第十四章 彼岸花の記憶
第十四章 彼岸花の記憶
インターホンが鳴った。
佑がモニターを覗くと、見覚えのある二人が立っていた。
「岡崎さんと野上さんだ」
「あら、久しぶりね」
母が佑の肩越しに画面を覗き込んだ。
「母ちゃんには見えてるんだから、そんなに近づかなくてもいいだろ」
「いいじゃない。減るもんじゃなし」
佑は苦笑しながら、玄関へ向かった。
父もリビングから出てきた。
「岡崎さんたちか」
「うん」
父は少しだけ表情を引き締めた。
小宮が逮捕されてから三か月が過ぎていた。
佑に対する殺人未遂事件は、すでに起訴されている。
けれど、八年前の母の殺害については、いまだに立件されていなかった。
玄関の扉を開けると、岡崎が軽く頭を下げた。
「突然すみません。少しお時間をいただけますか」
「もちろんです。どうぞ」
父が二人を招き入れた。
母は廊下の端へ寄り、二人が通るのを待った。
「いらっしゃいませー」
誰にも聞こえない挨拶をする。
佑だけが、小さく笑った。
*
リビングのテーブルを挟み、岡崎と野上が並んで座った。
父と佑は向かい側に腰を下ろす。
母は佑の隣に座った。
もちろん、椅子は必要ない。
「まず、捜査の状況についてお伝えします」
岡崎が口を開いた。
「以前お話しした離婚届ですが、筆跡の鑑定だけでは小宮のものと断定できませんでした。指紋についても、有力なものは得られていません」
父は静かに頷いた。
「そうですか」
「それから、奥様が失踪された夜の車の目撃情報についても、改めて調べています。ただ、当時の車両を特定できるだけの情報は残っていません」
「八年前ですからね……」
父が呟いた。
岡崎は膝の上で手を組んだ。
「申し訳ありません。小宮が関与した疑いは強いと考えています。しかし、疑いと立証は別です」
母は黙って聞いていた。
普段なら何か一言挟むところだが、今日は口を開かなかった。
野上が佑へ視線を向けた。
「柏木佑さん。一つ、お聞きしてもいいですか」
「はい」
「以前、お母様が見えるとおっしゃっていましたよね」
佑は一瞬、返事に迷った。
あのときは、小宮から父を守るために必死だった。
母が見えることも、声が聞こえることも、隠している余裕などなかった。
けれど、改めて聞かれると、どう答えればいいのか分からなくなる。
信じてもらえるはずがない。
そう思いながらも、佑は頷いた。
「はい」
「今も、いらっしゃるんですか」
「います」
野上の表情は変わらなかった。
「どちらに?」
「俺の隣です」
野上は、佑の隣にある空間へ目を向けた。
母が慌てて背筋を伸ばした。
「どうも。柏木美沙です」
佑は思わず口元を緩めた。
「何かおっしゃっていますか?」
「……挨拶してます」
「そうですか」
野上は佑の隣へ向き直り、小さく頭を下げた。
「こんにちは、柏木美沙さん。野上です」
母が目を丸くした。
「えっ。ちょっと、この人、私に挨拶してくれた!」
佑が笑った。
父も驚いたように野上を見ていた。
「……ありがとうございます」
父は静かに頭を下げた。
「妻に挨拶してくださって」
野上は微笑んだ。
「こちらこそ。お邪魔しております」
母は嬉しそうに佑の肩を叩こうとして、手がすり抜けた。
「あら、やだ」
「母ちゃん、落ち着けよ」
佑が小声で言うと、父も少し笑った。
野上が改めて佑へ向き直った。
「お母様は、事件について何かお話しされていますか」
佑は母を見た。
母は腕を組み、しばらく考えていた。
「車に乗ったことは覚えてるのよ」
「うん」
「小宮先生からコーヒーをもらって、飲んだことも」
佑はそのまま伝えた。
「母さんは、小宮の車に乗ったことを覚えています。車の中でコーヒーをもらって、飲んだそうです」
岡崎が頷いた。
「そのあとは?」
「だんだん眠くなって、身体が動かなくなったって」
母は目を伏せた。
「目が覚めたら、暗い場所だった。小宮がいて……」
言葉が途切れた。
佑は母の顔を見た。
「無理に話さなくていいよ」
「ううん」
母は首を振った。
「ちゃんと話さなきゃ」
岡崎も野上も、急かさなかった。
しばらくして、母がぽつりと呟いた。
「……彼岸花」
「え?」
「彼岸花が咲いてたの」
佑は母を見つめた。
「どこに?」
「車の窓の外。赤い花が、いっぱい」
母は遠くを見るような目をした。
「眠くて、頭がぼんやりしてて……でも、あの花だけは覚えてる」
佑は二人の刑事へ向き直った。
「母は、彼岸花を見たそうです」
「彼岸花?」
岡崎が聞き返した。
