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冷たい嘘

秘密だよ、と嗤った彼女が本当に笑っていたのか。

それを知るのはあの日彼女の手を握っていた自分だけなのだ。

流れる涙を網膜に焼き付けたのは侑斗ではなく自分だった。


その無垢さを憎み、羨み、そして憧れた。

嗚呼どうか、何も知らないままで。



***



ガタンと大きな音が隣の部屋の奥ーーキッチンから響く。

事務的に声をかけると、奈々美の無機質な声が聞こえた。

「お皿落としちゃったけど、割れなかった」

その下手くそな嘘を、見破ることはしない。

そういう約束を彼女としたのは自分だから。


シンとしたキッチンの中、何が行われているのかあらかた予想はついていた。

そして自分が愚者のふりをしてテレビに見入っていなくてはならないことも。

わかっていても、それでも。

テレビの音は突如うねり出したように鼓膜を激しく揺らし、こちらを責めているようだった。


全て知っている。

侑斗が怪しい毒物を研究室から拝借していたことも。

その毒物を持って、わざわざ厭んでいたこの田舎に帰京し、三人での卒業祝いを開いたことも。

侑斗が勘違いをしていることも。

奈々美が嘘を突き通すことも。

自分だけが、それを全て知っていた。

でも何よりやるせないのは、今の奈々美のポジションは自分でも差し支えなかったのに、侑斗が寄りにも寄って彼女を選んだことだ。

彼女が盲目的に自分を想っていたとも知らずに、恐らく彼は今、彼女の首に手をかけている。

「ごめん、ごめん…奈々美…」

謝罪の言葉は彼女への冒涜だと知っていた。

口にせずには居られなかった自分を、どうか許して欲しい。





昔から、大人には可愛くない子だと言われた。

閉鎖的な田舎では、噂という物が皆大好物だった。

人の噂も七十五日、と言うがそんな物は嘘だ。

噂に尾ひれが付き、足が付き、手が生え、虚飾された噂はいつまでも歩いている。

俺もそうだった。

気がつくと母親が居なかった。

優しい父親に母親を尋ねると、とても悲しい顔をされたので母の事を訊くのは悪いことかのだと理解した。

ーー椎名君の家、お母さんは?

ーーさぁねぇ、出て行ったんじゃない?

ーーもしかして男の人でも作ったんじゃ…

大人達の無遠慮な言葉が防がれることはなく、水を飲むように体の中に降り積もった。

このように奇異の視線を浴びるのが、もう一人。

それが奈々美だった。

彼女の両親は仕事が忙しく、幼稚園でも彼女の親が迎えに来ることは片手程の事だった。

ーーお二人ともお忙しいんじゃない?

ーーあら、またコンビニのおにぎりよ

ーーネグレクトじゃあないの?

