鳴らない長音ー振り返ればヤツがいる
クリスタニアは、静かに航路に乗りました。
ですが、すべてが順調というわけではありません。
海の上には、避けられない出会いもあります。
約二か月後、すべての準備が整い、ブルーリッジ・サガは「クリスタニア」としてニューヨークを出港することになった。
売却の話はすでに広まり、出港の日、埠頭には多くの人が詰めかけていた。新たな持ち主のもとへ旅立つ船を見届けようとする者たちで、岸壁は賑わいを見せている。
船内には、ハリスから贈られた白薔薇が静かに飾られていた。船旗と社旗、そして日本国旗が掲げられ、ゆるやかな風に揺れている。
やがてクリスタニアは、静かに岸壁を離れた。
こうして、数週間に及ぶ航海が始まる。
航海はおおむね順調だった。
各種データの取得、機器の調整、システムの確認。細かな作業は続いたが、大きな異常は見られない。クリスタニアは、リヒトの操作に対して驚くほど素直に応答していた。
その変化を、誰もが感じていた。
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だが、ある日。
水平線の向こうに、大型船の姿が現れる。
DMCの船、プリズナー。
その船影を認めた瞬間、クリスタニアの挙動がわずかに変わった。
コンソールの反応が、ほんのわずかに重くなる。数値には現れないほどの差だが、確かに応答が鈍い。
リヒトはそれを感じ取り、思わず小さく笑った。
「お前もか」
低く呟く。
「ああ、俺も嫌いだ」
通常であれば、互いの安全な航海を祈り、汽笛で挨拶を交わす。
だが、その日は違った。
どちらの船も、何も鳴らさない。
無言のまま、ただすれ違う。
その沈黙を破ったのは、無線だった。
英語の通信が入る。
“BMM, unidentified vessel. This is the Imperial Rose, Prisoner. May your future be… tolerable.”
(BMM、名もなき船へ。こちらは帝国の薔薇プリズナーだ。貴船の未来が、せいぜい耐えられる程度のものであることを祈ろう。)
艦橋の空気が、わずかに張り詰める。
日向は視線を外さず、短く指示を出した。
「返せ」
その声に感情はない。
「楽しみにしていろ、と。薔薇の棘は、奥深くまで届くと伝えろ」
通信士が英語で応答する。
“We’ll be looking forward to it. The thorns of a rose… tend to reach deeper than expected.”
(楽しみにしていろ。薔薇の棘は、その奥深くまで届くものだ。)
返答はなかった。
プリズナーは速度を落とすこともなく、そのまま通り過ぎていく。
日向はしばらく動かなかった。
その横顔には、はっきりと敵意が浮かんでいた。
クリスタニアは、再び静かに応答を取り戻していた。
まるで何事もなかったかのように。
DMCと日向キャプテンの間にあるものは、まだはっきりとは見えていません。
ただ、無関係ではないことだけは確かです。
BMMとDMCの因縁も、少しずつ輪郭を持ち始めます。




