神の宝物庫
「ひぃぃぃぃっ、はやっ、待て、待てっておい――!!」
森の中にこだまする、一太の悲鳴とも絶叫ともつかない断末魔。
次の瞬間、一太の肉体は時速数百キロメートルという常軌を逸した超スピードで大森林を突き進んでいた。
《――残り距離、2キロメートル……1キロメートル……》
あまりの加速と風圧で、一太の顔面は物理法則に従って完全に崩壊していた。
頬は耳まで引っ張られ、鼻の穴は全開。唇はめくれ上がって歯茎が丸見え。涙も唾液も一直線に後方へ吹き飛んでいく。
(速ぇ! 顔が置いてかれてる!!)
AIボイスだけは相変わらず冷静だった。
《――目標地点に接近。ゼロ……到着します》
ゴゴゴゴゴッ!!
爆風と土煙を巻き上げ、一太の体が急停止。
地面を何本も削りながらドリフトし、寸分違わず停止した。
「ぶぇっ……! ぷはっ、ごほっ、ごほっ……!」
四つん這いになった一太は激しく咳き込み、歪みきった顔がゴムのように元へ戻っていく。
「し、死ぬかと思った……!」
涙目のまま立ち上がると、目の前には巨大な集落があった。
美しい森。
だが、そこだけ空気が重い。
痩せ細った住民たち。
長い耳。
誰がどう見てもエルフだった。
「ここが……飢餓のエルフ村……?」
《――現地到着。これより【人助けフェーズ】を開始します》
「は?」
《聖人君子としてご挨拶をどうぞ》
「誰がだよ!」
しかし体は止まらない。
勝手に一歩前へ。
爽やかな笑顔。
「おや、皆さん。そんなに悲しそうなお顔をされて、どうかなさいましたか?」
(うわぁ……絶対関わっちゃダメな村だ。)
「お腹を空かせた皆さんを見過ごすことなど、私にはできません。」
(できる。俺なら全力で見過ごす。)
「旅の途中で立ち寄っただけですが、困っている方を放っておくほど冷たい人間ではありません。」
(俺の心は永久凍土だぞ。)
「さあ、安心してください。」
「私が来た以上、もう飢えに苦しむ必要はありません。」
(期待値だけ爆上がりしてる!!)
エルフたちが顔を上げる。
絶望だった瞳に希望が宿る。
「ささやかながら、お力になりましょう。」
(俺の財布、中身ゼロなんだが!?)
聖人スマイルのまま、一太の体はさらに勝手に動く。
両腕を高く掲げる。
口が開く。
「応えよ、天啓の理――」
(嫌な予感しかしねぇ。)
「顕現せよ――『神の宝物庫』!」
バチバチッ!!
空間が裂けた。
ドゴオオオォォン!!
砂煙がゆっくりと晴れていく。
広場のど真ん中には、場違いなほど真っ白な巨大冷蔵庫が鎮座していた。
ガリガリに痩せたエルフたちは目を見開き、誰一人として動けない。正にあんぐりといった表情である。
と、同時に一太も心はあんぐり顔だ。
(あ、あれは俺の無限冷蔵庫じゃねえか‥‥)
そんな彼らへ向かって、一太の体は満面の笑みを浮かべる。
「さあ、遠慮はいりません。」
(え、ちょ、ま、ぬぇぇ!?)
「この宝物庫に眠る無限の美食と美酒を、飢えるすべての方へ――残らず分け与えましょう。」
(それ全部、俺の飯ぃぃぃ!!)
エルフたちが一斉に歓声を上げる。
「奇跡だ……!」
「神がお救いくださった!」
「食べ物だ!」
誰も彼もが冷蔵庫へ殺到した。
扉を開けば、高級肉。
新鮮な魚。
採れたての果物。
焼きたてのパン。
芳醇な香りの酒。
次から次へと溢れ出す食材へ、飢え切ったエルフたちは涙を流しながら手を伸ばす。
広場は歓喜に包まれた。
だが――
《――美食の提供を確認。続いて【自己紹介フェーズ】へ移行します》
(まだ終わらねぇのかよ!!)
「皆さん。」
冷蔵庫へ群がっていたエルフたちが、一斉に振り返る。
静まり返る広場。
一太は優雅に胸へ手を当てた。
「私の名は、水谷一太。」
エルフたちが息を呑む。
「通りすがりの――」
「――いや。」
(嫌な予感しかしない。)
「世界の愛を一身に背負う、慈愛の旅人です。」
(肩書き盛りすぎだろ!!)