「はい。車の窓から、赤い彼岸花がたくさん咲いているのが見えたって」
野上が手帳を開いた。
「九月下旬……時期は合いますね」
「そうだな」
岡崎は少し考えた。
「奥様は、その場所について、ほかに何か覚えていらっしゃいますか」
佑が母を見る。
母はゆっくりと首を横に振った。
「ごめん。覚えてない」
「場所までは分からないそうです」
「分かりました」
野上が手帳に書き込んだ。
そこで、ふとペンを止めた。
「……そういえば」
野上が顔を上げた。
「佑さん。もう一つ、お母様にお尋ねしてもいいでしょうか」
「はい」
「小宮さんの車に乗った場所は、覚えていらっしゃいますか?」
佑は母へ顔を向けた。
「母ちゃん。どこから乗ったか覚えてる?」
「ええ。塾へ向かって歩いていたら、小宮先生が車で来たのよ」
「家からどのくらい歩いたところ?」
「そうねえ……」
母は少し考えた。
「塾へ行くとき、いつも通る道だったわ。まだそんなに歩いてなかったと思う」
佑はそのまま伝えた。
「家から塾へ向かう途中で、小宮が車を停めたそうです。まだ家からそれほど離れていなかったって」
「その場所は、今も分かりますか?」
野上が尋ねた。
母は首を傾げた。
「道を見れば、分かると思うけど……」
「母が、実際に行けば思い出せるかもしれないって」
野上は岡崎を見た。
「岡崎さん。八年前の目撃証言ですが、女性が車に乗るところを見たという話がありましたよね」
「ああ」
「その場所と、奥様が覚えていらっしゃる場所を照らし合わせられませんか」
岡崎は少し考えた。
「……そうだな」
野上は続けた。
「当時の目撃者が見た女性が美沙さんだったのか、確認する手掛かりにはなるかもしれません」
「車の特徴や運転手の顔が分からなくても、乗車場所が一致するなら、目撃証言を見直す意味はある」
岡崎が頷いた。
「野上、当時の記録をもう一度確認しよう」
「はい」
野上は手帳へ書き込んだ。
佑は、二人のやり取りを見つめていた。
母の言葉が、ほんの少しだけ、捜査につながった。
それが何より嬉しかった。
岡崎は手帳を閉じた。
「ただ、一つお伝えしておかなければならないことがあります」
父と佑は姿勢を正した。
「我々が佑さんのお話を信じても、警察や検察、まして裁判官は、お母様の証言を証拠として取り上げることができません」
佑は黙って頷いた。
分かっていたことだった。
母の姿が見えるのは自分だけだ。
声が聞こえるのも、自分だけ。
どれほど母が真実を語っても、それを確かめる方法がない。
「だからこそ、物的証拠が必要なのですが……」
岡崎は言葉を切った。
「力及ばずで、申し訳ありません」
深く頭を下げた。
野上も頭を下げる。
「そんな」
父が慌てて言った。
「どうか、頭を上げてください」
岡崎が顔を上げた。
父は穏やかに続けた。
「八年も前の事件です。簡単ではないことは、私たちにも分かっています」
佑も頷いた。
「それに……」
父は隣の息子を見た。
「岡崎さんたちが、佑の話を信じてくださる。それだけで、私たちは心強いんです」
「はい」
佑は二人を見た。
「母がいるって話を、ちゃんと聞いてくれてありがとうございます」
野上は静かに頷いた。
「お話ししてくださって、ありがとうございます」
母が鼻をすすった。
「ちょっと、やだ。泣かせないでよ」
「母ちゃん、泣いてるの?」
「泣いてないわよ」
そう言いながら、母は目元を拭った。
岡崎が立ち上がった。
「では、我々は捜査に戻ります」
「よろしくお願いします」
父と佑も立ち上がった。
玄関まで見送ると、岡崎はもう一度振り返った。
「柏木さん」
「はい」
「まだ、終わっていませんから」
父は深く頷いた。
「はい」
岡崎と野上は頭を下げ、玄関を出た。
父が二人を見送る。
その左手の薬指には、今も結婚指輪がはまっていた。
*
柏木家を出た二人は、停めてある車へ向かって歩いていた。
しばらく無言だった岡崎が、ふと口を開いた。
「野上」
「はい」
「柏木美沙の幽霊、本当にいると思うか?」
野上は少し考えた。
「私には見えません」
「そうだな」
「でも私、神様を知ってるって言う知り合いがいるもので」
岡崎が足を止めた。
「……何だ、それは」
「さあ。私にもよく分かりません」
野上は真面目な顔で答えた。
岡崎はしばらく野上を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……世の中、分からんことだらけだな」
「そうですね」
二人は再び歩き出した。




