呟いた。
「犯人、よね」
佑は父を見た。
「母ちゃんも、犯人が持っていったんじゃないかって」
父は深く息を吐いた。
「私も、そう思う」
三人の間に沈黙が落ちた。
やがて父が立ち上がった。
「もう一度、岡崎さんに連絡してみよう」
***
『柏木さん。どうされましたか』
「何度もすみません。先ほどの指輪のことで、もう一つお聞きしたいことがありまして」
『はい』
「妻は、普段から結婚指輪を外すことがありませんでした。あの日も、着けて出かけたと思うんです」
『そうですか』
「ですが、遺体と一緒には見つかっていません。ほかの持ち物も、ほとんど見つかっていないと伺っています」
『ええ』
「だとすれば、犯人が持ち去った可能性はありませんか」
電話の向こうで、岡崎が少し黙った。
『その可能性も含めて、捜査する必要がありますね』
柏木は一度、息を整えた。
「岡崎さん。小宮さんの自宅から押収された物の中に、指輪はありませんでしたか」
今度は、少し長い沈黙があった。
『……柏木さん』
「はい」
『申し訳ありませんが、押収品の内容については、今ここでお答えすることができません』
「……そうですか」
『奥様の事件と、佑さんの事件は、現段階では別の事件として捜査しています。関連があるかどうかも、確認が必要です』
「分かっています」
柏木は静かに答えた。
「ただ、妻の事件も、息子の事件も、私にとっては……」
言葉が途切れた。
『……ええ。分かります』
岡崎の声は穏やかだった。
『我々も全力で捜査します。ですから柏木さん、ご自分たちで捜査をするような危険なことは、絶対になさらないでください』
「はい」
『何か気になることがあれば、必ずこちらに連絡してください』
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
柏木は電話を切った。
居間に戻ると、佑が顔を上げた。
「どうだった?」
「押収品については、教えてもらえなかったよ」
「そっか……」
「でも、調べてくれるそうだ」
父はソファに腰を下ろした。
「それと、自分たちで危険なことはしないようにって」
「うん。それはそうだよな」
佑が頷きながら言った。
「…そうね。こっちは生霊の問題もあるし……ほら、今日もそこに来たわよ」
「え?」
佑は顔を上げた。
「いつから?」
「お父さんが電話をかけ終わるくらいに、居間の入り口に現れたわ」
「今どこ?」
「どんどんお父さんに近づいてるわ」
「なんで早く言わないの!」
「取り込み中だったでしょ」
「いや、そういう問題じゃなくて!」
母は佑の言葉を聞き流し、目の前の何かを睨みつけた。
「ちょっと! 足を動かさないで近づくの、やめなさいよ! 気持ち悪い!」
「え? 何?」
「小宮に言ってんの!」
母は立ち上がり、父の前に回り込んだ。
「ここから先は通さないわよ! あんたなんかに負けないんだからー!」
「父ちゃん!」
佑が叫んだ。
「母ちゃんが小宮と戦ってる!」
「ええ!?」
父が慌てて立ち上がった。
「どこにいるんだ!?」
「母ちゃんが父ちゃんの前に立ってる! 小宮は……俺には見えない!」
母は両手を広げ、何もない空間を睨んでいた。
「ほら! 来られるものなら来てみなさい!」
しばらくして、母がふっと肩の力を抜いた。
「……ふぅ。消えたわ」
「えっ?」
「私の力に恐れをなしたのね。口ほどにもないわ」
母は得意そうに胸を張った。
「こ、小宮、消えたって」
佑が父に伝える。
父はほっとしたように息を吐いた。
けれど、すぐに表情を引き締めた。
「美沙」
母が父を見た。
「何をしていても、現れたらすぐに言いなさい」
「……え?」
「佑に伝えてほしい。すぐにだよ」
「そうだよ、母ちゃん。マジで頼むよ」
「なんで私が怒られるのよ」
母はむくれた。
「ちゃんと追い払ったじゃない」
「そういうことじゃないって」
「佑、母さんは?」
父が尋ねた。
「なんで自分が怒られるんだって。ちゃんと追い払ったのに、って」
父は少し困ったように笑った。
そして、母がいるという場所へ顔を向けた。
「美沙」
母は黙って父を見た。
「君が、また突き飛ばされたり、傷つくのを見たくないんだ」
母の表情が変わった。
「だから、危ないことがあったら、すぐに教えてほしい」
父は少し間を置いた。
「でも、守ってくれてありがとう」
母は口を尖らせたまま、しばらく黙っていた。
やがて、小さく答えた。
「……分かったわよ」
そして、佑を見た。
「今度は、二人が何しててもすぐ言う。トイレに入ってても」
「そこまで言わなくても……」
「何よ! すぐ言えって言ったじゃない!」
「はいはい」
佑は父に向き直った。
「母ちゃんが、今度はすぐ言うって。いつ何時も」
「そうか」
父は安心したように微笑んだ。
そして、ふと自分の左手に目を落とした。
薬指には、今も金色の指輪がある。
「……指輪」
父は静かに呟いた。
「見つかるといいな」