「私はただ――」
「飢えた人を見れば、自らの身を削ってでも救いの手を差し伸べる。」
(削ってるの身じゃなくて冷蔵庫だからな!?)
「それが私の、ささやかな矜持です。」
一瞬の静寂。
次の瞬間。
「み、水谷一太様……!」
「なんという慈悲のお方……!」
「自らを犠牲にしてまで……!」
「我らの救世主だ!」
「水谷一太様、万歳ッ!!」
「「「水谷一太様、万歳ーーーッ!!」」」
大歓声が森中へ響き渡る。
エルフたちは涙を流しながら一太へ駆け寄り、手を握り、頭を下げ、感謝を叫ぶ。
(違う違う違う!! 俺じゃない! 犯人はあのスキルだ!!)
それでも誰も離れない。
「ありがとうございます!」
「救世主様!」
「我らはあなたを忘れません!」
聖人の笑みを浮かべたまま、一太の脳だけが必死に現実逃避を始める。
(……待てよ。)
(今ならいけるんじゃないか?)
歓喜に沸くエルフたち。
その視線はすべて一太へ向いている。
つまり――
(今なら冷蔵庫を抱えて逃げられる……!)
一太の目がギラリと光る。
広場の中央に鎮座する巨大な白い冷蔵庫。
(絶対取り返す。あれだけは返してもらう!!)
その執念だけを燃やし、一太は必死に”冷蔵庫奪還作戦”を脳内で組み立て始めるのだった。
その時だった。
突如、一太の視界に青白いウィンドウが現れた。
《――固有ユニークスキル【ギフト】より通知。選択肢を提示します》
(今それどころじゃねぇ!!)
一太が眉をひそめる。
ウィンドウには無情な文字が並んでいた。
⸻
【神の宝物庫をエルフ村に譲りますか?】
イエス
はい
⸻
(ノーを消すなァァ!!)
(二択のフリした一択じゃねぇか!!)
冷や汗が頬を伝う。
(選ばねぇ……。)
(絶対に選ばねぇぞ……!)
(このまま無視して、冷蔵庫抱えて逃げる!!)
固く決意した、その瞬間。
《――無応答につき、タイムアウト処理を適用します》
(はぁ!?)
《デフォルト選択【イエス】を採用しました》
(勝手に締め切るなァァ!!)
《『神の宝物庫』の権利を、エルフ村へ正式に譲渡します》
(誰が譲るって言ったァァ!!)
眩い光が冷蔵庫を包み込む。
地面へ神聖な紋様が刻まれ、冷蔵庫の表面にも淡く光る刻印が浮かび上がる。
所有権の譲渡。
完了。
「あ……。」
一太の顔から血の気が引いていく。
「あぁ……。」
冷蔵庫を見つめたまま、膝が震えた。
「俺の高級肉が……。」
「俺の酒が……。」
「俺の引きこもりライフがぁぁぁぁ!!」
その悲痛な叫びとは対照的に。
外から見える一太は、静かに目を閉じ、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた。
まるで――
何の未練もなく、大切な宝を未来へ託した聖人そのもの。
「おぉ……!」
「水谷様……!」
「水谷様ぁぁぁ!!」
エルフたちは感極まり、次々とその場へひざまずく。
「ありがとうございます!」
「この御恩は命ある限り忘れません!」
「あなたは我らの救世主です!」
「「「水谷一太様、万歳ーーーッ!!」」」
森を揺るがす歓声。
涙。
拍手。
熱狂。
そのすべてを浴びながら、一太の脳内だけが絶望に沈んでいた。
(違う……。)
(俺は救世主じゃない……。)
(被害者だ……。)
エルフたちの歓喜は止まらない。
冷蔵庫からは次々と食材が取り出され、村人たちの笑顔が広がっていく。
老人も。
子どもも。
母親も。
誰もが涙を流しながら食事を口に運んでいる。
その光景を見ても、一太の視線だけは冷蔵庫から離れない。
(……返して。)
(今ならまだ返せるよな?)
(返品ってできるよな?)
《――譲渡完了後の返品・返却はできません》
(業者かよ!)
エルフたちの歓声が、いつまでも森へ響き渡る。
その中心で。
聖人の笑顔を浮かべた一太だけが、心の中で静かに泣いていた。
**(……俺のニート生活、終わった。)