ヒソヒソと話す大人達。

溢れもの同士仲良くなったのは必然だった。

奈々美と親しくなり、お互いの家に行き来するようになると、なんとなく奈々美の親の事が分かって来た。

彼らは奈々美と話す機会が極端に少ないため、彼女とどう接していいのか分かりかねた結果彼女と距離を置いているようだった。

とは言っても、奈々美の両親とは数回しか会っていないので、真相は分からない。

でも、確かに子供は大人の感情を敏感に察知するのだ。

奈々美は親に愛されないと思った。

俺は母親がもう戻ってこないと、そして大人達の興味本位な噂は続くだろうと感じた。

窮屈な生活の中にある日突然変化は訪れた。


「ゆーとです」

そうはにかんで挨拶をした男の子。

お向かいに引っ越してきた一家。

奈々美と俺は嬉しかった。

新たな登場人物である彼らは、決して自分達を噂し、貶めなかったから。


「なんでそんなこと言うの?しいなもななみちゃんもいい子なのに」

大人達に心底不思議そうに首を傾げて問うた侑斗に、俺たちは心の底から感謝した。

美しい顔をしたその子は、真っ白な無垢さを以ってして俺たちを救い出したのだ。

俺と奈々美と侑斗は仲良くそのまま進学し、進級していった。



ーーけれど、幸せはある日突然狂い出す。

侑斗の父親が死んだのを機に、母親の気がふれたのだ。

夕飯時に響くヒステリーな泣き声。

見かねた父が助け出そうとしたが、侑斗は頷かなかった。

「俺がいないと、母さん、死んじゃうから」

奈々美と俺がどれほど説得しても無駄だった。


「奈々美、まただよ、行こう」

夜の八時。

三十分程続いた泣き声と物音が止み、それまでの喧騒が嘘のように静まり返る。

それを見計らって奈々美に電話を掛けるのが俺の役目だった。

「どれ位だった?」

「三十分位…」

「今日は…短いね…」

何処か見当違いな奈々美の返答も、感覚が麻痺していたあの時は全く気にならなかった。

翔子さんは部屋の隅でさめざめと泣いていて、俺はそれを無理やり寝かしつける。

なんでも俺の声が死んだ旦那に似ているらしく、俺の言葉はある程度言うことを聞いた。


泣きながら帰路に着く奈々美の手を握りしめて、百メートルの距離を歩いた。

奈々美は何も言わず涙を流していたし、俺は慰めることなく、ただ手を握った。



事件が起きたのは大晦日だった。

その日、侑斗は塾に課題を忘れたらしく、午後七時になっても帰宅していなかった。

俺が外に出たのは本当にたまたまだった。

なんで外に出たのか、もう理由も思い出せない。

目の前の家から、翔子さんが顔を出した。

裸足のままの彼女に危険を感じて声を掛ける。

ぼんやりと虚ろな瞳をした彼女を二階へ運んだ。

ーーそう、それから。

突如、細腕からは想像できない程の力で引っ張られた。

翔子さんにーー幼馴染の母親に、ベッドに押し倒されている状況を飲み込めるほど器用ではなかった。

耳元で、彼女が必死に旦那の名前を呼んでいるのを聞いて、このままではマズイと思った。

ポケットを探って指の感覚だけで携帯の履歴を当て、奈々美に電話を掛けた。

ーーそうだ、彼女は今日熱があるんだ

そう気付いたのは、電話を呼び出して二十秒後。

翔子さんが虚ろな瞳をこちらに向けて、俺のボタンに手をかけた時だった。

「翔子さ…おばさん…っ‼︎やめろってば‼︎」

狂っている。

こんなの狂っている。

必死に抗うのに、彼女は異常に強い力で反抗する俺の手首を掴んだ。

「なんで…ねぇ、なんで私を置いて…嫌よ…一人は嫌…」

「一人って…侑斗がいるだろ‼︎」

「…んなの…()()()()代わりにもならない…っ‼︎いらない…‼︎‼︎‼︎」

そう叫んだ彼女の背後に居たのは、青白い顔の侑斗だった。


そこからの惨劇をなんと言おうか。

彼は母親を床に押し倒した。

頭を強く打った衝撃音が響く。

彼の手のひらが母親の細い首に巻きついて、食い込んで、そしてーー


母親は、とても幸福そうにその瞳を閉じた。


「あ…あ……あぁぁっ‼︎」

侑斗の叫び声でハッと我に返る。

自分でも驚くことに、次にした行動は奈々美を呼ぶことだった。

奈々美はすぐに状況を理解した。

「いらないって…あんなのいらないって…そう…母さん…」

どうしてーーと消え入りそうな声で泣く侑斗を奈々美は一度抱き締めた。

「……火を、火を、つけよう…全部燃やすの…」

俺と奈々美が灯油を蒔いた。

ライターを落としたのは、奈々美だった。

ストーブを二階の寝室に置いて、そこから出火したように見せる。

俺たちは誰も家にいない奈々美を看病していた、だから火事に気づけなかった。

ーーそういう事実を、作ったのだ。


内緒だよ、と言われた侑斗は倒れこみ、三日間入院したが、まるまる二年の記憶が無くなっていた。


彼女は言った。

「椎名、これも秘密だよ。侑斗は母親を殺してなんてないの。これは事故なの」

「…もしバレたら?犯人だと疑われたら?

侑斗も馬鹿じゃないよ、いつか気付くかもしれない」

焼けた侑斗の家の前、手を取り合ってそれを眺める俺たち。

手のひらを強く握りしめたのは、奈々美だった。

「そうしたら…そうね、きっと私たちのどちらかが犯人になるんだわ」

そして彼に復讐されるの。

彼女はどこかおかしそうに嗤った。

あの日、炎を見上げながら、縋るように俺の手を取り、涙を流した彼女はもういなかった。

狂っている。

皆、皆狂っている。

「そうだな、うん。それがいい」

そして、この言葉に頷いた俺も、狂っている。




キッチンから小さな泣き声が聞こえる。

侑斗の、声。

「侑斗?」

平然と声をかける。

結末は分かっているので、声が震えたりなんてしない。

「…なぁ、椎名…?」

リビングに現れた侑斗は憔悴仕切ったように、瞳だけが鈍く光っていた。

「母さんは…焼け死んだんだよな…?」

「…あぁ、そうだよ」

「本当に?なぁ、本当は、」

「本当だよ。俺が嘘を付くわけないよ」

にこやかにそう言い切る自分に反吐が出る。

侑斗、無垢で愚かな侑斗。

「…なんで、椎名泣いてるの」

愚かな侑斗。

瞳から溢れるのは涙だけじゃないんだ。

これはきっと、キッチンであの日の翔子さんのように幸せそうに死んでいるであろう奈々美の、届けなかった思いだ。

思いが感染して、俺の目から溢れてるだけだ。



「侑斗、寝な。疲れただろう」

「椎名…椎名、俺は、」

「いいから。何も言わなくていいから」

侑斗がソファーに倒れこむ。

彼は自分も泣いていることに気づかないのか。


無垢で馬鹿な侑斗。

その無垢さを憧れ、羨み、憎んだ。


「奈々美は、お前が好きだったんだよ」

寝顔にそう呟いても、彼の耳には届かない。

幸福な夢を見ている、彼には。

そして俺は電話を手に取った。

俺の父親は去年死んだ。

愛した幼馴染は、この無垢な天使に殺された。

守るものはもうない。

「椎名、遊ぼう」と、手を差し出した彼女は、俺の手を握りしめた彼女は、俺が彼女を好きだったことなんて知らないんだろう。


愛した彼女のために、あの日、俺たちを救った彼のために、俺も最後の嘘をつこう。


三つのボタンを押す。


「人を、殺しましたーー」




願わくば、彼が絶望しますように。






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